日曜日、顕正会員の方と色々とお話をさせて頂きました。
お会いしたのは男性と女性のお二方で、僕のブログの読者さん。
なんと電車で2時間半も揺られながら、遠路はるばるお越し下さったのです。
待ち合わせ場所の駅で合流した後、ファミレスへ移動。
鼎談は「約4時間」に亘りました。
顕正会員は女性の方のみ。現在組織から離れてはいるが、「勤行」だけは欠かさず行っているとのこと。
いわゆる「一人信心」と呼ばれる状態でした。
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Index
彼女との会話
彼女は質問します。
「御開扉の際に戒壇の大御本尊の自動扉が開かなくなってしまったのは事実でしょうか?やはり、不敬が招いた罰なのでしょうか?」
僕は、
「それが事実かはよく分かりませんが、もし事実だとして、それは御守護だったのかもしれませんよ。だって、その時にたまたま悪人が紛れ込んでいて、何かよからぬことを企んでいたかもしれないじゃないですか。」
と、お答えしました。
また彼女は、
「総本山で急に突風が吹いて窓ガラスが割れ、多くの人がケガをしたのは事実でしょうか?やはりこれも罰なのでしょうか?」
と質問されました。
僕は、
「それも事実かはよく分かりませんが、もし事実だとして、それは皆さん罪障消滅だったんじゃないですかね?そしたら功徳ですよ。」
とお答えしました。
次いで、今度は僕の方から、
「顕正会員で自殺される方がいるのを良く耳にしますよ。」
とお伝えし、知っている事例を何件かあげると、彼女は驚愕していました。
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「信仰」について思うことを書き連ねてみる。
固定観念という頸木をなかなか取り払うことができずにいる彼女。その切実な心境を吐露する姿に、過去の自分を見たような思いとなりました。
勿論、法論となどという形式ばったものではなく、僕からは現時点での「信仰」に対する「個人的な考え」を率直にお伝えしたまでです。
「個人的な考えって何?」
では今回は、そのことについて僕の「ありのまま」を以下に書き綴っておきたいと思います。
「let it go!」
責任逃れの口実
何が「功徳」で、
何が「罰」で、
何が「魔障」で、
何が「罪障消滅」かは、
人によって解釈の仕方は多様であり、
ある事象を何に分類するかは、その本人の主観に委ねられます。
しかしその「基準」自体、実はどこかで誰かに植え付けられた「他人の価値観」によって推し測っているもの過ぎないのではないでしょうか?
「他人の価値観」のみをよすがに歩む人生ならば、それは即ち、「自己責任」を半ば放棄した人生に他なりません。
他人が説いた「真実」をインストールして、そのまま自分の「価値基準」データに取り込み、実装している人は、
同時に、自分の言動の「責任」から逃れるための「口実」を生成しているのです。
なぜなら、それが「真実ではない」と判明した場合、
「自分は騙された!そのことを説いた人間が悪なのだ!」
といって、責任を転換し、なすり付けることができるからです。
しかし、責めても責めても、当の他人はどこ吹く風であり、大概はそのまま泣き寝入りするしかありません。
カルトサーフィンの原理。
他人から貰った、価値基準を測るための「ものさし」を失った本人は、新しい「真実」を探し求めます。
自分の「ものさし」があることを忘れたまま、他人の「ものさし」を使い続けてきたので、急遽、代替が必要なのです。
ある人は、運良く、違う「ものさし」を与えてくれる人間と出会い、「これこそ探し求めていた真のものさしだ!」と歓喜雀躍して、そのまま利用するのですが、
やはり、「他人のものさし」であることには変わりがありません。
これがいわゆる「カルトサーフィン」です。
他人の「ものさし」を使わなければ何も測ることができないという人は、「ものさし売り」にとって格好のカモです。
彼らは、神や仏のロゴマークを掲げた「○○宗、〇〇会株式会社」のセールスマンです。
ニヒリズムのフェーズ。
「こっちのものさしの方が正確ですよ」と何度もセールスをかけられたり、
あるいは、何かをきっかけに「ものさし売り」が信用できなくなると、
自分の「ものさし」が、果たして本当に正確に測れるものなのかどうか良くわからなくなり、疑うようになります。
更に考えが進むと、
「絶対的に正確なものさしなど無いのではないか?」と考えるようになり、
そもそも「正確」とは何か?すらわからなくなります。
すると「ニヒリズム」の段階へ突入します。
「ニヒリズム」とは、これまで信じられてきた価値や理想や真理が無価値で無意味で虚しくなってしまったことを主張する主義です。
「絶対的な真理がある!」ということが真理だと信じていたのに、
「絶対的な真理などない」ということが真理だと気づいたからです。
信仰の帰趨。
「信仰」とは、煎じ詰めれば、「正しさ」の基準をどこに置き、どう定義するか。
という答えに行き着くのではないかと思います。
それはあくまで、本人が感じ、思うことであり、普遍的なものではありません。
どう感じ、何を思うか?
