@sigmoidalcurve 法戦が終わったら年末供養 来年の試験と忙しいこと!たまには休んで友達と遊んだら?
— 唯ちゃん (@nhkeru) 2015, 11月 28
今回は、この唯ちゃんさんのツイートに乗じて、
顕正会員と友好関係を結ぶ際に生じる問題について触れてみたいと思います。
僕の現役会員時代の経験談を交えながら、彼らの信条がもたらす具体的な弊害についてお伝えすると共に、
顕正会を辞めた今、切実に感じていることなどをまとめてみます。
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Index
「いつかは折伏(勧誘)しなければならない。」信仰心の呵責が生む罪悪感。
会と一定の距離を保ちながら、つかず離れずで気ままに信仰している会員においてはいざ知らず。
信心が先鋭化されたアクティブな強信者であれば、親戚、友人、知人は勿論のこと、
少しでも縁故があれば「いずれは一人残らず勧誘する」といった心積もりで鋭意、活動を営んでいることでしょう。
彼らは常に「勧誘成果」に飢えています。
なので、普段の人間関係の中で、それが例えどのような相手だったとしても「勧誘して成果に繋げたい」と思うはずです。
また勤務中を除き、それ以外は「少しでも多く」の時間を信仰活動に充てることが、彼らにとって、仏、そして会長への「奉公の証」です。
(※参照リンク↓)
常に会側は信者に対し、ビデオ放映や集会などといった活動のプログラムの中で、そういった意識を助長させるような情報を与え続けているのです。
するとどうでしょう。
もし友人の方から遊びの誘いがあったものなら、「成果を上げるチャンス」とばかりに、勧誘の対象にすること請け合いですが、
もし、「信仰の話は抜き」といった条件が加わったならば、
彼らはそれを「信仰活動を妨げる魔の教唆だ」と解釈し、恐らく、そのような約束は承諾しないことでしょう。
しかし、もしその対象が、数十年振りに会った友人や、最近知り合った人であったならば、
「まずはある程度親交を深めてから勧誘しよう」
と、思うかもしれません。
ただし、その付き合いというのはあくまで、勧誘することが前提なので、
時間の経過と共に、「勧誘」という当初の目的を遂行することへの焦燥感に苛まれることになるでしょう。
その焦燥感はやがて、「自分は何をもたもたしているのだろう。早く相手を救わなければならないのに‥申し訳ない。」という罪悪感へと変わり、
もしそのまま勧誘が出来ないのであれば、やがてはその友人との関係を、自ら遠ざけるようになるかもしれません。
「勧誘すれば嫌われる」
「しかし勧誘しなければ、仏様に、会長先生に、そして相手にも申し訳ない。」
顕正会信者は必ずこの葛藤に苦しみます。
そして、この苦しみから逃避するために、余計に活動へと依存的にのめり込んでいくのかもしれません。
こうして健全な友好関係を結べない彼らは、顕正会というコミューン内で、しかもその中でも更に限定された「所定の組織」という枠の中で、
気の合いそうな信者と一緒に行動をしたり、仏や教祖を供に謳歌することで、孤独の埋め合わせを行っているのです。
初詣も祭事もクリスマスパーティーも厳禁。
初詣や夏祭り、秋祭り、クリスマスパーティーといったものは、いずれも世間では慣習として営まれている文化の一部ですよね。
こういった恒例のイベントについては、家族と過ごされる方も多いかもしれませんが、学生さんならば親しい友人たちと供に参加するという方も少なくないでしょう。
しかしこれらは、顕正会の教義に準じた場合、それに参加したり、関わり合いをもつことは決して許されません。
(※参照リンク↓)
【顕正会の決まりごと。【禁止事項】一覧。謗法(ほうぼう)とは】
せっかく誘われても、断念せざるを得ないのです。
2回もオーバーヒートした車に気付かず乗り続けていた奴。
上記のような理由から、おかげで学生以来の多くの友人たちからは忌避され、すっかりと疎遠となっていた僕だったわけですが、
ちょうど会で行われる大会への参加を促す目的で、しばらく振りに義理で入信してくれた高校時代の友人を訪ねたときのことです。
その友人は僕が顕正会に入っているからといって、色眼鏡で見るようなタイプではなく、
当時、「友人」と呼べる数少ない貴重な存在でした。
その友人は自動車関係の仕事に従事しており、車の構造については専門的な高い知識をもっていました。
僕はその当時、祖父から譲ってもらった中古車に乗っていて、乗り出しの時点で走行距離数は6万キロ、
友人を訪ねたときには、既に約10万キロを示していました。
決して自慢できるような車ではなかったのですが、最近あまり車の調子が良くないことを伝えると、彼はボンネットを開けて状態をチェックしてくれたのでした。
すると途端に血相を変えて言いました。
「この車2回くらいオーバーヒートしてるよ。」
「良く動いてるよなぁ。俺ならこんな車には怖くて乗れない。」
聞いて血の気が引きました。
慌てて確認すると、既に管がボロボロで、エンジンオイルが漏れまくっていたのです。
ちょうどその当時、後輩指導のため、「長野市→千葉県南房総市」間を何度も往復していたので、(一往復で800キロくらい)
激しく負担がかかっていたのだろうと思います。
前回の車検から一度もオイル交換をしていなかったのです。
なぜ気付かなかったのか?
