「顕正会」の法律上認可された正式な名称は「宗教法人顕正会」。
「大石寺」とは、日蓮正宗の総本山である「富士大石寺」(※正式には多宝富士大日蓮華山大石寺)のことです。
では、双方には一体どのような関係性があるのでしょうか?
顕正会は過去に「妙信講」として日蓮正宗に属していましたが、昭和49年に「破門」されて以降、名称を「顕正会」に変更しました。
つまり、「日蓮正宗」は顕正会の「母体である」と言えます。
破門後の顕正会は、全く別の団体として新たな信条を設け、教義を打ち立てていくことになります。
要するに、現在は実質無関係であるにも関わらず、「顕正会」は勝手に本家の総本山である「富士大石寺」の名を騙って、「冨士大石寺顕正会」と、自称しているに過ぎないというのが実態です。
日蓮正宗サイドからは、これを「詐称」であるとして、非難の声が浴びせられています。。
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Index
なぜ「富」ではなく、わざわざ「冨」の表記を用いるのか?日蓮大聖人の御在世(鎌倉時代)の信仰スタイルを意識
「昭和49年8月」。
顕正会前身であった「妙信講」は、日蓮正宗と「教義上の対立」が起こった際に、大石寺側からは団体としては「破門」され、
当時講頭の地位にあった、現顕正会会長、浅井昭衛氏は「除名」の処分が下されました。
その後会長は、
「日蓮大聖人御在世(鎌倉時代)の厳格な信行に立ち還る」というキャッチを掲げ、
従来から守られ続けてきた信条や、実践の形式に、大幅な変更を加えていきます。
(※日蓮正宗や顕正会では「日蓮」のことを本仏と見るので「日蓮大聖人」と呼称します。)
「遥拝勤行」という顕正会独自の信仰形態。
新たに打ち立てた教義の最たる例として、「遥拝勤行(ようはいごんぎょう)」が挙げられます。
「勤行」とは、本尊の前で、一日二度(朝・夕)に読経し、「南無妙法蓮華経」のお題目を唱える、信仰の日常的、且つ基本的な実践項目の一つです。
(※参照リンク↓)
しかし、顕正会は破門されたことにより、勤行を行う際に対象とすべき「本尊」を日蓮正宗から下附してもらう資格を喪失してしまったのです。
そこで浅井会長は、
「遥拝勤行」という、今までにない、全く新たな実践法を提唱し、
「実は、日蓮大聖人御在世には、この遥拝勤行が行われていたのだ」と、まことしやかな虚言を吐き、会員にこの実践法を定着させました。
(※参照リンク↓))
この「遥拝勤行」とは、富士宮市にある「大石寺」が保持し、境内の「奉安堂」という施設に安置されている「本門戒壇の大御本尊」(大石寺の重宝であり、究極の本尊として)を、
各会員が、自宅から遥(はるか)に、直接的に拝むことによって、
「寺院を介さずともダイレクトにご利益を享受することができる」
という、従来の信条を打ち破る、全く新たな方法論です。
ちなみに日蓮正宗では、本尊下附が総本山から許さるまでの期間は、顕正会と同様に本尊を保有しない状態で勤行が行われていますが、
これは「内得信仰」と称され、
あくまで本尊下附を目標に、精進するための仮期間として設けられたり、下附が極めて困難な環境にある信徒のみに与えられた実践形態で、言わば暫定的な処置の意味合いを持ちます。
(※参照リンク↓)
「ここが変!」顕正会と日蓮正宗の勤行比較。おかしな相違点を列挙。
余談ですが、大石寺では境内の「客殿」という施設にて、毎朝(といっても深夜2時頃から)「丑寅(うしとら)勤行」というものが、日蓮正宗の法主上人によって執り行われています。
法主上人は勤行を一通り終えた後、「客殿」の奥に用意された「遥拝所」という場所まで移動し、
そこから「奉安堂」に安置されている「本門戒壇の大御本尊」に向かって再度、勤行が行われる手順になっています。
恐らく浅井会長が提唱した「遥拝勤行」とは、この「遥拝所での勤行」を模して、アレンジを加えたものと思われます。
浅井会長は、「自宅に本尊を掛け、その前で行う勤行」を当たり前のように実践してきた過去があるにも関わらず、
会の「破門」を機に、本尊が総本山大石寺から下附されなくなると、従来の形式を維持していくことに無理が生じてしまうため、
直ちに元来の形式を否定し、新たな方法を会員に教示することによって、会の存続を図ったというわけです。
