イケハヤさん、「武器」使わせてもらいま~す。
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宗教戦争。そろそろ終わりにしませんか?
めちゃくちゃラディカルなタイトルですが、すみません、これは本音です。
まずは、この動画をご覧ください。
全部で1時間の長い動画ですが、趣旨は最初の5分くらいに集約されてます。
簡単に要点を絞ってみますと、
世間の多くの人の判断基準は「どっちが正しいか」である。
しかし、「争いごと」というのは必ず「どっちが正しいか」論争に起因する。
例えば、「共産主義が正しいか自由主義が正しいか」。
あまり「正しいこと」を考え過ぎると苦しくなる。
なぜなら、人はそんなに正しく生きてないから。
常に「正しいこと」ばかり意識して生きていると、次第に「自分はこんなに苦しみながら正しいことやってるのに」と、賛同しないやつを許せなくなる。
つまり、どっちが「正しいか」ではなく、どっちが「楽しいか」を選択の価値基準にするべきである。
ということですね。
話の中で、「国家や思想の話は例外。」と仰られてますが、
これらに加えて「宗教」という分野も含め、突き詰めて考えれば、全ては「人間関係の問題」の枠に収まるわけで、その根底に流れる原理法則は一貫しているはずです。
法論が招く争乱。「正しい」という矜持にどれほどの価値があるのか?
「法論」というのは、取りも直さず、宗教、宗派間に存する「教義解釈の是非」を明らかにしようというのが主たる目的でしょう。
他を否定するために乱用する「正しさ」は、争いを呼ぶだけでなく、場合によっては自分を苦しめるリスクを含んでいます。
自縄自縛。過去に自分が主張した「正しさ」、それによって得た「矜持」、確立した「立場」というものは、
後に、自分の自由な言動を制限し、
更には自分の「可能性」をも奪う頸木にもなりかねません。
日蓮正宗、顕正会、創価学会の皆さん。
「日蓮本仏論」を説く、いわゆる大石寺系教団の方々は、「折伏」(しゃくぶく)という方法で布教を行っていますね。
「折伏」とは「破折屈伏」の義で、
要するに、相手を論破し、自分の信じていた教えは「間違いだった」ということを解らせる。
概ね、そのような意味合いでしょう。
しかし解らせたからといって、相手はただちに改宗するのでしょうか?
そもそも人の信念、信条などというのは、必ずしも「正しい根拠」に立脚するものではないはずです。
法論が生み出すのは勝者と敗者。
それはつまり、それぞれに矜持と憎悪をもたらすだけであり、何か改善が図れるどころか、場合によっては禍根を残します。
言質を取り、理詰めにしたところで、それが建設的な議論とは到底言い難いでしょう。
有名な小樽問答に見る、多勢にモノを言わせた一方的な勝利宣言等、
所詮、信仰の世界ですから、正邪を明らかにしようなどという試み自体が不毛なのです。
釈迦の教え
最も古い仏典として知られる「スッタニパータ」には、釈迦の教えとして以下のような文言が残されているようです。
■かれらは「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えは清らかでないと説く。「自分が依拠しているもののみ善である」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執している。
■これらの論争が諸々の修行者の間に起こると、これらの人々には得意と失意とがある。 ひとはこれを見て論争をやめるべきである。
称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。■「教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる」とは、わたくしは説かない。
「教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる」とも説かない。
それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)
■家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。
■世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過)があるというであろうが、かれはその(非難)を特に気にかけることはない。
それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。
■争闘と争論と悲しみと憂いとものおしみと慢心と傲慢と悪口とは愛し好むものにもとづいて起こる。争闘と争論とはものおしみに伴い、争論が生じたときに、悪口が起こる。(スッタニパータ・「ブッダのことば」中村元氏訳)
(※正宗系観察日記より引用。)
折伏と摂受
と、ここで良く持ち出されるのが、布教の方法論と末法思想。
折伏については上述した通りですが、「摂受」とはつまり、
「相手が例え間違った宗教を信じていたとしても、一旦をそれを認め、徐々に正しい教えへと誘引していく」
といったようなものですね。
「今は末法であるから折伏でなければならず、摂受は間違っている」と。
「末法」とは釈迦滅後2000年以降の時代を指し、その頃には人間の心根が劣悪となるから、釈迦の説いた教えは人々に効力を失い、
更には布教の方法も、摂受から折伏へのシフトが求められると説きます。
開祖である「日興上人」も、
「末法に入って、法華本門を建てられざるの間、国土の災難、日に随って増長し、自他の叛逆、歳を逐うて蜂起す」
と仰っていますね。
しかしどうでしょう?
