「回答④」 凡そ大聖人仏法においてはどこの団体が正しいなんてのは本当は無いのではないかと思う。団体毎で争いを起こす事こそが不幸であり不敬ではなかろうか。尤も、争いは私達が喧嘩を売りに行っている構図であることを重々認識しておかなければならない。
— すかいみかん@顕正会 (@sigmoidalcurve) 2015, 6月 22
現役顕正会員「すかいみかん」さんのツイートを拝借。
現在Twitter上において、「すかいみかん」さんを除けば、
現役顕正会員(活動家)という立場を明確に明かしているアカウントはほぼ皆無でしょう。
顕正会をネタにブログを書いている僕としては、
「すかいみかん」さんのツイートは大変気になるところでして、
いつも漏れなくチェックし、参考にさせて頂いております。
で、上掲のツイートの件ですが、
正直、僕はこの内容について「深く共感」致します。
異論はありません。
顧みれば、約一年と半年前、顕正会を辞めて法華講に移ろうかと考えあぐねていた頃は、
殊に、この思いを強く懐いていたのでした。
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Index
「釈迦に宗旨なし」。「宗旨の争い釈迦の恥」。
意味
仏教を説いた釈迦は、何宗何派という宗派がない、ということ。
解説
仏教と呼ばれる教えは、すべて、お釈迦さんが説いた教えから始まっているのだから、宗派と宗派の争いは、 意味がないということのようです。お釈迦さんの目的は、「自分を含めた全ての人々の苦しみを解決すること」 であり、たよりとする真理は、「縁起」というとても大きな思想であったため、さまざまな考え方が許され、 宗派というものが生じていったのではないかと考えられます。しかし、他の宗派のことを悪く言ったり、 他の宗派と争いを起すことは、お釈迦さんの教えに反することと思います。また、このことわざは、 「宗旨の争い釈迦の恥(しゅうしのあらそいしゃかのはじ)」とも言うようです。また、 日本に初めて仏教が伝わった聖徳太子の時代には、宗派と言うものは、なかったようですが、 その後に宗派が生まれたことにより、仏教が栄えたとも考えられます。(ことわざ学習室より)
「正しい宗派」に属して信仰する者は、振舞いが正されてくるのか?
三者はそれぞれ主張します。
正しい宗派に属し、信仰する者の振舞いは品行方正であると。
また必ずしもそうでないのは敬虔さの度合いや、年数によって差異が生じているからなのだと。
果たしてそう言い切れるでしょうか?
ウチの宗派は「良い人が多い。あそこは少ない。これは教えが間違っているからだ」と、全体の割合という視点から論じられる方も沢山おられることでしょう。
しかしそれも、本当に「確か」なことなのでしょうか?
僕は、三者に所属する人間の人格を、全て一人一人確認した経験があるわけではないので、
そのことについては正直「わかりません」。
また、仮にそれができたとしても、「僕の嗜好」というバイアスのかかった評価にならざるを得ないため、その序列というものには全く普遍性がありません。
「良い人、良い振舞い」という定義は人によってバラバラなのであり、
「善・悪」の普遍妥当な評価基準など存在し得ないのではないかと思います。
明らかにできるのは、それが「多数意見」か「少数意見」かということだけです。
そこで、例えば世間を対象にアンケート調査をして、「〇〇の宗派の人間は良い人、良い振舞という印象だ」と回答した人の割合が「△△という宗派の人間は良い人、良い振舞という印象だ」という割合を上回った。
だから、「〇〇という宗派は正しく、△△という宗派は間違っている」と判断するかもしれません。
しかし、「多数意見だから正しい」という判断だって、必ずしも「正しい」とは限らないでしょう。
国家が定めた最高法規である「憲法」に照らし合わせた判断さえ、それは必ずしも「正しい」ものではないことは歴史が証明しています。
