カトリック教会のXmasミサに出席!不良法華講員の感想。

はい。なんちゃって法華講員です。

一応仏教徒です。まぁ、日蓮正宗が仏教の枠に入るか、入らないかはさておき、

ここまで、本門仏立宗→顕正会→日蓮正宗と、およそキリスト教とは全く接点のない人生を送ってきましたが、

12月24日、思い切って妻と一緒に、「前橋カトリック教会」のクリスマスミサに出席してみました。

ということで今回、その詳細と、参列後の感想を記してみたいと思います。

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なぜ?カトリック教会のクリスマスミサに参列してみようと思ったのか?

最近、キリスト教に激しく食指が動いてまして。

西洋の宗教史は、調べていくと物凄く面白いですよ。

ユダヤ教からの流れと、釈迦からの流れを、

アナロジーに捉えていくことで、「宗教」の本質が見えてくるような気がします。

要はそっくりなんですよね。知れば知るほど驚愕の連続です。

それは教義の面でも言えることで、分かり易いところでは、

「三位一体」と「三宝一体」とか。

類推すれば、それぞれの位置付けって大差ないんですよね。

大石寺教学は一神教の世界観に極めて近いと思っています。

とはいえ、「文章」という情報だけでは理解できる次元に限界があります。

「生」の宗教は、実際に触れてみて、初めて「体感覚」として、

リアリティーをもって肚に落とせるわけで。

そのためには「儀式」への参列が一番手っ取り早いんです。

勿論、そのうち縁があれば個人的にカトリックの方と対話も交えてみたいものです。

ちなみにすっ飛ばして読みたい人は、上の目次から「参列後の感想」へとどうぞ。

ミサとは?

ところで、「ミサ」とは何なのか?

日蓮正宗で、これに近しいものに置き換えて定義するならば、

要は、「御講」みたいなものかと。

キリスト教では、クリスマスはイエスの誕生日とされていますので、(起源を辿ってみると本来は違うのですが‥これについては↓を参照。)

クリスマスの本当の「意味」。由来と起源についてまとめてみた。

復活祭である「イースター」には及ばずとも、祭典としては非常に重要な位置付けであることは周知の通り。

聖書を読み、神父さんが説法をされます。

カトリックにしかない。

ミサはカトリック特有の行事で、プロテスタントではこれを行いません。

ちなみに妻はプロテスタントのミッションスクールを出ているのですが、

勿論、ミサに参加したのは今回が初めて。

日蓮正宗から派生した、創価学会や顕正会では御講はありませんから、

類推すると双方の関係性は驚くほどそっくりです。(※参照↓)

【宗教の性質】大石寺はなぜ分裂するのか?西洋の宗教との類似点。

このことに関しては、以下、適宜述べていきます。

ミサへの参加は自由です。

もしかしたら、洗礼を受けている人しか参列できないのかな?と思い、

念のため電話で聞いてみることに。

すると、女性の方が出られ、「クリスチャンではないのですが…」と伝えると、

温厚な趣で「是非どうぞ!」と仰って下さいました。

ということで、颯爽と教会へ!

なんだろうこのワクワク感。好奇心で胸が高鳴ります。

礼拝堂へ入ってから開会まで。

神々しげな施設の様相を前に、一瞬ひるむ僕。

さて、生まれてこの方、一度も訪れたことのない場所、礼拝堂の中へと足を踏み入れる…。

くつを脱ぎそうになった僕。

いやぁ、

すっかり仏教様式に慣れ切っているもので。

礼拝堂の入口にて、危うく「くつ」を脱ぎそうになってしまいました。

ふぅ、危ない危ない。

着席。

入場して、おどおどしていると、神父さんがやさしく案内してくれました。

「これとこれですよ。」と、入口の台の上に置かれたパンフレットとキャンドルを手に取り、なるべく後方に着席。

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このアイテムは後に使うことになります。

続々と集うクリスチャン。そして開会。

開会時間に近づくに連れ、多彩な国籍の方々が続々と参集します。

フランス人、韓国人、フィリピン人、ブラジル人、ベトナム人etc…。

ベトナム文化のカラーからは、印象として、キリスト教とは馴染みが薄いような気がしますが、

調べてみたら、仏教徒の次にカトリックが多いことが分かり意外でした。

でも良く考えたら、ベトナムは一時フランス領だったわけで。(しかし得意の穴掘り攻撃で撃退。)

