【正しさ】について一考。創価学会、顕正会、日蓮正宗。どこが本当に正しいの?

現役顕正会員「すかいみかん」さんのツイートを拝借。

現在Twitter上において、「すかいみかん」さんを除けば、

現役顕正会員(活動家)という立場を明確に明かしているアカウントはほぼ皆無でしょう。

顕正会をネタにブログを書いている僕としては、

「すかいみかん」さんのツイートは大変気になるところでして、

いつも漏れなくチェックし、参考にさせて頂いております。

で、上掲のツイートの件ですが、

正直、僕はこの内容について「深く共感」致します。

異論はありません。

顧みれば、約一年と半年前、顕正会を辞めて法華講に移ろうかと考えあぐねていた頃は、

殊に、この思いを強く懐いていたのでした。

「釈迦に宗旨なし」。「宗旨の争い釈迦の恥」。

意味

仏教を説いた釈迦は、何宗何派という宗派がない、ということ。

解説

仏教と呼ばれる教えは、すべて、お釈迦さんが説いた教えから始まっているのだから、宗派と宗派の争いは、 意味がないということのようです。お釈迦さんの目的は、「自分を含めた全ての人々の苦しみを解決すること」 であり、たよりとする真理は、「縁起」というとても大きな思想であったため、さまざまな考え方が許され、 宗派というものが生じていったのではないかと考えられます。しかし、他の宗派のことを悪く言ったり、 他の宗派と争いを起すことは、お釈迦さんの教えに反することと思います。また、このことわざは、 「宗旨の争い釈迦の恥(しゅうしのあらそいしゃかのはじ)」とも言うようです。また、 日本に初めて仏教が伝わった聖徳太子の時代には、宗派と言うものは、なかったようですが、 その後に宗派が生まれたことにより、仏教が栄えたとも考えられます。(ことわざ学習室より)

「正しい宗派」に属して信仰する者は、振舞いが正されてくるのか?

三者はそれぞれ主張します。

正しい宗派に属し、信仰する者の振舞いは品行方正であると。

また必ずしもそうでないのは敬虔さの度合いや、年数によって差異が生じているからなのだと。

果たしてそう言い切れるでしょうか?

ウチの宗派は「良い人が多い。あそこは少ない。これは教えが間違っているからだ」と、全体の割合という視点から論じられる方も沢山おられることでしょう。

しかしそれも、本当に「確か」なことなのでしょうか?

僕は、三者に所属する人間の人格を、全て一人一人確認した経験があるわけではないので、

そのことについては正直「わかりません」。

また、仮にそれができたとしても、「僕の嗜好」というバイアスのかかった評価にならざるを得ないため、その序列というものには全く普遍性がありません。

「良い人、良い振舞い」という定義は人によってバラバラなのであり、

「善・悪」の普遍妥当な評価基準など存在し得ないのではないかと思います。

明らかにできるのは、それが「多数意見」か「少数意見」かということだけです。

そこで、例えば世間を対象にアンケート調査をして、「〇〇の宗派の人間は良い人、良い振舞という印象だ」と回答した人の割合が「△△という宗派の人間は良い人、良い振舞という印象だ」という割合を上回った。

