「神は死んだ。」
「一神教」をこれでもかとばかりに指弾した、「ニーチェ」。(1844~1900)
キリスト教の価値観を「奴隷道徳」と呼び、散文的な論調を特徴として、
極めてラディカルな批判を展開した希代の哲学者です。
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原罪と博愛。
ところで、キリスト教には「原罪」という概念があります。
これは人間の大元、「アダムとイブ」が犯した「罪」を、人類が悉く受け継いでいるというものです。
「人間は本質として罪深く、自分勝手であり、必ず神の意志に反するようなことをしてしまうのだ」
ユダヤ教やキリスト教ではこのような概念がバックボーンとして存在しているのです。
それなのになぜ、「教会」が存在するのでしょうか?
彼らは人を裁いたり、「免罪符」を発行して、人に罪を与えたり、赦したりします。
これは人間が「神」の役割を演じているのです。
おかしな話ではありませんか?
人は「不完全」であり、「得てして、神の意志に反するものだ」と説きながら、
同時に神の名を笠に着て「絶対、無謬」を装い、権威を奮っているのですから。
また、キリストの教えは「博愛」です。
人間は神から、「平等に愛されている」と説くのです。
なのに何故、「教会」という「組織」を構築し、人間に優劣をつけ、序列化を図るのでしょうか?
イエスの在世は「教会」などありません。それどころか「宗教」ですらないのです。
「教会」というものが成立した時点で、
もう「イエスの教え」など、どこかへすっ飛んでしまっているのです。
思想から宗教へ。
イエスは「思想家」です。
イエスは「死後の世界」については何も語っていません。
また、釈迦も「思想家」です。
釈迦も同じく「死後の世界」については何も語っていないからです。
「教え」は後世の人々によって誇張され、創作されていきます。
「元からそういう教えだった」と、事実が塗り替えていくのです。
これは「思想」から「宗教」への変容であり、
教会も宗派も、恣意的な着色が施された「人為的な教え」を、
神や仏の仮面を被た「人間」が説いているのです。
我こそ「絶対」。
元々「不完全」なものに「完全」を求めること自体がおかしいわけです。
「絶対」なんていうものはこの世に存在しないにも関わらず、
「無謬性」を強調し、「絶対性」を振りかざしているのですから。
「従え、さもないと断罪するぞ!」と、叱責し、抑圧するのです。
これは「くつ」に合わせて「足」を切るようなもの。
できないことを強要するから「ゆがむ」のですよ。
「足」、痛いですよね。逃げたくなるだろうし、当然そこには「怨恨」が残ります。
だから、分裂していくのです。
それはもう野放図に、次から次へと色々なものが勃興します。
仕方がありません。そういう原理なんですから。
「神」も「釈迦」も「日蓮」も。
「神」は死にました。
「釈迦」も死にました。
そして「日蓮」も死にました。
死んだのです。死人は何も語り得ません。「死人に口なし」です。
ただし仮に、「イエス」や「釈迦」が蘇生し、この世に再臨したならば、
僕は、恐らくこう言うと思います。
「私は完全ではありません。」
イエスが神と同位に格上げされたのは、死後、数百年後の公会議に至ってのことであり、
三位一体という教義は最初からあったわけではないからです。
しかし、それを聞いた、ハラの黒い「既得権益者」の方々は、
「騙されるな!あいつは偽物だ!」
といって、批難を浴びせ、迫害し、処刑をするのです。
とても残念なことに。
仕方がありません。それが人間の性なんですから。
ニーチェは学生時代にハマリました。
今から25年前、学生はみんなニーチェファンでした。
そして、私はB’zの「信じる者しか救わない、せこい神様拝むよりは、僕と一緒にいるほうが気持ちよくなれるから~」って歌詞にシビレてました。
宗教が嫌いだったんですね。
死んだら地獄に行くとか。考えるだけでも気が滅入る。
精神的に不安定にならざるをえないんですよ、あの手の宗教は。
キリスト教もイスラム教も邪教です。一神教は人間性の悪魔的な部分「ルサンチマン」を増長させるのです。
幸せになりたい人々。死んでも幸せであり続けたい人々。
イスラム教徒が携帯型のミサイルで敵の戦闘機を撃墜したときの喜びようったら、「アッラー!アッラーよ!感謝します!あなたに感謝します!あなたのおかげで敵を殺すことができました!」ぞっとしますよね。
キリスト教徒もそして私も同じなんです。
心の中では嫌いな人が死ねばいいと思っている。死んだ後も地獄に落ちて苦しめばいいと思い、地獄に落ちたと家族に言ってやりたくてしかたない。
ポリ銀は所詮ルサンチマン男なのです。