なるほど。

敬虔な方は入場に際して十字架を切ります。

空席はあっという間に埋め尽くされ、開会時には礼拝堂が200人以上のクリスチャンで一杯になりました。

ミサ序盤。

会場が徐々に暗くなったかと思うと、

「イザヤの予言」を読む神父さんの声が堂に響き渡りました。

薄暗い中央の通路を祭壇に向かってゆっくりと歩む、神父さんと子供たち。

子供の代表が、祭壇の前に設けられた「かまど」から火をもらい、

そのたね火を皆のキャンドルに移して周ります。

人数分のキャンドルの火で灯された礼拝堂は、幻想的なムードに包まれました。

「きよしこの夜」合唱。

キャンドル片手に、皆で「きよしこの夜」を合唱し、

いよいよクリスマスミサの幕開けといった感じ。

ここまで慣れない雰囲気に接し、若干ブルッてた僕でしたが、

温かなムードに接するうちに、いつしか心は和らいでいました。

ちなみにミサの大部分は「歌」で占められているといっても過言ではないほど、

何曲も歌を歌います。

妻いわく、プロテスタントでは歌わないものがあったり、

また、曲が同じでも歌詞が全然違うみたいです。

キャンドルはあまり灯しておいても危ないので、ある程度したら各自で消火します。

ミサ中盤。

その後の大まかな次第は、「神父さんが聖書を読む→歌う」の繰り返しでした。

一つ一つの意味は全然わかりません。

神父さんの、カタコトの日本語での説法は興味深い内容で、

イエスの「個人主義」の精神を解り易く説いてくれました。

神父さんがパリに滞在していた際のクリスマスの日のこと。

大きな袋を下げた初老の男性に出会った。

袋には沢山の人形が詰まっていて、

男性は、「貧しい子供たち」に、これらを配ろうとしていたのです。

神父さんが、それはどこで手に入れたのかと問うと、

「ゴミの中から新しいものを選り抜きして拾ってきた」と。

たとえ自分が貧困であったとしても、尚「与えよう」とするその姿に、

神父さんは、「イエスの精神」を垣間見た思いになったのでした。

ミサ終盤。

途中、奉納の儀式が設けられていて、子供たちが網を持ってさりげなく集金に周り、

それらに各種貢物を加え、祭壇に捧げます。

また、神父さんが「あなたはイエス・キリストを信じますか?」

「永遠の命を信じますか?」

と問いを投げかけ、皆が「信じます」と答える場面があるのですが、

「宗教違う人は無理に答えなくていいですよ。」と、わざわざ前置きして下さったことに神父さんの寛大な心根を感じました。

祝福。

祭壇の前にて神父さんが、「頭に手を当てて」祝福して下さるということで、

中央通路の行列に交じり、順番を待ちました。

これは洗礼を受けてない人でもOK。

初めて尽くし、目の前に用意された「新鮮な体験」。

僕は貪るように知的欲求を満たしていきます。

ミサ終了。

隣接する施設にてパーティーの用意がされている旨のアナウンスがありましたが、

家は家で、鶏肉とワインとケーキを用意してあったし、洗礼受けてない人間が参加するのはいくらなんでも厚かましいですからね。

ちゃっかり「お菓子袋」を貰って、礼拝堂を後にします。

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参列後の感想。

カトリックって今回ミサに出席するまでは、「怖い」イメージがあったんです。

何か「血塗られて」いるような、冷酷な、そんな先入観があったんですが、

それは、「アンチカトリックのプロパガンダに躍らされていただけ。」

に過ぎなかったということが、ハッキリと分かり、

その意味で、大変意義深い体験をさせてもらいました。

「ダヴィンチ・コード」などの作品はその最たるものですが、

(ダン・ブラウン氏に悪意があったかどうかはわかりませんが…)

