まだ法論で消耗してるの?「正しい」より「楽しい」選択で宗教論争に終止符を。

イケハヤさん、「武器」使わせてもらいま~す。

宗教戦争。そろそろ終わりにしませんか?

めちゃくちゃラディカルなタイトルですが、すみません、これは本音です。

まずは、この動画をご覧ください。

全部で1時間の長い動画ですが、趣旨は最初の5分くらいに集約されてます。

簡単に要点を絞ってみますと、

世間の多くの人の判断基準は「どっちが正しいか」である。

しかし、「争いごと」というのは必ず「どっちが正しいか」論争に起因する。

例えば、「共産主義が正しいか自由主義が正しいか」。

あまり「正しいこと」を考え過ぎると苦しくなる。

なぜなら、人はそんなに正しく生きてないから。

常に「正しいこと」ばかり意識して生きていると、次第に「自分はこんなに苦しみながら正しいことやってるのに」と、賛同しないやつを許せなくなる。

つまり、どっちが「正しいか」ではなく、どっちが「楽しいか」を選択の価値基準にするべきである。

ということですね。

話の中で、「国家や思想の話は例外。」と仰られてますが、

これらに加えて「宗教」という分野も含め、突き詰めて考えれば、全ては「人間関係の問題」の枠に収まるわけで、その根底に流れる原理法則は一貫しているはずです。

法論が招く争乱。「正しい」という矜持にどれほどの価値があるのか?

「法論」というのは、取りも直さず、宗教、宗派間に存する「教義解釈の是非」を明らかにしようというのが主たる目的でしょう。

他を否定するために乱用する「正しさ」は、争いを呼ぶだけでなく、場合によっては自分を苦しめるリスクを含んでいます。

自縄自縛。過去に自分が主張した「正しさ」、それによって得た「矜持」、確立した「立場」というものは、

後に、自分の自由な言動を制限し、

更には自分の「可能性」をも奪う頸木にもなりかねません。

日蓮正宗、顕正会、創価学会の皆さん。

「日蓮本仏論」を説く、いわゆる大石寺系教団の方々は、「折伏」(しゃくぶく)という方法で布教を行っていますね。

「折伏」とは「破折屈伏」の義で、

要するに、相手を論破し、自分の信じていた教えは「間違いだった」ということを解らせる。

概ね、そのような意味合いでしょう。

しかし解らせたからといって、相手はただちに改宗するのでしょうか?

そもそも人の信念、信条などというのは、必ずしも「正しい根拠」に立脚するものではないはずです。

法論が生み出すのは勝者と敗者。

それはつまり、それぞれに矜持と憎悪をもたらすだけであり、何か改善が図れるどころか、場合によっては禍根を残します。

言質を取り、理詰めにしたところで、それが建設的な議論とは到底言い難いでしょう。

有名な小樽問答に見る、多勢にモノを言わせた一方的な勝利宣言等、

所詮、信仰の世界ですから、正邪を明らかにしようなどという試み自体が不毛なのです。

釈迦の教え

最も古い仏典として知られる「スッタニパータ」には、釈迦の教えとして以下のような文言が残されているようです。

■かれらは「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えは清らかでないと説く。「自分が依拠しているもののみ善である」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執している。

■これらの論争が諸々の修行者の間に起こると、これらの人々には得意と失意とがある。 ひとはこれを見て論争をやめるべきである。
称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。

■「教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる」とは、わたくしは説かない。

「教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる」とも説かない。

それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)

■家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。

■世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過)があるというであろうが、かれはその(非難)を特に気にかけることはない。

それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

■争闘と争論と悲しみと憂いとものおしみと慢心と傲慢と悪口とは愛し好むものにもとづいて起こる。争闘と争論とはものおしみに伴い、争論が生じたときに、悪口が起こる。(スッタニパータ・「ブッダのことば」中村元氏訳)

(※正宗系観察日記より引用。)

折伏と摂受

と、ここで良く持ち出されるのが、布教の方法論と末法思想。

折伏については上述した通りですが、「摂受」とはつまり、

「相手が例え間違った宗教を信じていたとしても、一旦をそれを認め、徐々に正しい教えへと誘引していく」

といったようなものですね。

「今は末法であるから折伏でなければならず、摂受は間違っている」と。

「末法」とは釈迦滅後2000年以降の時代を指し、その頃には人間の心根が劣悪となるから、釈迦の説いた教えは人々に効力を失い、

更には布教の方法も、摂受から折伏へのシフトが求められると説きます。

開祖である「日興上人」も、

「末法に入って、法華本門を建てられざるの間、国土の災難、日に随って増長し、自他の叛逆、歳を逐うて蜂起す」

と仰っていますね。

しかしどうでしょう?

