「科学」という言葉がありますが、これはそもそもどのような性質を持つ言葉なのでしょうか?
一般的な解説を引いてみます。
一定の目的・方法のもとに種々の事象を研究する認識活動。また、その成果としての体系的知識。(中略)一般に、哲学・宗教・芸術などと区別して用いられ、広義には学・学問と同じ意味に、狭義では自然科学だけをさすことがある。サイエンス(デジタル大辞泉)
「哲学」「宗教」「芸術」。
なぜ「科学」は、これらのジャンルと分けて考える必要があるのでしょうか?
その理由について僕なりの考えを述べてみます。
まず「科学」とは、何かについて「検証」を重ねることで、最終的には「論理的な証明」や「実証」を「目的」に掲げます。
「結果」だけ存在するのはおかしいと思うからです。「結果」を成り立たせている「原因」を追究するのです。
「答えがあるはずだ」と仮定するからこそ、「検証」が行われるわけですから。
アインシュタインが「神はサイコロを振らない」と言い残したことは広く知られています。
世の中の全ての事象には、必ず普遍的な法則性があり、それらは人類の英知によって余すことなく「実証」できるはずだと信じていたんですね。
彼は「科学者」だったのです。
しかしこのことについては、現代科学における「量子力学」によって残念ながら否定されてしまいました。
一方、「科学」から除外された三つの大きな命題とは、どのような性質をもつのでしょうか?
これらの特徴は、その奥底を「論理的に証明することができない」という点にあるはずです。
「証明」というのは、「普遍性」の明確な裏付けです。
「科学」が「ある結果」について、客観的にその過程を分析し、解明することによって、普遍的事実を「実証」することが「目的」であることに対し、
「哲学」や「宗教」は、「科学」の掲げるような目的を「そもそも実証することができない」カテゴリーなのです。
それはもう難易度の問題などではなく、その言葉の概念が持つ「本質」なんだと思います。
では、一体どこまでが検証に価するのか?その範囲はどう定義されるのか、境界線はどこで引かれるべきなのか?
これを考えるのが「哲学」です。
もし、普遍的な法則性をズバリ言い当てることができたのなら、それはその時点で「科学」と言うべきでしょう。
要するに、「哲学」や「宗教」というのは、「答え」を模索し探求する過程そのものが「目的」であり、
そこに「普遍的な答え」を求めること自体がナンセンスなわけです。
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ウィトゲンシュタイン「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」
哲学者「ウィトゲンシュタイン」は、既存の哲学の常識を覆すような論を展開しました。
彼曰く、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と。
つまり、哲学や宗教というのは、言語で表現できる範囲を超えている、と言って「科学」との線引きを行ったのです。
例えば「善と悪」や「愛」というものも、言語で表現できる範囲を超えています。
これだ!という実証が、そもそもでき得ないテーマなのだと論じているのです。
概念の抽象度が高く、且つ、相対的な性質の濃いものを定義する場合には、どうしても個々人の主観性に強く依存された「答え」になってしまいますからね。
インドの聖人「ラーマクリシュナ」
もう130年ほど前に亡くなってしまいましたが、「釈迦」と同等の位まで上り詰めた「聖人」と認められている方ですね。
こんな言葉を残しています。
人は自らの信じる宗教を通じて神と一体になり得る。その時、自分の信じる神のみが正しく、他の宗教は正しくないとする考え方は誤りである。信者が自分の宗教の正しさを信じるのはいいが、他の宗教についてはわからないというのが最も自然な態度であろう。
「自然な態度」という表現は非常にしっくりきます。
バイアスを完全に払拭したならば、確かに「わからない」というが最も素直な態度なのかもしれません。
人は得てして、自分にとって合理的な考え方しかできません。利己的なんです。
利害を超えた公平な判断などできません。
フィルターを通した認識でしかなく、
それは、メガネザルみたいに「色眼鏡」が体の一部となっていて外すことができないのです。
顕正会や創価学会の「ニセ本尊」について。
「ニセ本尊」については様々な検証が行われた結果、
「私製である」というのは間違いないでしょう。
これは「検証出来得る」範囲なので、既に「実証」された揺るぎない事実です。
しかしその先の、
「だから利益がない」「魔が入り込んでいる」「作製することは罪か?」
などといった信条に絡む領域というのは、ウィトゲンシュタインの言う「語り得ぬもの」ではないかと思うのです。
「検証できる範囲」を超えているのです。
「それを拝んで生命活動を蝕むような事態に苛まれた経験がある」、あるいは、「そういった事例が比較的多く確認された」と。
しかし、果たしてそれは「ニセ物だから」と言い切れるでしょうか?
そのことが必ずしも「本尊」に起因するものであるかどうかは明確に「実証」できないはずです。
善か悪か?「動機説」
ある人の言動について、それが「善か悪」を決定付ける方法として、
「結果」に着目して、判断する場合が多いはずです。
これは「合理性」を重視する現代社会の構造が生み出した思考の傾向性であるかのように思えます。
あくまで「考え方」の提案に過ぎませんが、哲学の大家「カント」は、
「われわれが無制限に善とみとめうるものとしては,この世界の内にも外にも,ただ善なる意志しか考えられない」
という言葉を残しています。
「意志」が「善」であれば、結果的にその行為は「善」と言える、
とした、「動機説」です。
「動機説」を基に考えた場合、「本尊」を自作した本人の「意志」を問わなければなりません。
ここでは「牽強付会の説だ!」とか、「教義解釈が歪んでいる」などといった批判は一旦置いておきましょう。
ただ「善」なる意志に従って作製したのか、それとも「悪」の意志に従って作製したのか。
そのことが問題なのです。
もしかすると、ただ「私腹を肥やす」ことが目的だったかもしれませんが、真相は本人にしかわかりません。
しかし「大事なものを護るための止む負えない選択」というのは人間誰しもが、往々にしてあることではないかと。
命の底から「善」だと信じ、やむにやまれぬ思いで実行したことであれば、
強ち、それが「悪」だと言い切れないのではないか?とも思うわけです。
やっぱり「語り得ぬもの」なんですよ。
「宗教」とは、言い換えれば「教義解釈」です。
同じ宗祖、同じ経典の下に、色々な「宗教」があるということは、色々な「教義解釈」があるということです。
「宗教」は「検証できる範囲」を超えています。
「教義解釈」は「検証できる範囲」を超えているんです。
今回の内容は顕正会の偽本尊について遠回しに述べられているのでしょうか?