そういったものが、カトリックのイメージを失墜させ、視聴者に悪い印象を植え付ける、ある種のラベリング行為であったことに気付かされました。

いつの間にか形成されていた、カトリックへの偏見。

今回、クリスマスミサに出席し、その雰囲気を肌で味わったことで、

そういったネガティブなイメージは一転しました。

カトリックはとても温かいのです。

プロテスタントであった妻も言うのだから間違いありません。

両者のクリスマスの違いを端的に言えば、

プロテスタントは「厳粛」であり、カトリックは「温かい」とのこと。

今まで、まるで反対のイメージを懐いていましたが、

会では参列者が両サイドの方と手を繋ぐシーンがあったり、

互いに尊重し、且つ、微笑ましい雰囲気。

カトリックのクリスマスミサは、「愛」に満ちた祭典でした。

神父さんがペコペコ。

体験の中で特記したいのは、

神父さんが「ペコペコ」と何かにつけて「お辞儀」をしていたことです。

ローマや海外のカトリック圏では基本的にお辞儀をする慣習はありませんので、

つまりこれは、「日本の慣習に合わせてくれている」ということです。

聖書の朗読もてっきり、ラテン語→日本語なのかな?と思っていたら、

日本語→英語でしたね。

第二バチカン公会議(1960年代)以前は、ラテン語オンリーであったことも考えると、

公会議を境に、真の意味で「慈愛の精神」を顕現する教団に生まれ変わることが出来たのではないかと推測します。

阿(おもね)ない、靡(なび)かない、「教会以外に救いの道はない」と、

かつては高圧、排他的だったカトリック教会。

柔軟性に欠け、未だ内輪揉めの抗争に追われているどこぞの団体の人たちとは一線を画す、輝かしい姿がそこにありました。

三十年戦争をはじめ、過去への反省から、

協調路線に転じた現在のカトリック教会には敬意を表したいと思います。

クリスマスには「イエス」に感謝してみては?

特定の教派の儀礼に縛られず、且つ、基本的に何でも「感謝」する精神が旺盛な日本人ですが、

多くの邦人が、クリスマスを単なる「パーティー」で終わらせず、

「イエス」に感謝するという意味で、もっと気軽にクリスマスミサへ参列してみても良いのではないかと思います。

起源を辿れば元来は「農耕祭」なわけですし。

初めて日本人の手によって教会を建設し、当時、政界とも強い結びつきがあった「新島襄」や、

「内村鑑三」、「新渡戸稲造」。

その他多くの偉人らを介して、

「イエスの精神」が日本の文化に与えた影響というものは、決して軽視するべきではないと思うのです。

感謝をし、その心を皆で分かち合う行為というのは、精神衛生上、良い効能も期待できます。

ほっこりします。穏和な気持ちになれます。

自己の宗教性が洗練され、文化への深い関心が得られます。

どなたでも気軽に参列することができますので、

是非一度は出席してみると良いですよ。

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『カトリック教会のXmasミサに出席!不良法華講員の感想。』へのコメント

  1. 名前:ユタ 投稿日:2015/12/27(日) 12:58:58 ID:610057098 返信

    こんにちは。

    私も日曜日仕事ばっかりして、信仰のことなど忘却の彼方のユタでございます。
    実は、日蓮正宗からキリスト教に行ってしまった人達を知っています。
    「日蓮正宗は冷たい」らしく、私も冷たい人間だから宗門にいるんですが、ミミさんの体験談を見て、「ああ、なるほど」と思いました。
    今、宗門では広宣流布に向けて布教活動に勤しんでいますが、ガチガチに折って伏す折伏とドロドロの法論に明け暮れている人達に「慈悲とは何ぞや?」ということを改めて考えて頂きたいと思いました。

    • 名前:ミミ 投稿日:2015/12/27(日) 13:32:37 ID:89b4b31ed

      ユタさんへ。
      僕の拙く、冗長なルポを最後までお読み下さりありがとうございます。
      日曜日仕事は、教団と丁度良い距離感が保てるという意味で「吉」ではないかと。
      日蓮正宗→キリスト教は良くわかりますね。
      僕は今のところ洗礼までは受けようと思ってませんが、今回の体験はとても新鮮で、且つ、色々考える上で参考になりました。
      数や成果を追い求めると、どうしても功利主義的な傾向に陥りがちですからね。
      相反する宗教と世俗の価値観をどのように統合していくか、教義上どう規定するかによって、教団の特色が決まるといっても過言ではないと思います。
      広宣流布を目的として語るか、手段として語るか、
      顕正会などは国立戒壇を掲げる以上、永遠に体質は改善されないでしょうね。
      ガチガチ、ドロドロの人たちは愛とは無縁のマウンティング行為をいつまで続けるのでしょうかね?
      「気が付くまで」の修行のプロセスなのかもしれませんが。

  2. 名前:ハス 投稿日:2015/12/27(日) 21:55:47 ID:300613dcb 返信

    ミミさんは凄いですね!
    フリーダム!
    自分の心に正直で、
    僕も物事や自分に縛られない
    様に、
    自分の心のままに生きたく
    なりました(^.^)!!

    • 名前:ミミ 投稿日:2015/12/29(火) 00:57:36 ID:dc91e5d85

      ハスさんへ。
      ありがとうございます(^^)
      所属団体への帰属意識はほぼゼロに近いですが(^-^;
      心のままに生きるのが一番ですよ。今生は一度きりですから。

  3. 名前:愛国 清澄  投稿日:2015/12/28(月) 22:58:27 ID:6730c96da 返信

    こんばんは ミミさん お疲れさまです!

