真面目な話、もう顕正会の会館や自宅拠点に、「本尊は必要ない」と思ってるんですよね。
替わりに「〇〇」を設置すれば良いんじゃないかと。
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Index
本門の本尊と戒壇と題目について。宗門と顕正会の間にある教義解釈の違い。
まず提案を述べる前に、顕正会と、その母体である日蓮正宗の「教義」的な側面における相違点をおさらいしておきましょう。
両者の教義の差別化をもたらす、最たるものに、日蓮本仏論における骨子とも言える、「三大秘法」の中の「本門の戒壇」についての定義・解釈が挙げられますね。
顕正会が破門に処されたのが昭和49年。
以来、両者が袂を分かつと同時に、反目の関係を呈している主な理由は、
「戒壇」の意義を分解した際の「事」と「義」の定義を巡った教義論争に尽きます。
日蓮正宗は、「事の戒壇」を、根源的な法体である「戒壇本尊」が安置された現在の奉安堂に、
そして戒壇本尊以外の本尊安置の場を「義の戒壇」と定義するとして、このことが従来から確立されてきた教義体系であったと主張。
ところが顕正会側によると、現在の奉安堂は「義の戒壇」に過ぎないとし、
広宣流布達成の暁に建設する予定の「国立戒壇」を指して「事の戒壇」とする解釈を譲りません。
この三大秘法という教理を論理的に説明する上で、
「本門の本尊」に向かって、唱える題目を「本門の題目」とし、その行を実践する場が即「本門の戒壇」とする三義整促の条件は、決して妥協を許さない、骨格としての役割を担っているわけですが、
顕正会の場合、「直接大御本尊と通ずる」
というロジックを以て、三種の秘法を含んだ「行の実践」としての体系化を図っています。
つまり、直通=戒壇本尊眼前=即ちその場は「義壇」の意義を含む=三大秘法の実践!イェーィ!
ということですね。
会長、浅井昭衛氏は、この実践法を「遥拝勤行」と命名。
破門を契機に、新たに標榜した、この信仰スタイルは、顕正会の独自性を強調していると言えます。
会館における勤行は「遥拝?」「直拝?」
しかし、実は顕正会の中では、この「遥拝」に相対して「直拝」なる言葉が存在しているのです。
文字通り、「遥拝」とは遥か拝むこと、「直拝」とは直に拝むことと訳されることから、
顕正会館、あるいは自宅拠点において本尊と直接対峙する場合が「直拝」に当たると考えられます。
とはいえ、
「信心さえあれば、距離は関係なく、題目によって即座に戒壇本尊と感応道交する。」
とする会の信条に基づけば、自宅における勤行も広義には「直拝」と呼ぶことは可能なはず。
ここで一つ、教義の欠陥が生じてしまうのです。
上述の如く、会の教義体系では、「戒壇本尊」と通ずることによって初めて、戒壇義が具足され、三大秘法総在の行、即ち下種仏法の実践に成り得るのだから、
須く、遥拝勤行でなければ教義に合致しないのです。
つまり、顕正会館や自宅拠点の本尊に向かって行う「直拝」の中に戒壇義を含ませることができないので、
ここに大きな矛盾が浮上するわけですね。
これは会が抱える教義の「盲点」であり、
日蓮正宗から突かれる格好の「脆弱性」であり、
キチンと整合性を図るため、確認・是正が求められる、教義体系の「欠陥点」でもあります。
顕正会員は会館の本尊の先に「戒壇本尊」を見ている。
導入がかなりマニアックな話になってしまいましたが、
教義はともかくとして、信者の信条に則した単純な話が、
「顕正会員が会館の本尊の前で行う勤行というのは、直接的には眼前の本尊を拝んでいるが、
本質的にはその先の本門戒壇の大御本尊を拝んでいる」
というのが彼らの信心の内実です。
大本の功徳の発生源である、戒壇本尊の存在なしに、会館での勤行という概念は成り立たない。
ということは、彼らは、自宅からのみならず、
実質的には、会館でも遥拝勤行をしているのです。
このことは実際に、僕が現役の時に上長から明確な指導がありました。
「直拝と見せかけて、本当は遥拝なんだよ。私達はあくまで戒壇の大御本尊に拝み参らせているわけだからね」
と。
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提案します。いっそ本尊を全て撤去してみては?