所詮、「何を正しい」とするかという判断基準の全ては、個々人の主観によって決定され、委ねられるものだと僕は思います。
「虚心坦懐」に御金言を拝せば、どこの宗派が正しいか「必ずわかる」のか?。
このことについても、僕は正直「そうは言い切れない」のではないのかなと。
創価学会、顕正会、日蓮正宗。それぞれに所属している信徒の方々の多くは、
きっと、素直で純真な心の持ち主なのでしょう。
純粋だからこそ、その宗派を一心不乱に信じ切っているのであり、
仮に、その最中で「教義の矛盾」に直面したとしても、
だからといってその矛盾を突き詰め、そこに関連する全ての情報を洗い出して、一つ一つ解析することなど出来ようがありません。
良く顕正会の浅井会長が、
「薬を飲むのに、成分を一つ一つ分析して効能や安全性を確かめることなど普通しないであろう。ただ信じて飲めば良い。仏法においても同様だ。」
と会員を指導するように、
誰も、宗派の教えを完璧に理解し得る「知恵」など持ち合わせてはいません。
「虚心坦懐に考えれば普通はわかること」というのは、そう思っている本人や、その本人の周囲の方は皆同じ見解であったとしても、
全く知り得ないような人が、どういった感性で、「正しさ」を判断しているか、
あるいは、「知的レベル」がどの程度のものであるかは、本当は全く想像もできないはずです。
またそのことを判断するための「材料」という意味でも、
情報化社会である現代だからこそ、ネットや書籍を利用して、ある程度まで掘り下げて調査することが可能なわけです。
昔はネットもなければ、テレビも、本だって一部富裕層しか手に入れることはできませんでした。
今で言うマスメディアに当たるものといえば「張り紙」くらいなものしかなかったはず。
ということは昔は、「正しい仏法」に生涯一度も触れることのない、「縁なき衆生」が仰山いたということになってしまいますが、
これは如何なものでしょう。
外からの声。
元の母体である日蓮正宗とは機関誌での醜い罵り合いや暴力も交えた喧嘩、信者の引き抜き合戦を行っているが本質的にはどっちもどっち である。反日蓮正宗・反顕正会サイトにはここの信者が運営しているものも多数あるので、文章の出典やリンク先を要確認。
— sao (@natsunomiz) 2015, 7月 23
乞食宗教団体、日蓮正宗、創価学会、顕正会などの大乗仏教は寄生し他力本願の間抜け偽物仏教団体。
— OKABE KEIICHI ㈩ (@OKABEKEIICHI) 2015, 7月 26
折伏(しゃくぶく…集団で恫喝するなどして入信を強要すること)は、学会もやってて問題になるけど、顕正会は危険度が違う。 日蓮正宗にも学会にも共通してることだけど、日蓮が武闘派の宗教者で迫害された歴史もあるから、派生した新興宗教も荒っぽくてお互いケンカばかりしてる…。#yusaani — uj (@ujuzic) 2015, 7月 12
日蓮正宗の阿部さんにしても創価学会の池田さんにしても顕正会の浅井さんにしても、死去は永久的に発表されないような気がするなw。下手すりゃ3人共150歳まで生きるんじゃないかwww
— あづみ ふくみつ (@fukumitsu_adumi) 2015, 7月 10
日蓮正宗や顕正会が宗教多元主義の立場になるのは、かなり難しいでしょう。ただ、彼らは人数が少なくて脅威とみなす程の勢力にはなっていませんし、今後もならないはず。放っていても問題はないと思います。 — 一社会人 (@ichishakaizin) 2015, 6月 18
顕正会の迷惑行為は日蓮正宗にも責任がある。 「勝手に”冨士大石寺”と名乗ってるだけでうちらとは無関係だ」って言うけど、 元々日蓮正宗の傘下だったわけで日蓮正宗がなければ顕正会は存在しなかった。
— 相互フォロー支援★リフォロー100% (@tk241072) 2015, 6月 9