    全て順番に拝読致しました(*^_^*)

    思い切った(?)行動(*^_^*)でしたね。私は他でも書きましたけど、組織に属したならそこの言う事を聞かねばならん、と思ってるのでキリストの事には、少し抵抗が出て来てました。だから、もし勧誘を受けたら、破折にかかってしまいますね(笑)悪いクセだ。

    と言う私も、所属する支部内で邪宗とボロクソに言われている、地元京都にある要法寺に行きましたよ。(勿論こっぴどく叱られましたけど(笑))

    ここは、ご存知だと思いますが、第三祖日目上人のお弟子の日尊と言う方が、京都へ天皇に立正安国論を奏上しに来られ、布教活動として開かれたお寺です。
    だから、血筋として歪んでると言うのは、私は疑問です。

    こういう所ですね、日蓮正宗は冷たい、と言われる所以は。
    先般の支区座という会合では、クリスマス前でしたから、どんな指導がなされたと思います?
    賛美歌を歌ってはならない、きよしこの夜、もろびとこぞりて、アメイジンググレイス、バッハの喜びの歌等は、あぁ神よ!と、神を賛美するのだから、絶対歌ってはいけません。
    というものでした。
    クリスマスケーキも買うな、とありました。私はア~ア~とため息をついてしまいましたが(*^_^*)不良信徒ですから。

    取り留めない長文お許しをm(__)m そして、ランキングのポチ応援協力します、と仰って下さって感謝申し上げます。書いた所が違う記事ですが、ここで御礼を言わせてください。

    失礼致しましたm(__)m

    愛国 清澄 拝

    • 名前:ミミ 投稿日:2015/12/29(火) 01:07:41 ID:dc91e5d85

      愛国 清澄さんへ
      ありがとうございます(^^)
      「破折」も建設的な議論であるならば良いと思いますよ。
      大聖人も「智者に我が義破られずば」と仰ってるわけですし。
      一方的に言い切るのは、バカだと思われるだけです。いや、勿論これは愛国清澄さんのことを言ってるのではありませんのでご安心を(^^)
      要法寺へ行ったのですか!羨ましい。さすがに西日本までは足を延ばせませんが、機会があれば行ってみたいです。
      指導とやらの内容は、長大息です‥。
      ケーキすら買えないとは!
      大変ですねぇ。正直関わりたくないレベルです。

  4. 名前:いおなずん 投稿日:2015/12/29(火) 06:38:40 ID:ff1b51c74 返信

    なんか、どこも一緒か。って感じです。
    顕正会でも他宗他門の行事の参加を規制したり行事への参加をするな。
    他宗他門の関連するものは購入するな。と言われて来ました。

    「日蓮大聖人の仏法に背く謗法の宗教に由来するのですから、例え祝う気持ちが無くとも謗法に加担することになってしまいます。(中略)私達は、これらの行事の由来を知り、軽はずみに参加して謗法を犯してしまうことのないよう慎まなければなりません」
    (信心の原点・上巻・101ページ)

    ということは、これらの行事の由来を調べたら実は関係なかったと分かれば参加は自由ということですよね。

    12月25日キリスト生誕祭説は嘘だと分かったことだし、堂々と参加して構わないと思うのですが。

    クリスマスケーキはダメ、クリスマスチキンはダメ、ケーキもチキンも日本人なら毎日当たり前に食べているものなのに。

    ダルマにしたって、だれがダルマに向かって拝むのか。普通の人にしたらダルマが宗教に由来すとは分かりませんよね。(だから調べよなのかな。)

    要するに”拝まなければ”いいのです。(いいはずです。)

    大聖人様は「破折せよ」と言っているのです。

    でも「破折」するには、時として、相手のことを「知る」ことも必要です。

    相手を知るなら時として敵の懐に飛び込むことも必要だと思いますが・・・

    日蓮大聖人様が一番であると分かっているのですから、他宗・他門を拝むことは絶対ありませんから。

    ちなみに讃美歌って100曲以上あるのですよね。全部歌うの大変だと思いますが。

    • 名前:ミミ 投稿日:2015/12/29(火) 21:52:27 ID:dc91e5d85

      いおなずんさんへ。
      いつもありがとうございます(^^)
      孫子の兵法の有名な一節に、「彼を知り、己を知れば、百戦危うからず」とありますからね。
      自宗のことにいくら詳しくても、他宗の教義について理解がなければ、堂々と説くことはできません。
      僕は破折が目的ではなく、単に、興味があるから、楽しそうだからという動機ですが、(←えっ?w)
      外部からでは決して知り得ない、キリスト教を学ぶことが出来ました。

