僕は過去、顕正会の本尊の批判をすることに凝っていた時期がありました。
世間に、そして一人でも多くの方に「顕正会では絶対に救われない」ということを周知させたい一心で、
顕正会の本尊が「ニセ物」であることを立証し、
その事実を揺るぎないものにするために精査を重ね、
結果的に多くの時間と労力を費やしたのです。
もちろん、それは決して何か真新しい試みだったわけではありません。
既出の関連資料を閲覧し、それらをまとめたものに、僕の個人的な考えを加えたごく簡単な内容に過ぎません。
しかし、それらの作業は甲斐あって、作成した記事は、検索上位表示を果たし、
結果、沢山の方に閲読して頂けたことで、当初の僕の目的は一分達成することができました。
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Index
変化した本尊観。
その後、この「ニセ本尊」という概念や、「ニセ本尊」という呼称が用いられていること。
この事実を、一旦、日蓮正宗信徒という立場を離れ、客観的に眺める中で、
そういったものの見方に対し、徐々に懐疑的になり、現在ではある種の嫌悪感すら懐くようになりました。
今回は、その心中を披瀝すると共に、その理由についても言及してみたいと思います。
長いですが、「ニセ本尊批判」に傾倒している方においては、最後まで読んで頂くことを切に願う次第です。
「本物か偽物か」を決定付けるのは本人の主観。
「荘子」の中で、「一切の偏見にとらわれない」、「天地自然と一体」という境地を説明する際の、一つの例え話に、
「胡蝶の夢」というものがあります。
以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。
夢の中の自分が本当の現実なのか?
それとも夢から醒めた自分が本当の現実なのか?
これ、一般的な通念では、普通、「夢の中の自分は現実ではない」となります。
ところが、最先端の「認知科学」の見地からこの事象を説明した場合、
「どちらも現実」という、意外な答えが導き出されます。
現代の科学における躍進的な解明は、まさに上掲の「胡蝶の夢」を実証しているのです。
良くカタルシスなんていうことが言われたりしますが、
映画を見ることに集中することで、強い臨場感を得て、まるでその映画の中に自分が入り込んでいるような感覚を引き起こす精神作用があります。
「本体である自分」の周囲で起こっている現象には無頓着となり、
映画の中での出来事の方に強く意識の影響を受けている状態ですね。
この時の「現実」を認知科学では「映画の中の自分」と定義します。
その時、その瞬間、自分が主観的に感じ取っている「リアリティー」こそが、「本物」であり、
またその時、その瞬間、確かに「本物」であった物事というのも、そこを離れてみると
「それはニセ物であった。」
といった様に、「新たな」定義が加えられます。
本人が過去の事象に対して定義を与えるのです。
つまり人は、過去への「認識」を変化させているに過ぎず、
それは全て本人の主観や、「現在の世界観」に委ねられていると言えるわけです。
日蓮正宗に移っても尚、顕正会で得た体験を「功徳」だと肯定する婦人。
こんな婦人の方がおられました。
その方は、顕正会から日蓮正宗に移籍したことで、顕正会の本尊が「ニセ本尊」だったと判明し、
また、そのことを頭では理解したにも関わらず、
顕正会時代に「病気が治癒した」という体験を「功徳だった」と言って憚らないのです。
これを日蓮正宗側の理屈に当てはめて考えれば、「その現象は魔の通力であった」という答えに帰結するでしょうし、
教団の側はそういった認識を本人に与えようとします。
しかし、婦人は「顕正会の会館にある本尊はニセ物だったのかもしれないが、
戒壇の大御本尊には信じる心がしっかりと届いていたからこそ功徳を頂けたのだ」という論理を展開します。
これも日蓮正宗側にしてみれば、顕正会に所属していた以上、「血脈」の上からそれはない、勘違いだ、魔の通力だとなるでしょう。
ところが、その婦人の方にとって、その現象が「功徳」であると定義する以上、
そちらの方が「本当の現実」なのです。
その時、その瞬間に本人が感じたこと、そのリアリティーこそが紛れもない「本物」なのです。
つまり、過去に起こった事象そのものを変えることは不可能ですが、その事象についての認識を変えることは可能であり、
現在の本人の世界観から主観的に生み出された認識こそが「本当の現実である」ということです。
その婦人の、その時、確かに「顕正会の本尊に救われた」という「本当の現実」に対し、
「あれは誑かされていたのだ」と、殊更に認識を変えたところで、
果たしてその本人にとって何か有益な結果がもたらされるのでしょうか?