刷新・原理主義運動の側面も
また、その他にも同様の理由によって、種々の新たなルールが作られていきました。(※僧侶の排斥、塔婆供養の廃止等。)
ちなみに個人的見解に基づいた余談になりますが、
この教団分裂の経緯というのは、ちょうど西洋のキリスト教における、カトリックからプロテスタント派生の流れに被るものがあると思います。
どういうことかというと、顕正会が主張した内容というのは、
かつて西洋で勃興した宗教革命の際に、ルターが主張した内容と酷似しているのです。
顕正会が派生した経緯をそういった角度から眺めてみると、
これは、日蓮思想の「原理主義運動」(ファンダメンタリズム)という側面があることに気付かされます。
(※参照リンク↓)
ちなみに後の平成3年に破門となった「創価学会」についても、似たような経緯を辿って派生した教団と見て良いでしょう。
古今東西問わず、新宗教が母体教団から独立、派生していく経緯、口実といったものは、
いずれも大きな違いはなく、そればかりか多数の共通項を見ることができます。
所詮、「宗教」とは「そういうもの」なのかもしれませんね。
(※参照リンク↓)
【宗教の性質】大石寺はなぜ分裂するのか?西洋の宗教との類似点。
本家を否定するために、「冨」の表記を利用。
当然のことですが、新たな教団を興すためには「元祖の否定」が必要条件となります。
ということで、
「日蓮正宗の教義は長い時を経る中に変質してしまった。私(浅井会長)の教示する実践形態こそが、御在世(鎌倉時代)に行われていた本来の信仰スタイルである。」といった、口実が後付けとして加えられたのです。
つまり、本家を指して「あちらの方がおかしいのだ」と言うことによって、教義変更するための根拠をでっち上げ、
新たに「こちらの方が本家」という自覚・認識を会員に植え付けたというわけです。
ここで浮かび上がってくる一つの疑問。
なぜ「富」ではなく、「冨」なのか?
これは、その昔。「富士」ではなく「冨士」という表記の方を使用されていたことに由来します。
顕正会がわざわざ古い「冨」の表記の方を用いる、その目的とは、
「我々は日蓮在世(鎌倉時代)の信仰スタイルをそのまま現代に移し、愚直に体現している唯一の団体である」
との主張を「字の表記」によって宣揚するためです。
またこのことは、外に向けた意図以外にも、内側、つまり信者達に対し、そういった「自意識」を補強するために意味合いも兼ねられています。
彼らの中には、「大石寺の者です」と言って勧誘を仕掛けてくる信者もいるほどです。
「顕正会」と「大石寺(日蓮正宗)」。
一見、紛らわしいので混同してしまいがちですが、実は、別箇の教団なのです。
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確かに昔は「富」ではなく「冨」だったようです。
日蓮正宗系の出版社である「暁鐘出版」が発行している「化儀抄のやさしい解説」の表紙を開くと、大石寺の第9世御法主、日有上人の肖像画らしきものが掲載されていますが、
ここで「富」ではなく「冨」と表記されていることが確認できます。
確かに昔は「冨」の方が使われていたようですね。
「字」くらい一応変えておこう。でも本当は堂々と「富」の字を使いたいのかも。
自称とはいえ、もし顕正会がそのまま「富」の字を使用し、「富士大石寺」と冠して布教するならば、日蓮正宗側から、もろにバッシングを浴びること必定です。
まぁこれは日蓮正宗に限ったことではなく、顕正会は、過去に度々「入信強要」や「未成年者誘拐」の罪で事件を起こしているような教団ですから、
既に世間での信用は破綻しているといっても過言ではありません。
(※参照リンク↓)
しかし、いくら彼らが大石寺の正統を主張したいとはいえ、
さすがに本家の表記を「一字も違わずそのままコピーする」というのは、
いくら何でも、やり過ぎだと思ったのでしょう。
ここは、「一応、表記ぐらいは差別化しておこう」と、
会長なりに、謙虚に考えてのことかもしれません。
しかし、出来ることなら…
「堂々と「富」の字を使いたい。でも破門された立場上、露骨にそれはできない。」
というのが本音なのかもしれませんね。
塩村文夏が応援してくれることは間違いなさそう