      “日蓮大聖人様が一番であると分かっているのですから、他宗・他門を拝むことは絶対ありませんから。”

      まさにそうなんですよね。
      謗法にビビってる人は、そんなに自分の信心に自信がないのかと思ってしまいます。
      信心が堅固なら余裕でしょ。
      間違ってダークサイドに取り込まれることはありません。
      日蓮正宗にはそのくらいの余裕をもって他宗と接してほしいですね。
      一番正しいと言うのですから。

  5. 名前:濱野 裕子 投稿日:2016/01/28(木) 02:06:07 ID:82791d71e 返信

    もう一つ、よろしいですか。すみません。
    カトリックの教会でクリスマスを過ごされたとのことですが、その後、頭が痛くなったり、体調不良に見舞われませんでしたか?
    私は一時期、キリスト教について勉強していたのですが、4日間、ガチで体調を崩しましたよ。

    なので、いろんな世界を知るためにも、そういうところに出向かれても構わないかとは思うのですが、折伏の精神無しではやっぱり、カトリックも良いではないかと思われてしまうんですね。まぁ、そうですよね。

    しかし、気づいていただきたいのは、信仰というのは「感応」という命の働きを利用して、正しい人間性を培ったり、幸福になることを目指します。

    教会の雰囲気が良いとか温かいとか、神父が良い人であるとかは、その宗教が正しいことの証明にはなりません。そういう上辺だけに騙されるのが多いんです。

    キリスト教の本尊は、旧約聖書に出てくる全知全能の神ですね。感応って、「その神様と同じになる」ということですよ。旧約聖書の内容、ご存知ですか?

    天地創造、アダムとイブの話、カインとアベル、ノアの箱舟、バベルの塔…等です。
    まず、知恵の実を食べたので、神が怒ってエデンの園を追放する、兄弟で喧嘩してアベルを殺害する、傲慢で堕落した人間に失望して人類を滅ぼし、唯一正しかったノアとその家族だけを生き残らせる、また、人間の行動に怒りをなして、言葉をバラバラにしたり、町を破壊したり…。
    普通に考えて、こんな神様おかしくないですか?神様基準で正しくなかったら、怒って園から追放したり、皆殺しにしたり、破壊したりって。「この神様と同じになる」わけですよ。たった一度の参加でも、大なり小なりその影響は受けるわけです。

    教えにしたって、「子供や水子は死後どうなりますか?」の質問に対して、「子供や水子であれば、神様が憐れんで、信心していてもしていなくても全員、天国に連れて行きますので、安心してください。」等というわけです。それだと、全員子供のうちに死んだほうが良いっていう話ですよね。あるいは、「障害者は神様が作った特別な子です。」なんて言いますね。しかし、その特別な子のほとんどが、普通の人以上に辛く苦しい人生を送っているんですよ。あと、この説だと「健常で生まれた子は特別ではないのか?」という話にもなってしまいます。矛盾が生じていますし、因果も無視していますよね。

    ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は同じ神様を信仰しています。しかし、解釈の違いや場所争い等で、ずっと戦争を繰り返していますよね。イスラム教はテロ行為を繰り返しているし、それに対して、空爆を行っている欧米諸国…。旧約聖書のくだりと同じとしか思えないのですが。この神様の教えに従っている人が多い故に、いつまで経っても根本的解決策が見出されないわけです。仏法でも、日蓮大聖人様の仏法を用いなければ、正しい解決に向けての知恵も出ないし、人間性を改善させることもできません。

    あと、カトリックのマザーテレサさんのことはご存知かと思いますが、彼女の心の闇がヤバい話はご存知ではないですか?
    私はそれを読んで、ものすごく衝撃を受けましたよ。本当の彼女は、世間で広まっているイメージとは程遠い人物です。完全に間違った信仰を実践してしまった結果です。本も出てますし、ちょっと調べたら出てきますよ。

    仏法では「依法不依人」と言いまして、人がどうとか、雰囲気がどうとかで決めてはいけないのです。いかがでしょうか?

    • 名前:ミミ 投稿日:2016/01/28(木) 23:41:50 ID:ea9dbcb4a

      濱田裕子さんへ。
      セム的一神教の系譜で、神と同一になるなどといった教義はありませんよ(^-^;
      なぜバベルの塔が破壊されたかと言うと、神と同一になろうという精神が神の目からみて傲慢に映ったからです。
      最初日本で、神は「大日」と訳されたんですね。もっとも適当だろうと言う事で。
      だけど、大日だと神と同一になってしまう。これはまずいと言う事で「大日」という語訳を撤廃したって史実があります。
      あと、彼らは決して教義解釈の違いで争っているわけではないですね。
      イスラム教はテロ行為繰り返していませんよ。あちら側からすれば、オウムを見て、「仏教はテロ行為してけしからん」となる可能性もあります。
      大石寺系教団も内輪揉めばかりして、あそこは何がしたいのだろう?いつまで経っても根本的解決策が見いだせないんだねってなるので、同じことではないですか?

