とあるネット上の1コマを傍観していてひっさびさにブログ書きたい衝動が込み上げてきたので、衝動冷めやらぬうちに文章にしちゃおうと思います。
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「AともいえるがBともいえる」とか言う人の役立たなさ
あるブロガーによるこんな投稿がありましてね。
もう5年も前のものです。
5年前といったら私個人にとってはカルト宗教団体で有名な顕正会を辞める少し前くらいの話です。
まずはみなさま、上のリンクを踏んでエントリーを読んでみてください。
…
どんな感想を持たれたでしょうか?
え、そんなのいちいち読んでられっかって?
多分すぐに読めますよ。そんなに長い文ではありませんから。
このちきりんさんという方。
自称社会派ブロガーという肩書きで、主に経済なんかにまつわる投稿が多いんでしょうかね。
今回紹介したエントリーですが、主張の趣旨をまとめると、
ある人が意見を述べたとき、「そういう場合もあるけど、違う場合もある」 とか、「人それぞれ、一概には言えない」とか、「Aとも言えるがBとも言える」
みたいな反応をする人は、つまらない。 タチが悪い。
そういう反応は意味不明であるし、
そういう反応をする人は自分の意見を持っていない。
そんなことなら5歳の子供にも言えるし、返答に1秒もかからないわけで、何も考えていないのと同じだ。
と、ざっくりですがこんな感じではないかと思われます。
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率直に言って貧しい考え方だと思う
みなさんはこういった極端な意見を耳にしてどう思われたかはわかりません、そもそもこの主張自体が別段、極端ではないと思われたかもしれません。
私自身は「今」この投稿を読んでみて、非常に「貧しい」考え方だと感じました。
ポイントは「今」、です。
では昔は違ったのか?という話なのですが、はい、昔は違いました。
むしろ私はこのちきりん氏のブログの読者でありました。執筆された本も買って読みました。まさにこのブログの昔の投稿で紹介もしていたはずです。
昔といってもこのブログ自体それほど歴史が古いわけではございませんので、せいぜい3〜4年前くらいじゃないかなぁ。よく覚えてないけど。
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なんか見たくないものを見てしまった感
4年くらい前というと、まだ私が顕正会から抜けて間もないくらいの頃なんですよ。
その頃の私はちきりんさんに限らず、盛んに「ネット上で声の大きい人」の意見を積極的に取り入れていたんですね。
多分、今回紹介したエントリーもその頃に読んでいたはずです。
で、読んでいるにも関わらず、何も違和感を持たないどころか、むしろ書作を購入して熱心に読んでいて、
尚且つ、この人は素晴らしいことを言っている、みんなにもこの主張、考え方を届けたい! みたいな熱に浮かされてブログ記事にしてしまうくらいですから、この数年の間に随分自分の考え方は変わったんだなぁと今、強く実感するものであります。
ところでなぜこんな古いエントリーを今更あえて発掘してネタにしているのかというと、
実は最近、とある、そこそこ人気が出てきている? ブロガーが、この氏の記事のリンクを貼ったtweetをして(どうやらリスペクトしているらしく)それに対して、そうだそうだ! みたいなよくわからないけど人々が賛同してるげな光景を不意に見かけてしまったのですね。
それで私もリンクを踏んで当該記事を改めて読んでみて、ゾッとしたわけですよ。
あ、この人俺も昔リスペクトしてたわ、そういえば。といった具合に。
お互い思っている「なぜわからない??」
ここからようやく本題に入っていく流れですが、私のよ〜く知っているカルト宗教団体(顕正会)の構成員たち(顕正会員)は、極論や尖った意見大好きです。
- 「あと○年で必ず日本が滅びる」
- 「信じて実践すれば必ず幸せになる」
- 「信じないで悪口を叩けば、その人は必ず不幸になる」
私が今これらの極端な意見に対して自分の考えを述べるならば、
- 「あと数年で日本が経済的にかなりやばい状況に直面することになる、みたいな考え方もある。多分そうはならない可能性の方が高いと信じてる、あまり根拠はないけど」
- 「信じて実践すれば幸せになる人も中にはいるはず。なぜなら幸福の定義は人それぞれだから。いちいち他人がその価値観に介入すべきものではない。ただし多くの場合は最終的に会の教えにあるような絶対的幸福と言える大層な境地になど至っていないように思える」
- 「そうなのかもしれない。なぜならその人の主観によって様々な見え方があるから。仮に悪口を言ってた人がつまづいて転んだだけでも、あれは悪口を言ったからに違いない、と強く信じてる場合は、その人にとってはおそらくそれが現実だから。人それぞれ」
と、こんな感じでしょうか。