「量産体制③」
それにしても悩ましい。 広宣流布を大規模に着実に進めることが目的だとしても、私達は大御本尊様へ手を合わせ遥拝すべきである。御経本に記載のとおり「我が家より遙かに拝みまいらせる遥拝勤行」を徹底するべきだった。
— すかいみかん@顕正会 (@sigmoidalcurve) 2016, 1月 14
「恒例の②」
ミミ氏の仰るとおり、遥拝勤行を徹底するのであれば各地会館、拠点の御本尊は御仕舞いするのが筋だろう。また、「大聖人まします処は」と論ずるのであれば茶寮氏の仰るとおり、御出処は明らかにするべきだろう。
— すかいみかん@顕正会 (@sigmoidalcurve) 2016, 1月 19
「恒例の③」
今更ながら現状はどうか。各地会館のみならず今後量産されるであろう拠点に御出処云々の御本尊を安置申し上げ、一方では遥拝勤行に徹するというのだ。恒例のダブスタもいいところで、大変失礼ながらやはりよく分からない。
— すかいみかん@顕正会 (@sigmoidalcurve) 2016, 1月 19
現在、顕正会館に設置されている本尊が「コピー品」であり、
本当は日蓮正宗から下附されたものを使用しているわけではない、という事実の情報拡散は、
ネットでもリアルでもその勢いはとどまることを知らず、
内部でも、そのことについては徐々に「公然の秘密」として浸透してきており、
「コピー品でも止む無し」とする者がサイレントマジョリティー化してきているのが実情だと思われます。
ってことで、いっそ本尊は全て撤去してみてはどうだろう?
かなりドラスティックな提案ですが、
「遥拝」の精神に準ずれば、むしろそちらの方が顕正会の教義に適っているわけです。
代替えとして、会館には、大石寺の方向を表す「目印」を設置し、
そちらの方向に向かって皆が勤行すれば良いだけの話なのですから。
(※「しかし、それでは入信勤行が困る」という問いに対する回答は、また別の機会に譲りたいと思います。)
模範は、モスクのミフラーブ。
以下の提案は、勿論、ムスリムの方々を蔑視した意図ではないことは前提ですが、
本尊を撤去した後の具体的な形態として模範を提示しておきたいと思います。
それは、ムスリムが祈り行う際に集まる「モスク」です。
モスクの内部ですが、実はそこには信仰の対象物というものが安置されておりません。
あるのはこれ、
「ミフラーブ」と呼ばれるもので、
要はこれ、カーバ神殿の「方向」を示すために用意された、
言わば、ただの「窪(くぼ)み」です。
イスラムでは、「偶像を作らない」ことが厳格に遵守されていますから、
可視化されていない本尊に向かって「遥拝する」というスタイルが徹底されているのです。
大体顕正会員は「戒壇本尊」を知らない。
可視化されていない本尊という意味で言えば、
顕正会員は、会館の本尊のおっきぃバージョンが戒壇本尊なのだと、曖昧な想像を巡らせているのみで、
実体を確認したことがない(すべきではないし、してはいけない)という点においては、イスラムと同様なわけです。
あの…実際見ると全然違いますからね。
まぁ、見たことがないので当然といえば当然ですが、
今やネットでも閲覧可能なので、現役さんは見てみると良いですよ。(信条的に無理か。)
イスラムのミフラーブに倣って、顕正会は会館に「窪み」を設置すべし!
顕正会は「本尊を増やす」よりも、
「本尊」をおしまいする方向にシフトさせた方が、
精神や教義への背信が避けられますから、長い目で見れば、会長さんの信用の獲得にも繋がるでしょう。
なので、断然、こちらの方が良策であることは明々白々。
では一旦、ここまでの話を総括したいと思います。
「本尊の量産・設置は信用を失うだけだし、教義に適わないから辞めておけ!大体、大石寺の方角だけ分かれば良いんだろ?なら窪みで十分なんだよ!」
というわけで、タイトルの〇〇に入る言葉は
「窪み」
でした。
顕正会はさっさと会館の壁を削って、「窪み」を設置し、真に「遥拝勤行」に徹するべきでしょう。
ご本尊を自宅に安置するようになったら、創価学会のそれと何ら変わらないですねw
創価学会も顕正会も、日蓮正宗から出てきたという経緯から、教義に「一閻浮提総与の御本尊」がある限り、日蓮正宗との関係を切ってしまうと教義が矛盾してしまうというのは、至極当然のことかと思われます。
日蓮正宗は(曲がりなりにも)700年以上続く、いわゆる伝統宗教であり、その教義を捨てるという事は他の法華系新興宗教となんら変わりないのではないかと思います。
突然のコメ、失礼しました。