    • 名前:濱野 裕子 投稿日:2016/03/19(土) 02:05:25 ID:c9f993cf1

      私はどうも、言いたいことを正しく伝えることができないみたいですね。すみません。私が言った「神様と同じになる」というのは、同一になるということではありません。信仰というのは、「感応」という命の働きを利用したものです。
      「朱に交われば赤くなる」ということが言いたかったのです。本質は変わらないけれども、その教えや考え方に影響されて、その神様と同じようになっていくということです。
      バベルの塔の破壊のくだりも、「神様の目から見て傲慢に映ったから」って、破壊することはないでしょう?神様の目から見て傲慢だったならば、なぜ、その人間の傲慢さを直して正しく導くということをしないんでしょう?人間が傲慢だったからと言って、破壊したり、皆殺しにしたりって、おかしくないですか?
      信仰って、それと同じ発想、考え方になっていくということですよ。
      ユダヤ教、キリスト教、イスラム教間での戦争ですが、教義の違いが直接的な原因ではないですが、同じ神様に対して違う解釈、思想等を持っているわけですから、それぞれがお互いに「神様の目から見て○○だ」みたくなるのでしょう?いろんな主張や考え方、やり方等が。それで、「自分達から見て、間違っているものは、破壊しても殺しても良い」というようなことから、過激派がテロ行為をしたり、それらを空爆でやっつけようとするということに繋がっているのではないでしょうか?
      大石寺系教団の内輪揉めについてですが、末法に生まれた私達は皆、煩悩が強いのと、謗法の悪い癖で物事を考えて信心している人、そもそも何にもよくわからない・知らない人等、様々な人達が、信心をしています。
      「正しい信心を正しく」出来てない人達が揉め事を起こすのです。
      自分の解釈や私情を一切交えず、素直な心で仏様の言うことを聞く信心が、なかなかできないのです。
      あと、根本的解決策があるのにも関わらず、相手方がそれに従わない、拒否するのであれば、仏様であろうが、神様であろうが、どうすることもできないと思うのですが。
      そこは、仏法を信じている人達同士なのだから、全員が日蓮大聖人様の教えを素直に用いるだけで解決するのです。ただ、それを多くの人達ができないのです。
      しかし、この世の中は、宇宙の法則上、正と邪があり、順縁と逆縁がありますから、いかに「邪」の教えを減らすか?が重要だと思います。

    • 名前:ミミ 投稿日:2016/03/20(日) 11:25:24 ID:0be2c8532

      濱田 裕子さんへ
      CLBさんが仰っているように、遺文なり聖句の解釈が、それぞれの文脈によって異なるということですね。
      見つめる角度、視点によって、様々な認識や理解が生まれるのは仕方のないことだと思います。
      キリスト教でも、いわゆる解放の神学と呼ばれるカテゴリーにみるように、主体者の立場を擁護すべく、都度、そこに対応した論理が構築されてきました。
      そこには大きなパラダイムの変遷という背景、またそれを助成した人類の感情的、あるいは理性的な要素が深く関わり、影響を及ぼしてきた事実がり、
      そういった大局的な流れをなおざりにした批判の展開は実に世俗的です。
      例えば、イエスの属性を巡る論争などは象徴的で、ネストリウス派などは「人」としてのイエスの性格を強調しましたし、三位一体などという教義は、元来存在しなかった。
      更に時代が進むと、啓蒙主義などを中心に、イエスを、人格的な意味合いにおけるリーダー、良識的な基盤を求めるようになり、神秘性が排除される思潮が生まれました。
      解釈によって形成されてきた「宗教」と、原典となるテキストは、全く別ものとして扱わなければいけません。
      教義の脆弱性を指摘する、感情ありきの言いがかりを有象無象に量産するならば、そういった言説が温床となって、対立や抗争の正当化、裏付けの口実が成立していきます。

      『建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頸をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ』(撰時抄)
      『まして権宗の者どもをや、法華経と申す大梵王の位にて民とも下し鬼畜なんどと下しても其の過有らんやと意を得て宗論すべし。』(教行証御書)

      大石寺教団の人達の好戦的で、威圧的な人格の傾向は、これらの日蓮の精神が基盤となっているとの指摘を受けたとき、如何に反駁するかということです。
      こんなのもあります。
      『婆羅門の方等を誹謗するを聞き、聞き已はって即時に其の命根を絶つ。』(涅槃経)

