前回は、「自分を許すと世界が変わる」という“斎藤ひとり”さんのお話をご紹介しました。
自分を許せない人は、何かしようと思っても固まっちゃって、本当は何もできなくなってしまう。
人を許せない人はまず自分を許してあげることから始めること。
自分を許すと他人も許すことができるようになる。
という内容でした。
じゃあそれはわかったけど、一体どうすればいいんですか?
ってなると思うので、次はこのお話をご紹介します。
前回のお話をすんなり聞ける人は、このお話も素直に聞けるのかなと思います。
よく、「御本尊様におまかせしているから大丈夫」といって信仰活動ばかりにかまけて、生活をおろそかにする方がいます。
だけどもし、もっと潤沢な資金があったならば、活動だって今よりもっとダイナミックに展開していけるはずですよね。
“棚からぼた餅”的な何かに淡い期待をかけ、経済力をつけるための“不断の努力”をなおざりにするならば、それは顛倒した考え方だと思います。
しかし、そこで多くの信仰者は、「良くなりたいから頑張っているんじゃないか!」と仰ると思います。
だけどそもそも信仰を始める人の十中八九は、生活が立ち行かなかったり、人間関係とか自力では解決できないような困難にぶち当たったりして、「どうしようもない状態」からスタートしているですよね。
だから基本的には、その立ち位置の“目の前に用意されていること”を全力でこなすことから始めなければいけません。
逆にそれ以上のことは、まだまだできる境涯ではないのに、
体験発表とかバンバン聞かされて射幸心ばかり煽られるもんだから、
自分の身の程がわからなくなって、盲目になって、夢ばかり見てしまうことが往々にしてあるんですよね。
勤行したり折伏したりするのは、世間からみれば“趣味”の範疇でしかないのだから、
要は、一生懸命プラモデル組み立てたりとか、釣りしてるのと一緒です。
リアルな実社会の中で、それを評価してくれるのは限られた信仰の仲間だけなのです。
在家信徒において、もし信仰に3時間時間を割いたのなら、世の中ではそれと同じだけ時間は進んでいて、その間に皆、自己啓発したり、働いて金を稼いだり、同時にキャリアを得たり、色んな知識を取り入れたりしているんですよね。
だけど時間は平等なのだから、世間に置いてきぼりを食らわないようにどこかで取り返さないといけません。
そうすると一秒でも大切にしたいという心がでてきて、もの凄く真剣に生活するようになってきます。
だから、「信仰しているから良くなる」と、仏法にあぐらをかいて“心の成長”がない人は、「かわいそうだなぁ~」と思ってしまいます。
何か悪いことがあると「罪障消滅」といって、「めでたし」なんて言っている人は、相当努力しないと確実にまた同じことが起こります。
僕なんかがこんなこと言っても説得力ないですが、もし何方かが、このお話を聞いて何か少しでも気付くことがあったなら幸いです。
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