それのみが真実です。
哲学者のデカルトは、「我思う、ゆえに我あり」という言葉を残しました。
世の中の「あること」や、「あるもの」に必ずしも絶対性がないことをとことん疑い、追求していった結果、
揺るぎない事実に到達したのです。
それは、「疑っている自分の存在だけは疑いようがない」というものでした。
「今、自分が感じ、思うこと」以外は全て相対的。
これが真実です。
「今、自分が感じ、思うこと」の外に、絶対的、普遍的な真理などないのです。
ならば、
自分が感じ、思うままに「定義」されたものが正解なのです。
外のどこかに絶対的、普遍的な正しさを求めても見つかりっこありません。
それは自分の中に既に存在しているのであり、要はそれに気付けるかどうかです。
僕は、「日蓮ファン」ですが何か?
「仰せのままの信心」とか「普遍的な真理」を外に追求するのはもうやめませんか?
さっさと行動し、そのときに感じたまま「自分なりに定義」していけば良いのだし、必ずしもそれが論理的ではなくとも良いはずです。
だいたいそんなに聡明なのですか?
「自分が無知であるということ以外は何も知らない。」
と言った謙虚な哲人ソクラテスを見習うべきです。
「自分の定義」が真実だと悟り、ただ前に進めば良いのです。
「ニヒリズム」にいつまでも浸っている必要もありません。
所詮人間は感情の生き物ですから、極端な論理思考に陥ると心身に害です。
「好き」とか「嫌い」とか、
「楽しそう」とか「つまらなそう」でいいんですよ。
僕にとっての真実ですか?
それは「日蓮大聖人が好きだ」というだけです。
それ以上でもそれ以下でもありません。
法華経が釈迦滅後数百年後の産物だろうが、戒壇の大御本尊がニセ物だろうが、そんなことはどうだっていいんです。
それならそれでも良いのです。
僕はただの「日蓮ファン」です。
「日蓮大聖人サイコー!!」
何か問題でも?
真実はどこにあるのか?とか外に求めるのはやめましょう。絶対的な答えなんて永遠に出会えませんよ。
「下手の考え休むに似たり」
さっさと行動して、感じ、思うままに定義したら良いのです。
きっと素敵な明日が待っていますよ。
ニーチェの思想を著した書籍は沢山ありますが、この本はとってもオススメです。バカな僕でも良くわかりましたから。
とても共感いたしました。
固定観念や真理とか
また何かどちらか一方に極端に偏わるのでなく
日蓮大聖人最高に凄い!
お慕わしい〜!
根底はこれだけです!
何処がどう、誰がどうとか
ナンジャラホイ
経文や御書又は戒壇大御本尊様の偽造説なんぞ考えだした日にゃあ…
古事記や三種の神器とかと
同じ次元にいってしまいました。
ただ大聖人だけは本当にありがたい!しか結局残らない。
その心のみ真実です。
ありがとうございます。