      現代の世相に則した、教義解釈、人の思考の介入というのは避けられないわけで、
      それは相対的な立ち位置を越えて、眺める方向性を全く逆転してみないことには、エッセンスを抽出することはできません。
      そのことをイエスは誰もが知るところの「豚に真珠」という表現を使って言い残したのはないでしょうか。

    • 名前:CLB 投稿日:2016/03/18(金) 10:31:49 ID:c9bc74939

      濱野裕子 様
      横から、すみません。

      「日蓮正宗とカトリック」で検索したら、この方のブログに出会いました。
      カトリック信徒です。

      マザーテレサの心の闇の話は、信徒にとってもぜひ読みたい、といったたぐいのことであって、まったくおかしな話、というわけではないですよ。
      「聖人も日に7度倒れる」という格言?もあるくらいですから。
      日本でのマザーテレサ研究者の一人、K神父も出版される前からこの話を語っていました。闇があって当然ですし、マザーテレサの心の闇だからこそ、知りたいわけですね。「完全に間違った信仰を実践してしまった結果」だと読まれるのは、カトリック信仰の文脈からすれば、誤読だと思います。こういった話は、よくあることで、19~20世紀のリジューのテレジアという聖女の書いたものにも「無神論という最悪の教え」に苦しんだ話が出てきます。当然のことなんですね。

      旧約聖書の内容について書かれておりますが、聖書には聖書の解釈法があるのです。
      YouTubeに、法華講の樋田さんという方がキリスト教を批判している動画がありますが、それに対しての聖書の読み方に関するコメントが載っています。

      「一般のキリスト教徒との対論 宇宙には 本当に 始まりが あるのか?01」からのシリーズ全部、また、単片で「キリスト教は矛盾だらけ!非力な宗教 08」です。参考までに、ご覧になってみてはいかがでしょうか。

      このブログの方がお書きになっているように、実際に接しないと本当のことはわからないものです。

    • 名前:ミミ 投稿日:2016/03/18(金) 21:15:56 ID:cbcba1d1e

      CLBさんへ
      コメントありがとうございます。
      濱田さんが当方を定期的に来訪して下さっているかどうかわかりませんので、
      先程、返信があった旨を直接ご本人にメールにて告知させて頂きました。
      今しばらくお待ちくださいm(__)m

    • 名前:CLB 投稿日:2016/03/19(土) 10:49:32 ID:21c4c77f5

      ミミさん

      ご配慮、ありがとうございました。
      濱田さんもご回答くださりました。
      議論のようになってしまい、恐縮です。

      それにしても、
      素晴らしいブログですね。これからも拝見したく思っています。

      感謝と共に。

    • 名前:ミミ 投稿日:2016/03/21(月) 19:05:14 ID:50d83523b

      CLBさんへ
      いえいえ、このくらい造作無いことです(^^)
      むしろ議論の「場」として利用して頂けることは本望ですから、こちらこそ感謝です。
      是非、今後ご来訪の際にも、ご意見等ございましたら気兼ねなくコメントをお寄せ頂ければ幸いです。