果たして、言うほど人心が荒んできているように思えませんが。

例えば、日本では戦国時代というものがありました。

平然と「乱取り」などが横行してましたし、戦に負ければ「さらし首」。

フランス革命では、国王であったルイ16世はギロチンで処刑されました。自分達の国王です。1793年、まだ割と最近の話です。

他にも、ホロコーストなどが良い例ですが、

これらは今、先進国と言われる国々の過去の姿です。これほどの残忍、残虐な行為が見られるのです。現代の倫理観からは到底考えられません。

色々な見方があるかもしれませんが、概ね、人々の精神性は徐々に「向上」してきているはずです。

三毒強盛の荒凡夫?

多くの戦争や災害を経験し、反省し、様々な対策が講じられ、

結果として、倫理、道徳観が培われ、生活の安全性も以前よりは増しています。

大体、釈迦が入滅した年代についても諸説ありますし、

そもそも「末法」という概念の絶対性が立証できなくなってますよね。

功徳の実証が即「破折」?

すると今度は、顕正会が言うように、「功徳があるから正しい」と始まります。

これは「幸せ度競争」みたいなもので、

ご利益があるということは、修行が仏説に適っていることの証。

ご利益が凄い方が「正しい」のだと。

この論理はあまりに稚拙で、他宗の体験発表とか聞いたことがないからよく知らないんですね。

更に、この「どちらがより正しいか」競争は、しばしば教団内の敬虔度を測る尺度としても用いられますね。

「ふ~ん、有難いじゃん。それも凄いかもしれないけどさ、でも俺はこの間もっと凄いこと功徳あったよ」(つまり自分の信心の方がより正しいと言いたい。)

みたいな。

って、要は「マウンティング」じゃないですか。

悲しいかな。内輪でも「正しさ」論争を展開してしまう顕正会員。

これ、創価学会でも見られる光景ではないでしょうか?

常に「是非」を追い求める意識は、「グレー」という概念や「多様性」を否定し、何事にも序列をつけたがる人格を形成します。

指摘や改善案を提起したとしても、前提としてトップの無謬性を強調する構造では、必然的に異論は排斥されてしまいますから、

つまらない喧嘩で片付けられ、結果的に改善に貢献しないまま、憮然とした感情や恨みだけが尾を引きます。

こういった体質が分派を生むわけですね。

主体性が大事

極論、「楽しい選択」というのは、主体的な価値観に基づいています。

一方、「正しい選択」というは、他人が設定した価値観に基づいているのであって、

これは主体性が失われた状態です。

教団が求める姿により近づこうという姿勢は、優秀な人材と映るかもしれません、

組織の中では称賛されるかもしれません。

しかし、それは同時に「他人を許せない」という狭い心情を生起し、

自分の自由や可能性も奪い、

思考パターンの二極化をもたらし易いという

多くの弊害も併せ持っています。

どっちが「楽しいか」。

必ずしも「正しさ」に固執する必要などありません。

苦しまず、「楽」(らく)にいきましょう。

「楽しい」と「楽」(らく)は同じ字なのですから。

まだ宗教戦争で消耗し続けますか?