だから、「〇〇という宗派は正しく、△△という宗派は間違っている」と判断するかもしれません。

しかし、「多数意見だから正しい」という判断だって、必ずしも「正しい」とは限らないでしょう。

国家が定めた最高法規である「憲法」に照らし合わせた判断さえ、それは必ずしも「正しい」ものではないことは歴史が証明しています。

所詮、「何を正しい」とするかという判断基準の全ては、個々人の主観によって決定され、委ねられるものだと僕は思います。

「虚心坦懐」に御金言を拝せば、どこの宗派が正しいか「必ずわかる」のか?。

このことについても、僕は正直「そうは言い切れない」のではないのかなと。

創価学会、顕正会、日蓮正宗。それぞれに所属している信徒の方々の多くは、

きっと、素直で純真な心の持ち主なのでしょう。

純粋だからこそ、その宗派を一心不乱に信じ切っているのであり、

仮に、その最中で「教義の矛盾」に直面したとしても、

だからといってその矛盾を突き詰め、そこに関連する全ての情報を洗い出して、一つ一つ解析することなど出来ようがありません。

良く顕正会の浅井会長が、

「薬を飲むのに、成分を一つ一つ分析して効能や安全性を確かめることなど普通しないであろう。ただ信じて飲めば良い。仏法においても同様だ。」

と会員を指導するように、

誰も、宗派の教えを完璧に理解し得る「知恵」など持ち合わせてはいません。

「虚心坦懐に考えれば普通はわかること」というのは、そう思っている本人や、その本人の周囲の方は皆同じ見解であったとしても、

全く知り得ないような人が、どういった感性で、「正しさ」を判断しているか、

あるいは、「知的レベル」がどの程度のものであるかは、本当は全く想像もできないはずです。

またそのことを判断するための「材料」という意味でも、

情報化社会である現代だからこそ、ネットや書籍を利用して、ある程度まで掘り下げて調査することが可能なわけです。

昔はネットもなければ、テレビも、本だって一部富裕層しか手に入れることはできませんでした。

今で言うマスメディアに当たるものといえば「張り紙」くらいなものしかなかったはず。

ということは昔は、「正しい仏法」に生涯一度も触れることのない、「縁なき衆生」が仰山いたということになってしまいますが、

これは如何なものでしょう。

外からの声。

これらはほんの一部ですが、「救う対象」である世間から、このような辛辣な評価が下されているのは事実。

「事情を知らない者たちの、取るに足らない戯言」の一言で片づけて良い問題ではないはずです。

中には、「世間に迷惑をかけているわけではない。偏見だ。」という意見もあるでしょう。

もっとも、モラルを守って布教されている方も多く存在しているのは事実だと思います。

しかし、世間では、マル〇ニチロやペヤ〇グ、マク〇ナルドの事件のように、一つの不祥事や不慮の災難によって、たちまちに信用が崩壊してしまうような例もあることは確かで、

組織という性質上、一定数の「世間に迷惑をかけてしまうような、問題のある人」が存在してしまうことはどうしても免れないでしょう。

「世間に迷惑をかけているわけではない。偏見だ。」という方は、もしかしたら自分の所属している団体の人間が起こしている問題について「知らないだけ」なのかもしれません。

呉越同舟。創価学会、顕正会、日蓮正宗の関係。

「呉越同舟」(ごえつどうしゅう)という言葉があります。

これは、

仲の悪い者同士や敵味方が、同じ場所や境遇にいること。本来は、仲の悪い者同士でも同じ災難や利害が一致すれば、協力したり助け合ったりするたとえ。(Goo辞書)

ですが、

創価学会、顕正会、日蓮正宗の三者は、本来力を合わせなければいけない仲であるはずです。

もし三者の関係が、

「敵を作ることで組織の結束を図るため、互いに必要としているだけ」

というのが本質なのであれば、それは、

「宗旨の争い大聖人の恥」

ということに成りかねない現状を、もっと真剣に受け止め、

今後についての建設的な話し合いをするべきではないでしょうか。

「正しい」という強い主張は、取りも直さず「他は誤りだ」という強い主張に他なりません。

そして「他は誤りだ」という強い主張は必ず「争い」を生むことになります。

つまり「正しい」と主張する宗派が増えれば増えるほど、「争い」もセットで増えるわけです。

なので結局のところ、それぞれの宗派の辞書に「宥和」という文字が新たに書き足されることがない限り、

こんな僕の意見など、理想論に過ぎないというのが現実なのかもしれませんが。

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『【正しさ】について一考。創価学会、顕正会、日蓮正宗。どこが本当に正しいの?』へのコメント