    • 名前:濱野 裕子 投稿日:2016/03/19(土) 02:55:01 ID:c9f993cf1

      CLB様、ご返信ありがとうございます。
      マザーテレサさんの心の闇の話ですが、聖人扱いされている彼女が、どうして、ご自身の心の闇を解決できなかったのでしょう?それこそ、神様が救ってあげるべきところだと思うのですが。闇があって当然だと仰っていますが、その闇を解決してくださるのが神様ではないんですか?何のための信仰なのか、よくわかりません。
      「聖人も日に7度倒れる」っていう話ではないですよ。
      マザーテレサさんは、神の不在感が半端なかったわけですよ。神に対して不信感を抱き続けていたというのですよ。「信仰心なんて全然ありません」なんて仰っているのですよ。
      私が学会員だったときに、池田大作さんに対して抱いた気持ちと同じようなことが書いてあったんですよ。私のその経験と重なりました。
      マザーテレサさんは、本当にお辛かったのだと思います。神への冒涜を恐れて、そんな自分の気持ちを一生懸命打ち消そうしていました。私も、「池田大作の何が偉いんだろう?」って思ってしまったときに、「自分の命が汚い」からだと思って、一生懸命自分の本心を打ち消そうとしてました。
      本当の正しい信仰というのは、常に仏様の存在を感じられます。手取り足取り、いろんなことを教えてくださいます。私は何でも仏様にお尋ねして、悩みや苦しみを解決していますよ。自分に必要なものはすべて具足していきます。そして、悪い部分は徐々に無くなっていきます。何より、苦しいなんてことが無くなります。マザーテレサさんは、信じれば信じるほど、どんどん苦しくなっておられました。信仰の目的って、苦しくなることではないですよね?
      それに対して、仏教では「抜苦与楽」といって、苦を抜いて、楽を与えてくれます。そのことにより、心が楽になり、生きていきやすくなり、幸せになっていくのです。
      苦しみに意味があると言って、苦しいだけで人生過ごして、お亡くなりになるなんて、あまりにも可哀想です。「貧しい人達に尽くす」という立派な志、心がけを実践しているのにも関わらず、報われないと感じている、やればやるほど苦しくなっているなんて、道理としておかしいと思います。
      マザーテレサさんが感じていた「神の不在感」というのは、正しかったんです。なぜなら、聖書で説かれている神様は実在しないのですから。従って、正しい信仰ではないですよ。
      あと、聖書には聖書の解釈法があるとのことですが、解釈ってなんですかね?仏教のお経文はそのまま事実が書いてありますよ。それをいろんな人達が、勝手な解釈しているんですよね。私からすると、苦し紛れにしか感じないのですが。私の感覚がおかしいのでしょうかね。
      実際に接しないとわからない。そうですね。しかし、その場の雰囲気が良い、神父の人柄が素晴らしい=その宗教が正しい、ということにはなりません。
      私は、キリスト教の牧師さんが書かれた本を読んだり、実際に信仰している人達とも接した上で、やはり、しっくり来ないと感じていますよ。
      ちなみに、とよださんの動画とコメント欄、拝見しました。ありがとうございます。

    • 名前:CLB 投稿日:2016/03/19(土) 10:46:16 ID:21c4c77f5

      濱野 裕子 さん

      コメントありがとうございました。

      恐らく仏教でいう「信仰」とキリスト教でいう「信仰」の意味(内容・領域)が違うんでしょうね(聖人、の意味も)。皆さんがどう受け取るかはまったくの自由ですが、マザーテレサの信仰の闇の話は、実際の話、カトリック信徒にとって大きな意味があるものなのです。これをネガティブ情報と理解することも、まさに「解釈」の問題ですね。

      旧約の文章(テクスト)は、旧約の時代に、その時代の人々が自分たちのために書き記しました。その後の時代の人が読む場合には、背景が違うわけですね(文化、風習、言語さまざま)。それを現代なら現代人がどう読むか、という問題があるわけです。動画のほうにも書いてありますが、その際、テキストを解釈する妥当な手段が解釈法なのです。これなくしては、原理主義になるしかありません(文字そのまま理解するしかなくなる)。本来なら哲学の分野の解釈学、あるいは聖書解釈学などを見ていただくしかないのですが、日本の古典を扱った「古典学入門」(岩波文庫)などでも、そのあらましがわかると思います。

      私は仏教経典の解釈学は知らないのですが、濱野さんは「法華経」もすべて文字どおり解釈されるのでしょうか。御書の場合、「○○宛に」書かれたものが、どうして時空を超えて現代人の別な人への訓戒になるのか、鎌倉時代特有な要素はないのか、などなども解釈の一つの側面です。それを踏まえているのと、踏まえていないのとでは大きく違いますね。

      長々とすみません。私は、日蓮正宗が世界規模で布教を展開する目標を持つなら「第一印象」的な他宗教批判を越えて、できるだけ正確なものにしてほしいという希望をいだいています。

      ご返信、ありがとうございました。

  6. 名前:無音 投稿日:2016/03/13(日) 08:34:28 ID:b0e27bc77 返信

    自分は久遠寺の者なのですが、無理な布教、他宗教批判が馬に会わないのでしたら、久遠寺か保田妙本寺への改宗をお薦めします。久遠寺は少し、信仰体系が違いますが、保田妙本寺は同じ日興門流で日蓮本仏論で他宗教批判がないらしいのでお薦めです。

    • 名前:ミミ 投稿日:2016/03/13(日) 10:28:31 ID:e79ccd092

      無音さんへ
      初めまして(^^)
      久遠寺は散策したことがあるのですが、保田は近辺を通ったことがあるのみで、訪れたことはないですね。
      なるほど、布教への穏当な姿勢や、多元的な宗教観をお持ちなのですね。
      あまり詳しく調べたことがないので、良かったら紹介がてら、新設の掲示板にトピ立ててもらえると勉強になり、助かりますね。
      こちらだと、記事のテーマと会話のズレてしまいますので。

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