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『まだ法論で消耗してるの?「正しい」より「楽しい」選択で宗教論争に終止符を。』へのコメント

  1. 名前:いおなずん 投稿日:2015/12/10(木) 18:17:42 ID:9b7e83572 返信

    こんばんは。
    「正しい」より「楽しい」なるほど。

    確かに顕正会に入信して二年目の時は当時の支隊内でまとまっていて、みんなで御奉公出来ていたころはその場に入れるというだけで楽しくなり「これが正しい、顕正会は正しい団体」と自負していました。

    ひょっとしたら、「楽しい」が続いていたらまだ顕正会員だったかもしれません。

    • 名前:ミミ 投稿日:2015/12/10(木) 23:48:19 ID:ad634f047

      いおなずんさんへ。
      こんばんは(^^)
      そうですね、僕も顕正会時代を振り返ると前半は楽しかったことが多かったです。
      尊敬でき、面倒見の良い先輩と出会い、遠方へ勧誘に赴くことも決して苦ではありませんでした。
      もし顕正会で楽しい思いをしていなければ、日蓮正宗への移籍もなかったと思います。
      顕正会が苦しいことばかりで、感動もなく、受け身で活動していたならば、
      会への帰属意識を喪失した時点で、同時に日蓮とも本尊ともおさらばです。
      顕正会脱会後、組織には属さないカタチで信仰してらっしゃる方もいますね。
      活動中におけるアイデンティティ成否、あるいはその性質が、各々のその後の信仰スタイルを決定付けているのだと思います。

  2. 名前:匿名希望 投稿日:2015/12/10(木) 19:28:18 ID:df6e2a066 返信

    そういえば、JALのマークと顕正会のマークってそっくりだけど、
    なんか、つながりがあんの?

    • 名前:ミミ 投稿日:2015/12/10(木) 23:49:02 ID:ad634f047

      匿名希望さんへ。
      何も繋がりはないですよ。偶然だと思います(^-^;

  3. 名前:ポリ銀 投稿日:2015/12/11(金) 16:21:49 ID:9d3e08374 返信

    お邪魔します。

    ミミさんのブログは楽しいです。

    楽しさって大切ですね。

    楽しくなければ人は集まりません。窮屈で息が詰まりそうな集まりに、人は寄ってこないです。勧誘の話ばっかりされても、人生に寄り添ってくれない宗教を必要とする人っているのでしょうか。

    思いっきりハマっている人のそばにいるだけでも疲れますよね。。。

    目をキラキラさせて熱く語られても。。。ついていけません。

    私はブログ以外では一切勧誘を行っていません。卑怯者呼ばわりされますが、押し付けたからって信仰心なんて湧きませんもの。

    結局、苦悩がなければ、藁をもすがりたくなる状況がなければ、日本人がマジガチ宗教なんかしようとは思いませんものね。子供の頃から公教育で一切の宗教教育を遠ざけられていますから、素朴な唯物論者か似非科学主義者ばかりが教育現場で生産されます。これはこれでおかしいとは思うのですけど。

    法論ほどつまらないものはありませんね。

    特に宗門史になると、日蓮正宗は本当に苦しいです。最後は相伝てことで終わりですから、信徒の側もそれ以上かばいようがないわけですよね。。。

    民度が低かった戦後日本で創価学会が急激に広まったことの余波。。。それが私の信仰観といいますか人生でした。

    日蓮宗側の資料が全て嘘なのか?
    学会の言い分は全てでっち上げなの?
    顕正会の戒壇論は義と事の取り間違い?
    本当に?本当に?日蓮正宗の教義は清廉潔白なの?

    宗門史を少し勉強してしまうと、それはパンドラの箱だったわけです。
    創価学会の信者や教学部員も、当初は我が目を我が耳を疑ったそうです。

    平成3年の破門騒動は深い深い意味を持った、大聖人様の御意志だったのではないでしょうか。争いばっかりの日蓮門下。これって現証ですよね?

    • 名前:ミミ 投稿日:2015/12/11(金) 22:07:06 ID:123faef3d

      ポリ銀さん。
      いつも有難うございます(^^)

      “楽しい”

      有難うございます。
      組織の拡充を考えたとき、プロモーションは重要です。
      僧侶一人一人がマーケターになっていかないと、社員が率先して集客しないと、資本主義経済の大波には勝てませんよ。
      思うんですが、大石寺の奥の方の余ってる広大な敷地、もっと創意工夫して信徒が楽しめる場にでもならないものかと。

      “目をキラキラさせて熱く語られても。。。ついていけません。”

      いました。顕正会時代に話の中でいきなり登壇しちゃう人w
      ○○でアリマスッ!っていきなり決意述べられても「えっ?」となります。
      あと上長な話を滔々と語り始める人。「あんたの功徳話なんか聞いてねーよ」となるんですが、こっちもニコニコしながらウンウンと聞かなければならないという暗黙のルール。