基本的に私は相対主義なので、絶対とか言う人はほとんど信じていません。(カルトからの反動かもしれません)
絶対とか強く思っている人は、比較的周囲を過小評価していて、同時に自分を過大評価していると思っています。
なぜなら、過去の自分がそうだったからです。カルト信者だった頃、私はよく「絶対」という言葉を口にしていました。
そして私が口にする「絶対」がわからない人たちを過小評価していました。
「なぜこの素晴らしい教えがわからないんだ! かわいそうな奴だなこいつは」
「なぜ浅井先生の素晴らしさがわからないんだ。人を見る目がないなこいつは」
「なぜわからない??」
といった調子で。
勧誘した相手は、
「それが全てではない、ということがなぜわからない??」
と思っていたかもしれません。
いや、大抵の人はそう思っていたはずです。
中には「それが全てだと思い込んでいるなんて、貧しい考え方だな」
と、思った方もおられたかもしれません。
他人を過小評価し、極論を振りかざすカルト信者たち
氏も文の中程で言っています。
「それがなぜわからない??」
そしてそれを読んだ私は今「貧しい考え方だな」と思っています。
氏はそういう、あえて濁したような言い方をする人達、その意見を「意味不明」とまで言っています。
それは意味、というより、反応した側の「真意」が理解できていないのだと思います。
だから「意味不明」で片付けたくなってしまうのだと思います。
「そういう場合もあるけど、違う場合もある」
と反応したならば、それは何か主張したい意見があるけど、「相手に聞く耳があるかどうか」をまずは判断するため、控えめに様子をみているのかもしれません。
私が強烈に布教を展開していた頃、相手からそれに対して「違う」という意見を耳にしたことがほとんどありませんでした。
人はちょっとやそっとじゃ動かない相手の強い信念を「俺が翻してやろう」だなんて、よっぽどの理由がない限り考えません。
そして私の過去の強い信念は今思うと盛大に間違っておりました。
ただし!
強く、論理的に、情をもって諭されていたならば、もしかしたらもう少し早くこの現実社会に復帰できたかもしれません。
あるいは、
「そういう場合もあるけど、違う場合もある」
と反応された際、氏のようにイライラしていたら私のように貴重な人生の時間を無駄にしてしまう恐れがあります。
熱くなる前に、自分の振る舞いが相手の貴重な意見を殺していないかをよく考えるべきです。
氏からすると、そのような意味不明なことを言ってくる人は皆、中身が空洞のピーマンのように見えるのかもしれませんが、
そんなはずはありません。
皆、それぞれ自分の意見をもっています。様々な経験もしています。何も考えていないわけがありません。
しかし、「何も考えていないのと同じだ」
と、思ってしまうのは、忖度する心がないからです。
結果的にそれは「何もその人から引き出せていないのと同じ」 なんです。
「人それぞれ、一概には言えない」
という反応があったならば、もしかしたらその人はその話題に関して何か辛い出来事などが過去にあったかもしれません。
もし、その失敗談をその人から引き出せたならば、それを教訓として取り入れ、この先自分が同じ轍を踏まずに済むようなことがあるかもしれません。
まだカルト信者だった
顧みれば宗教団体から離れ、少しの期間が過ぎたからといって、私はまだまだカルト信者だったに違いありません。
繰り返しますが、
「なぜわからない??」
という情動の正体は人に対する過小評価だと私は思います。
過小評価の奥に存在するのは強烈過ぎる信念、主観。それらに対する過大評価です。
強過ぎる信念の影には弱い心がいます。
誰にも弱い心があるはずです。
ただしその弱い心の存在が大き過ぎると容易には隠しきれず、自己防衛的に強烈な信念や主観を盾代わりとして、積極的に前面に出す必要があるということでしょう。
と、少なくともカルト時代とその後暫くの私を振り返るとまさにそうでした。
「強い信念」という支えから独り立ちできなかったのかもしれません。
そして、そういうものをまだ必要とし、惹かれたが故に、あの頃の私は氏の文章に共鳴していたのだと思います。
みんな自分の頭で考えているし、自分の考えをもっていますよ。
立場の違いが理解や疎通を難しくしているだけなのであって。
冒頭の記事を読んだとき、ミミさんはこの考え方を推奨してるのかな、と早とちりしてしまい少し不安になってしまいましたが、全て読んでみて納得しました。
自分も熱心な顕正会員だったときは「絶対」をよく使っていましたし、反論をされることはなかったので自分こそ正しいんだと思い込んでいました。今思えば恥ずかしいですが、、
切り捨てる言葉、強い言葉を使えばある意味魅力的で人を惹きつけるのかもしれませんが、活動してたころの反動からか、今はそういったものが苦手になってしまいました。
人にはそれぞれ色んな考え方があって答えは一つではないですし、何も考えていない人はいない。それを念頭において人と接するように心がけるようになりました。