まぁさすがにそんな無茶で乱暴な乗り方をするバカはそうそういないと思いますが、
この悲惨な結末を招いた原因として考えられるのは、
まず、初めての車だったということ。
そして僕のメンテナンスに関する知識が乏しく、それ故、意識が低かったということです。
が、しかし。
それ以前に、当時、「周囲にそれを指摘してくれるような人間がいなかったこと」と、
「信仰があれば何とかなる」という、向こう見ずな生活態度が何よりの問題だったはずです。
その頃は、親とも勧誘のし過ぎで疎遠になっていましたし、一人暮らしで、健全な友人関係が断絶していた状態。
尚且つ、勧誘の功徳で何もかも護られる!という妄信的で安直な考えが、危険を招いていたのです。
魔法のじゅうたんじゃないんだから、功徳で動いているわけではないですからねぇ~。
ホントにバカでした。
孤独なんです。
何が言いたいかというと、「孤独」なんです。
僕の場合、顕正会に入った当初の一年間は週に2人は確実に勧誘していました。
合算すると、その一年間だけで100人くらいの友人、知人を勧誘したことになります。
若干ペースは落ちますが、その後の6年間も、月に2~4人くらいは勧誘していたと思います。
次第に友人たちとの溝は深まり、どんどん孤独になります。
するともし彼らの思考が歪んでいたとしても、周囲にはそれを指摘してくれる人間さえいなくなります。
負のスパイラルです。
顕正会の「成果至上主義」体質は、泥沼にはまった彼らを引っ張り上げてくれる貴重な存在を、自らが遠ざけてしまうのです。
以下は元顕正会員のはるおさんが投稿してくれた記事の引用です。
人間関係の消耗、という観点で言えば、当然元ケンの活動家の方の多くの方がケンショー会しか人間関係がなかったと思いますが、それが無くなった今の私はい つも休日に1人でいるのが辛いですね。幸い副業をしているので、そっちの方に気が向けられますが、勧誘したことでケンショー会に居た代償は大きすぎたと感 じています。(※まだ顕正会で消耗してるの?)
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仲良くしてやってください。
要するに、
もし彼らから熱心な誘いを受けたとしても、敬遠しないで、
「仲良くしてやってほしい」
ってことです。
彼らはキホン「良い奴」なはずです。
素直に信じ込んでしまうくらいですから。
めんどくさいし、気持ち悪いかもしれませんが、少なくともあなたを騙そうと思って宗教に誘っているわけではないのです。
逆にその信者はあなたが忌避し、排斥することによって、余計宗教に傾倒していくでしょう。
場合によっては物見がてら、1回くらいは会合やビデオ放映にもつき合ってあげても良いと思います。
勿論、「単独」では危険ですので、4~5人など上手く友人の間で都合を合わせて行くことをオススメします。
これは信者側のペースに呑まれないようにするためです。
あなたにとってその友人が大切な存在ならば…。
もし、その信者である友人が、あなたにとって大切な人ならば、
もし、その信者である友人が、いずれ顕正会の信仰から離れたとき、
その時、彼、あるいは彼女が懐く虚無感や絶望感は、
あなたが寛容な態度を示した事実によって軽減され、救われるはずです。
自己肯定感を組織に委ねてきた人間にとって、
その組織から離れるということは、心の支えを失うということであり、
酷いケースでは、既に自分で自分のことを認める力を失っている可能性があります。
よく「辞めさせよう」という考えを起こす人がいます。
そういった相談も度々受けるのですが、正直そういった考えに僕は心から賛同できませんし、
実際無理です。(それが友人ではなく家族であれば事態は深刻かもしれませんが…。)
(※参照リンク↓)
もし何度も勧誘を受けて困っているのであれば、こちらから執拗に遊びに誘うことによって、逆に向こうの方から怪しんで敬遠してくるかもしれませんよ(笑)
というのは半分冗談ですが、
疎外せず、かといって「信仰」については深く干渉せず、
寛容な態度で彼らの思想を容認してあげることが、本物の「友情」ではないでしょうか。
宗教にはまり込んでしまうと、呪縛からなかなか解き放ってもらえなくなるんです。
例え、過去に自分が信仰を勧めた相手でも一緒なんです。
最近の僕は、宗教自体に懐疑的になってきていて、無神論者というよりは不可知論的な実存主義者になりつつあります。
信仰は思い込みですから、同じ文章を違う立場の人間が読めば、全く受け止め方が変わってくるんです。所詮、宗教は解釈学かなって思うのです。
しかし、私のように幼児のころに暴力で親に信仰を強制されてしまうと、それに無理やり適応した心がなかなか呪縛を解いてはくれません。
ですから、無理に肩入れせずに、瞑想の一種くらいな気持ちで勤行しております。
実際、心は静まりますので。
富士山に何回も行くのはしんどい。
折伏の数をせかされるのもしんどい。
5年もやっていると僧侶のずるさもよくわかります。
結局、宗教団体は搾取する側とされる側の、相互依存関係なんですよ。
御書を読んで大聖人様と僧侶を同じに見ると、間違えてしまうのです。
彼らは妻子ある在家僧侶ですから、生活第一なんです。
ドストエフスキーの面白いところは、「カラマーゾフ」なんか読んでいくと、えええ?仏教っていうかまんま日蓮系じゃねえかって思わされます。
ぜひ、読んでみて下さい。ゾシマ長老があの人に見えてきます。