      “私はブログ以外では一切勧誘を行っていません。卑怯者呼ばわりされますが、押し付けたからって信仰心なんて湧きませんもの。”

      むしろそれが最善ではないかと!寺院の権威が世間的に地に墜ちている時点で、宗教勧誘の機運も失われてる感じがします。もっと有益で楽しいコミュニティーは身近に沢山ありますし、情報も簡単に手に入る。昔の様に学識を求めて僧侶を尋ねる必要がないですもんね。需要の幅が限りなく狭い中で、布教の手段も考えなければなりませんよね。正宗寺院のHP一通りまとめましたが、あまりCMS化という概念がないようなので…。将来展望はお察しくださいですね。すると折伏対象はネットすら自由に使いこなせないリテラシー低の方々になってしまい、そういった方々が人的資源として組織の拡充に貢献するのかといえば、そこらへんもお察し下さいですね。

      “教育現場”

      プログレ教育で、多彩な宗教文化に触れさせて、宗教性を養わせるというのもアリですね。世俗化してるのは先進国、とりわけ日本で、世界に目を向ければ宗教人口増えてますから、一神教に対する理解を深めてグローバル人材増やそうみたいな。

      “法論ほどつまらないものはありませんね。”

      見ている方は笑えてくる面白さがありますが、もしかしたら一番つまらないのは本人たちではないでしょうか?負けた方は言わずもがな。勝った方は記事に書いたように自分の足かせになるんです。小樽問答の「ワー!」となっているところとか追加で添付しようかなと考えてます。もうワケワカラン状態。法論なんて極論、ただの喧嘩です。

      “大聖人様の御意志”

      そういうのは僕もそれとなく信じてます。流れには抗えないわけだから、あとは時代の波にどううまく乗っていけるかではないでしょうか?組織も個人も。

  4. 名前:濱野 裕子 投稿日:2016/01/27(水) 18:55:12 ID:735c76e0f 返信

    ミミさん、はじめまして。我が家のポストに顕正新聞が入っていたのがきっかけで、調べごとをしていたら、こちらのサイトに辿り着きました。
    私は、元創価学会員の法華講員です。

    いくつかの記事を読ませていただきましたが、いろいろよく考えられておられることが伝わって来ましたし、私も「わかる」と思う部分も多くありました。

    私も、お寺の体制等について、納得のいかないことがいくつかあったので、直接、講頭や青年部長、婦人部、御住職様、副御住職様のそれぞれと話し合いの機会を設けてもらいましたが、結果として「出る杭は打たれる」といった具合で、まともに相手にしてもらえませんでした。「自ら仏様を求めてやってくる熱心な信者以外の信者の意見は聞いてくれないんだ」ということを感じました。

    私の訴えは、ミミさんがブログで上げているような問題点のことです。風通しの悪さというか、何か意見を言えば「十四誹謗の〇〇に当たる」等と言われる、脅しや不安を煽るようなことを言って折伏やお寺への参詣を促す人がいる、それによって、トラウマになってしまい、活動しなくなってしまった方々が多くいると言ったような旨の話をしました。
    さらに講中を良くしていくためには横の繋がり、連携プレーやチームワークができたほうが良いのではないか?等を提案させていただきました。

    それに対して、御尊能化様でいらっしゃる御住職様だけが、私の意見を真剣に聞いてくれて、自らの非を認め、「私達もついつい、相手に対して酷いことを言ってしまうことがある。本当に申し訳なかった。」と深々と頭を下げて謝られました。そして、「私達も全員凡夫であるが故に大変難しい問題ではあるけれども、難しいからやらないのではなく、改善していかなくてはいけないね。」と仰られました。直談判した私のことを「大変立派だ。良いところに気がついてくれた。ありがとう。」と褒められ、感謝されました。
    かなり風当たりはきついですが、こちらの姿勢次第で、相手側を変えていけると思っています。

    ところで、こちらの法論についての記事を拝見させていただきましたが、私は意見が違いますので、私の意見をお聞きください。

    私が昔言われたことですが「「理詰め」では、相手を折伏成就することはできない。」ということです。日如猊下様の御指南です。法論も「理詰め」ではダメだと猊下様は仰っておられるのです。慈悲行である折伏行をカン違いされている方々が多いってことです。しかし、物事を論理的に考え、わかるように相手に伝えることも大事なことです。

    日蓮大聖人様は「今の時代は折伏を用いなさい」と仰られています。上記の記事だと、日蓮大聖人様のご意向に背くものになってしまいますよね?