果たして、言うほど人心が荒んできているように思えませんが。
例えば、日本では戦国時代というものがありました。
平然と「乱取り」などが横行してましたし、戦に負ければ「さらし首」。
フランス革命では、国王であったルイ16世はギロチンで処刑されました。自分達の国王です。1793年、まだ割と最近の話です。
他にも、ホロコーストなどが良い例ですが、
これらは今、先進国と言われる国々の過去の姿です。これほどの残忍、残虐な行為が見られるのです。現代の倫理観からは到底考えられません。
色々な見方があるかもしれませんが、概ね、人々の精神性は徐々に「向上」してきているはずです。
三毒強盛の荒凡夫?
多くの戦争や災害を経験し、反省し、様々な対策が講じられ、
結果として、倫理、道徳観が培われ、生活の安全性も以前よりは増しています。
大体、釈迦が入滅した年代についても諸説ありますし、
そもそも「末法」という概念の絶対性が立証できなくなってますよね。
功徳の実証が即「破折」?
すると今度は、顕正会が言うように、「功徳があるから正しい」と始まります。
これは「幸せ度競争」みたいなもので、
ご利益があるということは、修行が仏説に適っていることの証。
ご利益が凄い方が「正しい」のだと。
この論理はあまりに稚拙で、他宗の体験発表とか聞いたことがないからよく知らないんですね。
更に、この「どちらがより正しいか」競争は、しばしば教団内の敬虔度を測る尺度としても用いられますね。
「ふ~ん、有難いじゃん。それも凄いかもしれないけどさ、でも俺はこの間もっと凄いこと功徳あったよ」(つまり自分の信心の方がより正しいと言いたい。)
みたいな。
って、要は「マウンティング」じゃないですか。
悲しいかな。内輪でも「正しさ」論争を展開してしまう顕正会員。
これ、創価学会でも見られる光景ではないでしょうか?
常に「是非」を追い求める意識は、「グレー」という概念や「多様性」を否定し、何事にも序列をつけたがる人格を形成します。
指摘や改善案を提起したとしても、前提としてトップの無謬性を強調する構造では、必然的に異論は排斥されてしまいますから、
つまらない喧嘩で片付けられ、結果的に改善に貢献しないまま、憮然とした感情や恨みだけが尾を引きます。
こういった体質が分派を生むわけですね。
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主体性が大事
極論、「楽しい選択」というのは、主体的な価値観に基づいています。
一方、「正しい選択」というは、他人が設定した価値観に基づいているのであって、
これは主体性が失われた状態です。
教団が求める姿により近づこうという姿勢は、優秀な人材と映るかもしれません、
組織の中では称賛されるかもしれません。
しかし、それは同時に「他人を許せない」という狭い心情を生起し、
自分の自由や可能性も奪い、
思考パターンの二極化をもたらし易いという
多くの弊害も併せ持っています。
どっちが「楽しいか」。
必ずしも「正しさ」に固執する必要などありません。
苦しまず、「楽」(らく)にいきましょう。
「楽しい」と「楽」(らく)は同じ字なのですから。
まだ宗教戦争で消耗し続けますか?
こんばんは。
「正しい」より「楽しい」なるほど。
確かに顕正会に入信して二年目の時は当時の支隊内でまとまっていて、みんなで御奉公出来ていたころはその場に入れるというだけで楽しくなり「これが正しい、顕正会は正しい団体」と自負していました。
ひょっとしたら、「楽しい」が続いていたらまだ顕正会員だったかもしれません。