顕正会では、大きな会合が行われる度に、締めの一曲して会歌「遺名重し」が歌われます。
どのような歌詞か、ちょっと見てみましょう。
雪嶺に 身を捨つるとも
大悲の恩 いかで報ずべき
みほとけの 遺命おもし
いのち尽くまで
いや~、まさに殉教も厭わないと言わんばかりの決意が滲み出ていますね~。
雪嶺に身を捨てても結局大悲の恩は報じ切れないんなら、いたずらに捨てることないじゃんw
自分の命大事にしなよw
と、彼らの向こう見ずな言動をみるにつけ、思わず突っ込みたくなってしまうわけですが、
今回は、この「遺名重し」の原曲である、「海行かば」と、
その「海行かば」の作曲者が実は敬虔な「クリスチャン」であった件について触れてみたいと思います。
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作曲者「信時潔」さんは敬虔はプロテスタント。
さて今回の話題はクリスチャントゥデイに先日掲載された記事が情報ソース。
記事を参考に適宜引用しつつ、要点をまとめながら見ていきましょう。
まず「海行かば」とは、第二の国家として戦時中、熱く国民に慕われた名曲です。
歌詞はこんな感じ。
海行かば 水漬く屍(かばね)
山行かば 草生す屍(かばね)
大君の辺(へ)にこそ死ねめ
かへりみはせじ
(海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば、草の生える屍となって、天皇のお足元にこそ死のう。後ろを振り返ることはしない)
作曲者は、信時潔(のぶとき・きよし、1887〜1965)さんという方で、
この方は敬虔なプロテスタントのクリスチャンでした。
なので、歌詞の中で「大君」と表現されているのは、本来イエスのことを思って書いたわけで、当時日本で神として崇められていた天皇のことではなかったようです。
そして信時潔さんは、当時、救世軍に飛び込み路傍伝道まで行っていたそうで、熱心な活動家であったことが窺えます。
日本においてキリスト教というのは、大して馴染まないんですね。未だ今日に至っても大きな広がりを見せず、人口のたった1パーセント程度だと推測されていますから。
実は日本のクリスチャンの少なさというのは、世界的に見れば異様なのです。
まして当時の国家神道という独裁体制の中での布教というのは、さぞかし困難だったことでしょう。
かの有名な内村鑑三さん(群馬出身の方ですね)とも深い繋がりがあったようで、厳しい布教戦線に臨むべく互いに励まし、助け、支え合う同志としての堅い絆が存在していたのかもしれませんね。
余談ですが、「武士道」を著した「新渡戸稲造」さんもクリスチャンですね。
厳密には「クエーカー」と呼ばれ、キリスト教でも「神秘主義」に分類されます。
「クリスチャン」なのに「武士道」とは、ちょっと意外なイメージですが、「武士道」とは日本人の文化としての伝統精神を世界に伝えるべく表された書なのです。
日本人が醸成してきた「武士道精神」は、キリストの信仰に際しても、その信条を支える力強い思想の基盤として機能する、大変誇らしいアイデンティティなのかもしれません。
話がそれましたが、とにかく「海行かば」がキリスト信仰の産物であったことには間違いありませんが、
僕は、そこに「和魂」という日本特有の精神的要素が加わり、結果、名曲としての仕上がりをみせたのではないかと思います。
あくまで個人的にですが。
会歌が「謗法」って…。
顕正会の会歌が「軍歌」であったことですらドン引きですが、
更にその大元を辿れば、実は「讃美歌」であったという事実は、
間違いなく顕正会の「謗法厳戒」の信条にそぐわないものであるはずです。
「謗法厳戒」については、その許容範囲の線引きをどこで行うかは、会員の中でも個人差があるので、
「そんな瑣末なことは歯牙にもかけない」という方もいらっしゃるかもしれませんが、
「イエスへの熱い信仰心」が描写された作品であったという真実を耳にして驚き、落胆する会員さんは少なくないかもしれませんね。
顕正会本部もまた、有名なクリスチャンの資産家の持ち物でした
お調べください
集団ストーカーとか、世間のイザコザで訴えられるほどトンデモない創価学会グループに対してはあだこだ言い、特集号片手に突撃を迫るのに、法華講とは一切関わるなと指導されています
欺瞞を知られたくないから、関わるなということだったのだと、ようやく腑に落ちました