    要は、法論のやり方や姿勢の問題ではないですか?

    正しい信心=正しい仕事のやり方、として捉えるとわかりやすいかと思うのですが、もし、自分の職場に、仕事熱心で真面目で誠実な人であるけれども、肝心の「仕事のやり方、ルール」を間違えている人が大勢いたら、どうなるでしょうか?しかも、各自それぞれ、自己流のやり方や考え方を用いていて、「自分が一番正しい」と思っているのです。

    料理で例えれば、昆布は水のうちからお鍋に入れて、沸騰直前に取り出さなければ、美味しい出汁は取れません。しかし、思い込みや決めつけで「沸騰したお湯に昆布を入れて、グツグツ煮込んだほうが美味しい出汁が出る」と思っている人がいたとしたら?
    そのお店のお出汁は美味しくなりません。しかし、厄介なのは、それなりに食べれるものが出来上がってしまうんです。

    折伏とは、「昆布は水のうちからお鍋に入れないといけないよ」「グツグツ煮込んでしまってはせっかくの旨味が台無しだよ」と、正しいやり方を教えてあげる、導いてあげることと同じことです。なぜそんなことするのか?ずっと、不味い出汁のお汁を出し続けていたら、支障が出るのはそのお店だし、オーナーシェフ自身だったりするわけです。なので、そうならないために、勇気を振り絞って、相手の間違いを正す。本当に美味しいお汁を出せれば、自分も幸せですし、お客様も幸せです。

    それなのに、それぞれが自らの非を認めることがなかなか出来ません。自分(達)のことを守りたいから、自分(達)が優位でありたいからですよね。
    日蓮正宗の信心に縁することが出来た人達でさえ、我見に執れ、自らの浅い知恵を軸に信心をするから、いろいろな誤ちを犯すのです。

    客観的な視点を持って、穏やかに法論を行えば、どちらが正しくて、どちらが正しくないのかは一目瞭然です。しかし、それぞれがそれぞれの感情や先入観、願望等を交えて解釈するものだから、法論が不毛なものになってしまうんですよね。

    ミミさんも、今一度よくお考えになってくださいね。
    長文失礼致しました。

    • 名前:ミミ 投稿日:2016/01/27(水) 22:11:26 ID:39b5a6cd1

      濱田裕子さんへ。
      初めまして(^^)非常に長い貴投稿を拝見し、やや浮き足立ってしまいました(^-^;
      でもありがとうございます。で、折角なので感想を書かせてもらいます。
      まず、

      “正しい信心=正しい仕事のやり方”

      とありますが、
      仕事という概念と類推するならば、

      “正しい信心=仕事に対する正しい認識”
      “正しい行体(信仰活動に関連したその宗派が励行する具体的な行動の規範)=正しい業務(各企業の方針や社内規定等に則った)”

      と置き換えた方が適切かと。(念のため齟齬が生じないためにも。)
      で、

      “肝心の「仕事のやり方、ルール」を間違えている人が大勢いたら、どうなるでしょうか?しかも、各自それぞれ、自己流のやり方や考え方を用いていて、「自分が一番正しい」と思っているのです。”