  1. 名前:ムーディ☆アポ山 投稿日:2015/07/30(木) 18:07:17 ID:440ff89cf 返信

    なかなか難しいテーマに取り組まれましたね。

    その勇気というか、心意気、心打たれる思いです。

    世間での印象、これをどう捉えるかは、法華講員でも意見が別れると思います。

    受け止めるべきは真摯に受けとめ、
    訂正すべきは素直に訂正する。

    それが大事なのでは、と思います。

    人の振り見て我が振り直せ

    肝に命じなければなりません。

    折伏とは、ただ教義上で破折する事なのか?
    大事なのは、心を通わせる事だと思います。

    心掛けて行きたいです。

    • 名前:ミミ 投稿日:2015/08/01(土) 16:44:02 ID:248546b7c

      ムーディー☆アポ山さんへ
      コメントありがとうございます。
      法華講員の方ですね。
      多くの方が「考え」、「自信をもって伝える」ことが大事なのだと思います。
      やさしい言葉を賜り、感謝致します。

  2. 名前:山門入り口 投稿日:2015/08/02(日) 20:06:25 ID:4c2a72bf0 返信

    明治以前の情報が少ない時代なら、どこが正しいとか行っていても通用したでしょう。
    しかし、情報化時代の現代では、それも通用しません。

    >「宗旨の争い大聖人の恥」
    ということに成りかねない現状を、もっと真剣に受け止め、
    今後についての建設的な話し合いをするべきではないでしょうか。

    私も賛成ですが、僧侶の権威主義にしがみついてる日蓮正宗は、話し合いの場を持たないでしょう。
    創価学会にしても大乗仏教の本来起こった在家主体の信仰があるのですから、今更、日蓮正宗と話し合うこともないと思います。

    しかし、大石寺系教団が纏まったとしても、宗祖の誤り部分を修正しない限り、時代錯誤の宗教団体ではないかと思います。

    • 名前:ミミ 投稿日:2015/08/03(月) 22:15:47 ID:cd9e49be7

      山門入り口さんへ
      コメントありがとうございます(^^)いつもブログ読ませてもらってます。
      確かに山門入り口さんの言う通り、僕の意見は所詮絵に描いた餅ですね。
      実際は、三者それぞれが既に、宗教団体として独自の実存的価値を確立していると思うので、今のところは合流するメリットもないですしね。
      ではなぜいきなり僕がこんなラジカルなことを書いたかっていうと、組織間の対立と「個人」の信仰とは分けて考えたほうが良いと思っているからです。
      所属組織の意向に従い、尻馬に乗って騒ぐだけというのは確かに楽だとは思いますが、在家の場合、それで飯食っていけるわけではないですから。
      純粋な人ほど鼓舞され、搾取されてしまっているのは、見るに忍びない現状です。
      やみくもに身内団体を蔑んでばかりいては、僕なんかが言うのもあれですが、信仰者としての進歩がないと思うんですね。
      なんか、「他を貶めなきゃ自分達の良いところが見い出せないの?」みたいな。自分達の「正しさ」を証明するのに一番都合が良いから利用している感じがします。
      頂いたコメントの最後の一行も同感です。宿題が山積みされている状態だと思うので。

  3. 名前:エルガガ 投稿日:2015/08/06(木) 23:23:38 ID:49371efe3 返信

    ブログを拝見しております。今回の記事は大変興味深く読ませていただきました。
    ところでお聞きしたいことがあるのですが、山門入り口氏のコメントにある
    >「しかし、大石寺系教団が纏まったとしても、宗祖の誤り部分を修正しない限り、時代錯誤の宗教団体ではないかと思います。」
    について特に宗祖の誤り部分とは具体的にどういうことなのでしょうか?
    よろしくお願いします。

    • 名前:ミミ 投稿日:2015/08/07(金) 22:27:56 ID:557b8b97f

      エルガガさんへ。
      お久しぶりです!見ててくれたんですかっ!驚きました!いつもありがとうございます(^^)
      コメント交わすのは一年振りくらいではないでしょうか?もっとかな?
      誤り部分については山門入り口さんの方が良く存じているかと思います。
      ちなみにこのサイトに詳しいですよ。→http://detemasu.seesaa.net/
      ご参考までに。