僕はそのままで良いと思います。
過去への否定
よく、創価学会や顕正会から日蓮正宗に移った方が、
「ニセ本尊に拝んでいたから生活が立ち行かなくなった」とか、
「ニセ本尊に拝んでいた間の人生は無駄であった」
と、口ぐちに語る姿を目にします。
これは現在の信仰の正当性を証明するために、過去の認識を変化させているだけに過ぎません。
現在の所属団体の正しさを、あくまで自分の中で証明するための「材料」に過ぎないのです。
詰まるところ、「功徳」と呼ばれる現象というのは、個人の強い信念が引き寄せた一つの結果に過ぎません。
その信念を補強するため、人は過去に対し、主観的に様々な定義を加えます。
身近にいる「かわいそうな人」
僕の身近にとってもかわいそうな人がいます。
かわいそうな人は母親に対し、
「自分が子供の時に好きなものを買ってもらえなかった」
ということを他人に対し、恨み事のように滔々と語るのです。
しかし、母親は全くそのようなことはなかったと主張します。
欲しいと言えば都度与えたし、そこまで不自由にさせた覚えはないと。
母親の方の主張が本当なのかもしれません。しかしそれは、言ってしまえば「どうでも良いこと」なのです。
あるのは互いの認識に対する「ズレ」だけです。
しかし、この「かわいそうな人」の主張というのは、「現在の自分の不幸の原因を他者のせいにしている」というのが本質です。
「現在の不幸を立証するための材料として、過去への認識を作り出しているだけに過ぎない」ということです。
今後、かわいそうな人は、現在の不幸を「自分自身で解決しなければならない課題」として、しっかりと対峙できるようになるまでは、
残念ながらいつまで経っても「現在の不幸」から脱却することはできないでしょう。
創価学会や顕正会から日蓮正宗に移る理由。
創価学会や顕正会を辞めて、日蓮正宗に移ろうというときに、
「何が目的か?」ということを考える必要はあると思います。
日蓮正宗に属し、組織の権威や主張を笠に着て、
「あの本尊は自分の不幸に陥れた元凶だ!」
と声高に叫ぶことを、自分の現在の不幸な状況を「肯定」するための手段として利用したいだけであったならば、
先程の「かわいそうな人」と本質的にはなんら変わりありません。
創価学会や顕正会の方は、少なくともその時、その瞬間は「救われていた」はずなんですから。
現在の自分が置かれた状況を正当化するために「本尊」を持ち出し、創価学会や顕正会を攻撃したとしても、
それは本当の意味で「幸福になる手段」ではないはずです。
勿論全ての人が、そうだと断定するわけではありませんが、
そのように見受けられる方が多いのは切実な現状です。
外部から見た「偽本尊批判」。
日蓮正宗が、「ニセ本尊批判」を行うことによって、日蓮正宗が社会からどういった印象、認識を受けるか、
かえって「評価を下げる」のであるならば、検討し、活動内容を改める余地があるということです。
「ニセ本尊」という概念は、日蓮正宗側の世界観から論じられるものでしかないわけで、
そういった偏執的な思想を揚言する行為というのは、
世間から見たら、宗教的紛争を助長させる一種の
「ヘイトスピーチ」
にしか映りません。
確かに、創価学会や顕正会の横暴というのは、社会秩序という側面から見たら、決して看過できるものではありません。
しかし一方で、宗教的な側面から見れば、それは彼らの信仰を侮辱する行為でしかありません。
確かに日蓮は鎌倉で辻説法を行いました。
しかし、時代背景というものを考慮する必要があるでしょう。
当時の常識をそのまま現在に当てはめるのはいかがなものかと思うわけです。
当時、天台智顗の教相判釈は、常識として高い説得力を有していました。
日蓮の生涯は、その解釈に従い、あくまで、その行者という立場から、極めて正統な理解を世に弘めようという一人の「出家」且つ「宗教学者」としての試みだったのです。