      についてですが、これは間違えていると思うのは自分の主観であって、相手からしたらあなたの方が間違ってると思われてるかもしれません。
      そして、このことは是非に及ばず現実です。
      で、料理の話ですが、
      「美味しいか美味しくないか。」とは、これもまた主観でしかなく、
      「美味しいと思う人が多い味であるかどうか」の方が適切かと。
      しかし、それでは美味しいと思わない人は間違っているのか?という話になってしまいますが、それはそういった価値観を受け入れることが出来るか出来ないかの問題になります。
      お店が、濱田さんが到底美味しいと思えないようなお出汁を出して、舌鼓を打っているお客も世の中には沢山いるかもしれません。
      で、折伏とは、もし相手が間違った教えを信じていた場合、否定をするのが本来の在り方ではなかったですか?
      第一義を示すのは勿論そうなのですが、その前に邪教を寛容に受け入れてしまったら与同となる。物腰柔らかに、諄々に説いてあげたとしても、結局はその教えは間違ってる、こっちが唯一正しいと言いたいのだから、率直に伝えるか、まわりくどく伝えるかの違いだと思います。
      で、その精神を根幹とした議論が「法論」です。明示された規範に近いか遠いかの是非を争うとなれば、それは内部のみでしか通用しない価値基準に則った議論の域から出ることはないわけで、
      法論や折伏は外に対する行為ですから、価値基準の違う者同士のやり取りに他ならず、
      大げさなことを言えば、野球とサッカーの試合を同時に行うようなもので、それはもうカオス不可避です。
      これでは、どのような方法を以てしても「不毛」にならざるを得ません、残念ですが。
      では大聖人自体を否定するのかといえば、そういうわけではなく、
      議論に持ち込める材料や、情報環境の条件に、当時と今では大きな差異があるよって事を言いたいのです。

  5. 名前:濱野 裕子 投稿日:2016/01/28(木) 00:56:03 ID:82791d71e 返信

    ご返信ありがとうございます。
    宗教は、主観で正しいとか間違っているとかという問題で決めることではありません。
    その仕事のやり方が、自分が間違っていると思う・思わない、ではなくて、例えば、レジで返金が出たときに、ただお金をお客様に返せば良いのではなくて、手順や約束事がありますね。
    現金でのお支払いのときは現金で、クレジット払いであれば、もう一度クレジットカードをお借りして返金処理を行うとか。返金したレシートの控えに、日付、レジ番号、取引番号、返金した理由、再取引番号を書くというルールがあるとして、自分の勝手な判断で、クレジットだけど現金で返しちゃった、日付は書かなくていいや、とか、あるいは、勘違いで、元レシートの取引番号と再取引番号を間違えて書いて提出してしまったら、経理の人は混乱してしまいますよ。上の人に怒られてしまいます。
    円滑に処理をするために必要事項を書かなくてはいけないところを、各自の裁量で書いたり書かなかったりというのは、「主観で正しいと思う、間違っていると思う」の話ではないですよね。
    しかし、正しいやり方で処理を行い、必要事項さえきちんと書いてあれば、レシートのどの場所に、どのような形で書いてもそれは、人それぞれ、自由でいいのです。

    この「正しくしなければいけないところ」と「各自自由で良いところ」をそれぞれがバラバラの認識を持ち、誤った解釈をして、さらに煩悩を持って、人生を送っているので、人々に数々の混乱が生じ、争い事や貧困、病苦、人間関係の悩み等、様々な理由で苦しみ喘いでいるのです。
    なので、「この仏法が正しくて、他は間違っているんだよ」ということをお話しするのが、法論なのだと思っているんですが。

    あと、昆布の話ですが、表現が足りなくて申し訳ありませんでした。語弊が生じてしまいましたね。ちなみに、昆布の話ですが、通常の味覚の持ち主であれば、正しい出汁の取り方で取った出汁の方が美味しいと答えますよ。2つ並べて、飲み比べたら全然違います。外国人でも同じです。

    折伏とは、仕事で言えば、「そこ、間違ってるよ。何故なら…」って教えてあげることと同じです。やみくもに相手を否定することではありません。それを素直に聞いて、直そうとするかしないかは相手次第ですよね。勝ち負けの話でも、貶し合いでもないですよね。
    野球とサッカーの試合を同時に行うようなものっていうくだり、私にはちょっと意味がわかりません。頭悪いんで、申し訳ありません。

    • 名前:ミミ 投稿日:2016/01/28(木) 23:25:10 ID:ea9dbcb4a

      濱田裕子さんへ
      前半部分についてですが、それはそのルールが通用するフィールド内に限定された話だと思うんですよ。
      天台智顗の教相判釈が正しい価値基準として機能するのは、せいぜい日蓮を本仏と仰ぐ大石寺系教団の枠内に収まってしまうはずです。
      なので、まず相手が国内の既成仏教徒であれば、末法思想という根っこの部分から通用しません。
      法華経第一義も通用しません。扱う御書の真偽というルールからして、既に大きなズレがあるのですよ。
      「お釈迦様はいつ亡くなったのかなぁ~?」
      上座部相手なら如来蔵思想すら通用しませんよ。「諸行無常なのに変わらない真理とか仏性とは何かなぁ~?」
      ヒンズーに至っては、創唱の釈迦は仏ですらない。「牛を食らう卑しい者などとは宗教の議論など以ての外!」

