僕らがTwitterなどで日常的に慣れ親しむ「アイコン」の語源とは何か?
答えは、英表記で「icon」。読みは「イコン」。
イコンとは元来、キリスト教における「聖画像」のことを指した言葉です。
要するに、これは「崇拝の対象」を可視化、具現化したものであって、
所詮、「偶像」を意味します。
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Index
icon(イコン)の造形に手を染めたカトリック。
アブラハムの宗教と呼ばれる、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教。
これらの一神教においては、基本的に、偶像を立てて崇めることを禁忌とし、
この信条の依拠に、ヘブライ語聖書における「モーセの十戒」の一項目が挙げられます。
あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。
しかしキリスト教に限っては、(特にカトリック)は唯一、この信条から逸脱していきました。
イスラム教は後発です。勃興当時、ムハンマドを筆頭に、この「偶像崇拝の容認」という時代の趨勢に抗って、原点回帰を果たしました。
その発生理由に基づき、イスラム教というのは、偶像の禁忌について、非常に厳格です。
同じく、プロテスタントもイエス在世の淵源へと回帰し、その思想に端を発したムーブメントによって勃興したカテゴリーです。
「偶像」を生みだしてしまったカトリック。
その背景を成した、人々の要請や、政治的意図はさておき、
結果的に、神の戒めを破ってしまった事実を否定することはできません。
しかしそれは、本当に咎められるべき「罪」だったのでしょうか?
もし人が、「偶像を生み出さずにはいられない存在」であると仮定したならば、
むしろ、その流れというのは必然的であり、情状酌量ということにならないだろうか?
そもそも遵守が不能な条目を、なぜ神は定めたのだろうか?
宗教改革者カルヴァン曰く。
果たして、その名を知らない者があるでしょうか?
彼は、
「人間の心は、まさしく偶像を作り出す工場である」
との言葉を残しています。
得てして、人は、概念を可視的なイメージに置き換え、単純化して理解したがる傾向にあります。
複雑な概念、あるいは、感情や信念を、具現化、象形化し、シンボリックに表現することを欲するのです。
偶像の林立。
ネットは、そういった人の「想念」を可視的な存在に、簡易に変換する機能を具えています。
更に、急進的なグローバリズムに伴うデバイスの普及は、誰でも安直に、それを実現出来得る環境を整備しました。
作り出された「偶像」は、ネットの波に乗って、広域に波及し、時に「雪だるま式」に、良くも悪くもイメージを増強していきます。
ふと見渡せば、偶像はありとあらゆる場所で、その存在意義を主張しています。
つまり、そこには生み出した親、人間の魂が吹き込まれているのであって、
可視的な要素の奥には、作者による、何らかの「意図」が潜伏しているわけです。
偶像を英語訳すると「idol」。つまり「アイドル」となります。
上掲は実写ですが、アイドルと聞けば以下のようなものがしっくりくるかと。
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旧宗教概念の衰退と、新宗教概念の台頭。
アイドルが人を「熱狂」させ、「コミュニティ」形成の役割を担っている。
この現象については、もはや現代の文脈において疑う余地はありませんが、
ここに「宗教」と近似の性格と、共通性を指摘することができるはずです。
例えば、誰かに入れ揚げている姿を、傍目に「〇〇教」と揶揄されることは、広く見受けられますね。
・宗教の枠組みとして一般的に規定される存在。
・宗教的性質を持つ、一般的に宗教とは切り離されて認識されている存在。
この両者を比較したとき、明確な違いとは何でしょう?
政治的な支配構造と結び付いてきた前者というのが、既存の宗教概念です。
では、後者は何と結び付くか?
経済です。
現代の資本主義の構造においては、裏では経済が支配権を握っていることは言うまでもありませんね。
経済が政治の影響力を凌駕し、超越していく過程において、減衰していく既存の宗教。
それに取って代わって、あたまをもたげてきた、新時代における「偶像」たち。
人々の宗教的欲求を満たし、そして、その解消に寄与している存在は、既に、大きな変遷を遂げてきているのはないでしょうか?
シンボルの奥に鎮座している「宗教的性格」を帯びた「偶像」。
視覚を通じて、人々の意識を特定の方向性へと誘導するエネルギー。
これから先の「宗教」を考えるということは、これらの存在も包括的に「宗教」の対象として、含めて考察していく必要があるはずです。
形而上と物理世界の紐帯として機能する「メディア」。
『偶像崇拝は、予備的関心を根源的関心にまで高める事である。本質的に制約を受けているものを無制約的なものと考え、本質的に部分的なものを普遍的なものにまで高め、本質的に有限なものに無限の意味を与える事である』 (パウル・ティリッヒ)
ナショナリズム、特定のイデオロギーに準拠した言説、あるいは経済的戦略、
これらの情報を運び、拡散する役を担っているのが「メディア」です。
「メディア」とは「媒介」。
その昔、あの世とこの世を繋ぐ、霊媒者に「メディア」という呼称が充てられていたこともあったようです。
本来、特定の価値観や利潤に基づいた、狭義的、限定的な情報は、
「メディア」という媒介によって、「信用」が付与され、徐々に普遍性を帯びていきます。
従来、宗教は「国家」の介入によって、普遍的価値観へと止揚されてきました。
教育、道徳、そして一般的通念と化し、
更に、倫理、常識へと性質を変え、
文化を形成し、世界の有り様を決定付けてきたのです。
宗教=「答え無き問い」への探求。
「宗教」は、「世俗化」によって失われるというような軽薄なものではなく、
むしろ「形態を変化させただけ」であって、
人々の「宗教性」を喚起させる存在は単に「分散」され、社会の様々な概念と結び付き、
あらゆる場所に溶け込んでいるのです。
「宗教を考える」ということは、
世間のあらゆる事象を、「宗教的」な立場、視点から切り込み、
通常見えざる、本質的な部分を映し出し、観察していくこと。
言い換えれば、
存在や情報の「輪郭」を把握した上で、奥に潜む「宗教的な性質」を抽出し、本質に迫る試みに他なりません。
「宗教」への関心をなおざりにする限りにおいて、「考える力」は育たない。
僕は、そう思うのです。
「宗教」とは「答え無き問い」への探求、そのものではないでしょうか?
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