先日、顕正会の会館に「本尊を安置する必要がない」と思う理由についてお話しましたが、
その要点について少しばかり振り返ってみたいと思います。
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Index
1、二大秘法じゃ仕方ない。
まず、「大御本尊と直通」という彼らの信条を忖度し、立脚した場合、
遥拝であれば、即ち、その場は「義の戒壇」となり、教義的矛盾無く、三大秘法の実践ということが成立するが、
会館、及び自宅拠点安置の本尊と、戒壇本尊との関係において、その紐帯としての位置付けを示す教義が欠落している以上、
戒壇本尊との直通に該当しないケースでは、その形態の中に「戒壇」の義を見出すことができない。
つまり、戒壇義の欠陥を解消して、
キチンと系統立てた教義を再構築したいのであれば、「遥拝」の一本化を図るべきだ。
ということ。
2、妙縁寺にそんなに大量の本尊があったわけないでしょ。
それから、会館安置の本尊、及び、自宅拠点に下附に充てる本尊を、
「妙縁寺に秘蔵されていた数百幅の中の何れか」
であるとして、その絶対幅数が超過している現在の状況について一切の釈明を加えることなく、事実を隠ぺいし続ける。
そこへきて、更に、拠点の拡充が推進されることにより、その欺瞞体質はより粗悪な状況を呈していく。
その面の皮の厚さといったら、まさに「毒食わば皿まで」。
執行部に対する、会内部への信用を失いたくなければ、
早々に自前のコピー品であることを公言すること。
しかし、その気は無いようなので、だったら潔く、本尊を撤去するのが筋である。
ということです。
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自宅拠点拡充に伴う、本尊大量配布の意図。
今回、浅井会長が大々的な自宅拠点の拡充に乗り出したのは、他でもなく、
「広宣流布をダイナミックに進めるため」
としていますが、要は、
入信勤行を行える場所を増やすことで、その儀式のために、わざわざ現場から遠出させる負担を軽減させ、
勧誘の成約率の向上を果たすための、いわば「インフラ整備」なのだと言いたいわけでしょう。
ただし、穿った見方をすれば、本尊下附と同時に仏具セットを販促することで、一儲けしようという肚が前提にあり、
さらに「入信報告書偽造」の首謀者の頭数を増やし、「虚偽の報告」を暗に提起することによって、
勧誘成果に下駄を履かせ、これを「空前の折伏成果!」などと内部に向かって喧伝すれば、
活動家たちの自己効力感の向上にも貢献する、との副次的な目論見も潜んでいるものと思われます。
そこらへんについては、過去に詳しく書きましたので良かったら参考に↓
自宅拠点の増設と本尊の増刷。経机や過去帳の販促の意図を探る。
聖域としての会館。
「本尊は、要らない」
なぜ、僕がそういう極論に辿り着いたのか?
確かに、会館に足を運び、本尊を拝することで、視覚から信仰心が喚起され、
そこに安堵感や恍惚感などといった、信仰の醍醐味が得られることは一切、否定しません。
雨の日も、雪の日も、会館の本尊はいつも変わらずそこに座し、圧倒的な存在感で勇気と確信を与えてくれました。
時には、向かう道中、くつの中がびしょ濡れになっても、凍えるような寒さに身が悶えても、
本尊を拝した途端に、苦労は報われ、その包まれるような温かさは、貴重なひとときと、救いをもたらしてくれました。
足繁く通った思い出は、今もなお鮮明です。
会館を、本尊を汚すな!彼らのピュアな信仰心を唾棄するな!
しかし、
あくまでそれは「会館に赴かなければ得られない体験」だったわけで、
今回、会長が打ち出した、「事実上、全会員に下附」という方針は、
従来保たれてきた、参詣の有難味や、本尊の価値そのものを「ぶち壊す」ことに繋がるのです。
モノやサービスは、市場に出回る数が増えれば増えるほど、相対的に価値が低下していくように、
無制限に本尊をばら撒けばばら撒くほど、希少性の意味で、有する「宗教的価値」は失われていきます。
信仰団体というのは、本尊に対する信仰の下に結束が成り立つべきであって、
その本尊への信仰心を虚弱にさせることは、やがて組織の崩壊をもたらします。
つまりこれは彼らにとって、決して賢い選択だとは言い難いわけです。
しかし、眼前の窮状を打開するためには、本尊を刷り続けるしかない。
もう「欺瞞の肥大化」という回り始めた歯車を止める術はないでしょう。
欺瞞体質は沢山の悲劇と怨恨を生み出します。ネット上に蔓延する、脱会者による嵐の様な罵倒は、そのことを如実に物語っています。
ならば、全く逆の発想で、
「本尊など無くしてしまえば良いのです。」
「大聖人は、特定の人間の利己心や我欲のために、本尊を書き残したわけではない!」
本尊も浅井さんも「飯の種」になるくらいなら、その身を隠すことを望んでいるかもしれませんよ?
なぜ僕は「本尊は、要らない」など言うのか?
私はきっと、目の黒いうちはずっと顕正会をサーベイランスし続けているんだろうとたまに思う。
自分の青春を捻じ曲げた団体がフェードアウトする様を静かに見守りたいのです。顕正会は幼い私の性格、価値観を根底から構築した団体とも言えますしね。— オトギリ@元顕正会班長高校生 (@Xb0nflr8G) 2016, 2月 19
大体にして、なぜ僕が顕正会に対して、いちいち、そしてネチネチと容喙するのか。
それはやはり、顕正会が、「自己」というものを醸成してきた環境だったからであり、
今回の本尊のばら撒きに関して言えば、
そのことを聞いた時、何か、アイデンティティーを侵害されたような怒りをもよおしたわけですよ。
顕正会を「カルト」ではなく、あくまで自分の信仰心を修養した場、信仰団体というピュアな側面から捉えた上で、
この言論活動は、ある種、「義憤」のようなものなのかもしれません。
「カルト」と見れば「叩くべき」。
しかし「自己アイデンティティー」と見れば、そこには親近感というか、やたら悪し様に扱えない面もあるわけで、
そういった「アンビバレンス」な感情を抱えた上での情報発信というのは、他のアンチ・ウォッチャーさん達にも、多かれ少なかれ、同様に当てはまることではないかと思います。
営利の具としているのは自分でしょ。
浅井会長は母体である日蓮正宗に対し、「戒壇本尊を営利の具に使っているからけしからん」
などと言って非難していますが、
他山の石として己を律する態度が見られない限りにおいては、他を批難する資格などないでしょう。
でも、本尊がなければ、入信勤行ができないと?
いえいえ、そんなはずはありません。
では次回、カウンターエビデンスを示すと共に、現在の形式に替わる、新たな案を提言したいと思います。
本尊は浅いセンセです。