      “勝ち負けの話ではない”
      これはびっくりしました(^-^;
      負けなら、それはそれでありなんですね(^-^;

  6. 名前:jvx-c 投稿日:2016/01/28(木) 22:31:07 ID:f3d726512 返信

    ミミさんへ
    御無沙汰しております。
    いつも拝見させて頂いております。

    濱野 裕子さんへ
    失礼を承知で横槍をいれさせて頂きます。
    ミミさんとは違うお考え、大変興味深く拝見させて頂きました。
    しかし、恐らくは分かりやすくする為とは思いますが、例え話に拘泥しすぎて逆に濱野さん御自身のお考えが見え辛く感じましたので、意見させて頂きます。
    濱野さんの信仰とは、レジとか昆布等に簡単に置き換えられるものなのですか?
    知り合いの顕正会員も仏法を薬等に例えたがる傾向があります。
    そもそも裕子さんにとって信仰というものは安易に日常の事柄に収まる枠内のものなのか?という疑念が湧いてしまいます。
    濱野さんが御自身のお考えがどのように正しいかを示さずに、自分は正しい返金処理とか出汁の取り方をしている立場にいる前提で御意見されているように見えてしまいます。
    また、”通常の味覚の持ち主であれば、正しい出汁の取り方で取った出汁の方が美味しいと答える”とありますが、通常の味覚=大多数の人間=正しいと言うことですか?信仰は多数決では無いと思いますし、また、美味しくないと感じてもそれは間違っていることにはならないと思いますが。
    濱野さんのお考えを否定したいのではありません。
    多少分かり辛くとも、御自身の言葉でどのように正しいのか、何が間違いなのか書いて頂くと私のような特定の宗教に属さない人間にも伝わりやすいと思い、僭越ながら意見させて頂きました。

    • 名前:ミミ 投稿日:2016/01/28(木) 23:43:55 ID:ea9dbcb4a

      jvx-cさんへ
      お久しぶりです(^^)いつもありがとうございます。

  7. 名前:濱野 裕子 投稿日:2016/01/31(日) 01:55:54 ID:c16b4f1ee 返信

    jvx-cさん、ご意見ありがとうございます。
    ご自身の言葉でどのように正しいのか、何が間違っているのか、書いてくださいとのことですが、私は、ミミさんが法論に関して、根本的に勘違いされているように思えたので、それをわかりやすくするために、身近なことで例え話をさせていただいたのですが。

    私の捉え方は、仏法の理屈をイメージ化して捉えているので、レジとか昆布のような話になってしまうんですね。なぜ、そういうお話に置き換えているかなんですが、信仰って結局、日常の事柄に収まる枠内で説明できると思っています。目に見える物質の世界も目に見えないものの世界も、同じ法則の上に成り立っているだけの話であり、神仏だけがいきなり特別だとか、偉大だとかじゃないんです。
    そして、何より私自身がそんなに頭良くないんで、仏法の難しい話のままだと覚えられないので、日常の生活の○○と仏法で説いている△△は○○と同じだ、というふうに捉えているんです。

    正しい仏法では、「信心即生活」とか「仏法と世法は同じ」等と言います。なので、仏法の難しい話を日常の事柄で話しても、私は同じだと捉えているんですね。私の感覚では、信じる信じないの話ではなくて、日蓮大聖人様の仏法で説かれていることは、現実の世界での出来事とただの同じだと思うことばかりなんですね。

    通常の味覚=大多数の人間=正しい、とありますが、私の感覚では、通常の味覚=正しく味が認識できる=正しい、であり、通常の味覚ではない=味覚障害=正しくない、という意味で書いたのですが、伝わりにくかったですか。申し訳ありません。
    そもそも、でたらめな調理法で調理されたものと、正しい調理法でなされたものが出されたときに、でたらめな方が美味しいという人の味覚は正しいと言えますかね?昆布だったら、生臭かったり、ぬるぬるしたり、雑味が出たりするんですよ。
    ある特定の味が強く感じたり、弱く感じたり、何も感じなかったりする人の味覚は正常って言えますか?しかし、味覚に「異常」があったとしても、人として「異常だ」とは非難はしていないですよ。