しかし、現在考古学的な研究が進む中で、法華経自体が数ある大乗経典の一部に過ぎないことが判明し、
鎌倉時代の宗教的価値観は瓦解しました。
法華経を正しさを証明する「無量義経」も「偽経」でした。
加えて、在〇会などのヘイトスピーチが大きな社会問題としてクローズアップされています。
日蓮の思想をそのまま現代に反映させようとする教義信条の限界。
そういう意味で、今の日蓮正宗は、その教理の根幹にアナクロな問題を抱えていると同時に、
ドラスティックな変化が求められているのかもしれません。
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創価学会員や顕正会員は、彼らの本尊によって救われている
先程の「映画の中の自分」の例えに重ねて考えると、
創価学会員や顕正会員は、まだ映画の中にいるわけで、彼らの「現実」は紛れもないリアリティーを帯びています。
映画が終われば、その現実はニセ物の現実として定義が書き換えられてしまうのかもしれません。
しかし、彼らはまだ映画の中にいるのです。
その映画の具体的な内容については、彼らの発行している機関誌などから知ることができるはずです。
「空」、「唯識」、そして「量子力学」
更に言えば、所詮、世の中の全ての物事は「幻」であり、
個人の世界観によって投影された虚像に過ぎないのです。
このことを仏教では「空」や、
「唯識」という教義体系で説明されます。
般若心経には「色即是空、空即是色」という一節がありますが、
こういった思想は、実は、現在の「量子力学」の見地からも実証されているのです。
全ては同一のエネルギー体であり、物事はそのエネルギー体の変化によってもたらされている。
そしてその変化の形態というのは、「本人が観察することによって初めて確定している。」
逆に言えば、その物事というのは、本人が観察するまでは、一切、確定していないということです。
要するに、主体である信仰者の認識を抜きにして、その本尊が正しいか間違っているか、
功徳を生じる真の法体か、魔の住処かという論議というは本来的に成り立つものではないから、はっきり言って「不毛」なんですね。
その答えというのは相対的であり、まるで普遍性がないわけです。
如何なる信仰の対象も、主体である信仰者の定義によってのみ「正邪」が確定している。
言い換えれば、定義を与えているのは「信仰者」の側であり、
その信仰者によって生み出された、本人の世界観のみが、その本人にとっての「真実」。
しかしそれも本当は「幻」なんだというのが「妙理」であり、「実相」なんです。
ニセ本尊批判が完全に間違っているという極論を言いたいわけではありません。
創価学会や顕正会の横暴に対し、一定の抑止力として機能しているのもまた事実だと思います。
しかしそういった行為を見聞きする中に、僕がヘイトスピーチと同様の嫌悪感を懐くのは、
物事に二面性を無視した、一方的な価値観の押しつけという偏執的な態度。
そして他者の信仰をなじる言動そのものが、得も言われぬ「不快感」をもたらしているからに他なりません。
こんばんは。
今回記事内に使われてる写真が……w
私が拙ブログ内で意見記事を書いたら、先方さんのコメント欄で私のことが非難されてました。
紹介者からも、「せめて、先方の御住職が了承済みか否かの確認を取ってからにしろ」と、注意されましたよ。
ですが、やっぱり私には違和感が大き過ぎて賛同できませんですね。
私は自分が信仰していることを周囲に明かした上で、その振る舞いを見て頂くことで、この信仰に興味を持ってもらうという方式に切り替えましたよ。
何せ、相手は一般人ですからね。
宗教に対する風当たりが強い中、やはり街頭折伏は……何か違うと思うんですよね。
おかげさまで興味を持って頂けた方々が出るようになりまして、その方々に対しては積極的に仏法の話ができるようになりました。
これはなかなかの前進で、それが正当だと思うのですがね。