日蓮正宗と創価学会が仲悪いのはまぁ知ってはいるが、この顕正会も合わせて三つ巴だったとは。法華者同士が法論(宗論)というかお互いを非難し始めたので「まぁまぁまぁ」「宗論は どちら負けても 釈迦の恥」とばかりに時の氏神役に回る浄土者のわたし(笑)。 — まあ (@bukumaa) 2015, 6月 7
今の日蓮正宗と、創価学会、顕正会がまさにこれ。 どーでも良い問題を教条的に追求しなければ、自分達の存立に関わるw 哲学的に、信仰を深めようという魂胆など一欠片もない。 https://t.co/xlOA4Kx1gl
— 大石寺 日恭 (@firesaint) 2015, 5月 27
@aoshizu それは「けんしょうかい」というカルト団体です。創価学会、顕正会ともに日蓮正宗からは破門されていますね。三つ巴の醜い抗争を続けています。 — 清野☆ (@gryphona2) 2015, 5月 17
家のポストに、日蓮正宗と創価学会と仲違いして対立している顕正会っていうのの、対立してるやつの悪口まみれのクソみたいな新聞が勝手に入れられてた。普通の新聞よりいい紙使ってやがる。
— 村井ニボシ (@niboshi2000) 2015, 5月 17
これらはほんの一部ですが、「救う対象」である世間から、このような辛辣な評価が下されているのは事実。
「事情を知らない者たちの、取るに足らない戯言」の一言で片づけて良い問題ではないはずです。
中には、「世間に迷惑をかけているわけではない。偏見だ。」という意見もあるでしょう。
もっとも、モラルを守って布教されている方も多く存在しているのは事実だと思います。
しかし、世間では、マル〇ニチロやペヤ〇グ、マク〇ナルドの事件のように、一つの不祥事や不慮の災難によって、たちまちに信用が崩壊してしまうような例もあることは確かで、
組織という性質上、一定数の「世間に迷惑をかけてしまうような、問題のある人」が存在してしまうことはどうしても免れないでしょう。
「世間に迷惑をかけているわけではない。偏見だ。」という方は、もしかしたら自分の所属している団体の人間が起こしている問題について「知らないだけ」なのかもしれません。
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呉越同舟。創価学会、顕正会、日蓮正宗の関係。
「呉越同舟」(ごえつどうしゅう)という言葉があります。
これは、
仲の悪い者同士や敵味方が、同じ場所や境遇にいること。本来は、仲の悪い者同士でも同じ災難や利害が一致すれば、協力したり助け合ったりするたとえ。(Goo辞書)
ですが、
創価学会、顕正会、日蓮正宗の三者は、本来力を合わせなければいけない仲であるはずです。
もし三者の関係が、
「敵を作ることで組織の結束を図るため、互いに必要としているだけ」
というのが本質なのであれば、それは、
「宗旨の争い大聖人の恥」
ということに成りかねない現状を、もっと真剣に受け止め、
今後についての建設的な話し合いをするべきではないでしょうか。
「正しい」という強い主張は、取りも直さず「他は誤りだ」という強い主張に他なりません。
そして「他は誤りだ」という強い主張は必ず「争い」を生むことになります。
つまり「正しい」と主張する宗派が増えれば増えるほど、「争い」もセットで増えるわけです。
なので結局のところ、それぞれの宗派の辞書に「宥和」という文字が新たに書き足されることがない限り、
こんな僕の意見など、理想論に過ぎないというのが現実なのかもしれませんが。
なかなか難しいテーマに取り組まれましたね。
その勇気というか、心意気、心打たれる思いです。
世間での印象、これをどう捉えるかは、法華講員でも意見が別れると思います。
受け止めるべきは真摯に受けとめ、
訂正すべきは素直に訂正する。
それが大事なのでは、と思います。
人の振り見て我が振り直せ
肝に命じなければなりません。
折伏とは、ただ教義上で破折する事なのか?
大事なのは、心を通わせる事だと思います。
心掛けて行きたいです。