    末法の人間は、煩悩と謗法によって命が汚れている(五濁悪世)ことにより、味覚で言えば、味覚障害のような状態が生じている人々が大勢いますよ、ってことです。
    元々の命の部分で障害が生じてしまっている人々が、自分の歪んだ認識や考え方が正しいと思い込んでいるわけです。そのそれぞれが「我こそが」「我こそが!」っていう感じになってるんですよね。私はそのように捉えています。

    まず正しい仏法とは、お釈迦様がこの世の中の法を正しく説いたのですが、衆生の機根や時代が異なることにより、仏法を用いる方法が変わりますので、お釈迦様が、正法時代・像法時代までを担当され、末法時代は日蓮大聖人様が、その教えをしっかり引継いで、法華経を末法時代仕様にされた(南無妙法蓮華経を説かれた)わけで、客観的に見て、最も高く深い教えを用いているのです。

    そのことを多くの人々にわかってもらうために、「間違っているものは間違っている」「正しいものは正しい」という話をするのが折伏であり、法の内容を論じるのが、法論です。正法の基準に反する人達は、正論をぶつけられると、論理的に反論できなくなるがために、嫌な気分になって、相手を否定したり、非難してしまうわけです。

    なので、正しい信心をしている側も、相手に対する言動や振る舞いを気をつけなければいけません。こちらが正しい=勝ち、というものではありません。
    あくまでも、相手の立場に立って、相手の正しいところは認めます。しかし、相手の間違っている認識は正す、気づかせるようなやり方が求めれるのです。

    私の返事が、jvx-cさんのご希望に添えるものであるのかわかりませんが、私なりに答えたつもりです。

    今回のようなご指摘をいただき、ありがとうございました。私は、物の伝え方が上手だとは言い難いですので、とても有難く思います。感謝しております。

    • 名前:jvx-c 投稿日:2016/02/01(月) 00:38:27 ID:89925006b

      濱野さんへ
      お返事有難うございます。
      濱野さんのお考えを読ませて頂き、改めて思う所ありましたので、再度意見させて頂きます。

      確かに、自身が難しい理屈を、日常の事柄に置き換えて捉える事は理解の助けになる事は同意できます。
      但し、それをそのまま他者へ伝えようとすると、誤解を生じやすい事も念頭に置く必要があります。

      一つ例を挙げますと、昆布の話です。(しつこくてすみません)
      私は味の嗜好の相違についてと捉えておりました。
      今回のお返事に”味覚障害”とありましたから、濱野さんとしては味蕾が味(塩味・酸味・旨味等)を正しく認識出来ないことをもって通常の味覚でないと定義したものと理解しました。
      味の”嗜好”と”味覚”は切り離す必要があると思います。
      生臭いものを生臭いと感じられないのは味覚障害=異常かもしれませんが、生臭いのが美味しい、または不味いと感じるのは嗜好の相違であり、異常ではありません。
      生臭い・雑味=美味しくないというのは濱野さんの先のコメントにあった”先入観”、または単なる嗜好に於ける多数派、と言えるのではないでしょうか?
      更に付け加えますと、昆布の出汁取りは水出しが最善であり、”煮出す場合には”沸騰させないこと、が和食の基本となっております。
      但しこれも純然たる旨味抽出のみに拘れば、という前提ですので唯一絶対の正解とも言い切れませんが。

      例え話にここまで噛みつく自分もどうかとは思いますが、他者に例として挙げる際に例え話の物事の置き換え方におかしい部分がありますと、本当に大元となる仏法を正しく理解しているのかな?等と邪推されやすいのではないでしょうか。
      せっかく正しい教えがあったとしても、正しく伝えられなければ、伝えられた側にとっては間違った教えとなる恐れがあるからです。

      揚げ足取りばかりで不快な思いをさせてしまい申し訳ありません。
      少しでも参考として頂ければ幸いです。