やや照れ臭いテーマですが、
「愛」の定義について、僕の思うところを語ってみたいと思います。
SPONSORED LINK
Index
【愛】とは何か?
「愛とは何か?」と、問われて、ズバリ的確に説明できる方というのは、なかなか奇特な部類だと思います。
家族?恋人?
ありがちな上記の例は、全く不正解ではないにしろ、
これでは個人の価値観に基づいた具体的な対象を述べたに過ぎませんから、普遍性や汎用性を有する「説明」とは成り得ていません。
では一体何なのか?
僕は、できる限り、普遍妥当な表現を探した結果、
「統合しようとするエネルギーの働き」
という解答に辿り着きました。
「抽象度を上げる」ということ。
例えば、「私は人間でこれは猫」という別々の概念を統合すると、「生命である」と、まとめることができるはずです。
これって「愛」ではないでしょうか?
同様に「私は夫であなたは妻」を統合すれば「夫婦」となるし、「ここは日本であそこは韓国」を統合すれば「アジア」という概念として一括りにすることができます。
つまり、対象とする概念の「抽象度」を上げていく、
その「ベクトルそのものが愛」なのです。
すると、どうでしょう。
優劣を争って相手を蔑んだり、張り合う必要もなくなるはずです。
反対に、「差別や争い」というのは「分けること」によって生じます。
分かれていなければ「差別や争い」は生じません。そもそも相手がいないわけですからね。
ではそもそも、なぜ人間は概念を「分ける」必要があったのか?
それは、「分けよう」という思考の傾向性を生来的に有しているからに他なりません。
「分ける」と「分かる」
「分ける」と「分かる」は同じ漢字を使いますよね。
人間が概念をあれこれ「分ける」のは、物事を「より分かり易くするため」に必要だから行っていることなんです。
「分ける」の反対は「統合する」ということですよね。「インテグレート。」
しかし、前述したように、
「愛」を「統合しようとするエネルギーの働き」と定義するならば、
「分かり易く」説明しようとした時点で、これは概念の対立が生じてしまいます。
上と下。S極とN極。というように、互いの関係は相反しているので、細分化すればするほど、本質からは離れていきます。
【愛】は与えるもの。
ただし、前提として、「愛」は「与えるもの」であり、「貰ったり」、また決して「奪ったり」するものではないはずです。
「愛」は与えるもの。
「頭」というのは、「貰う」ことで、満たされますが、
「心」は「与える」ことで満たされます。
「頭」と「心」で得られる満足感は別なんです。
また「与える」ということは「損得勘定」抜きの見返りを求めない清廉潔白な行為です。
そういうと、何か「自己犠牲が伴うのではないか」というイメージですが、
必ずしも相手の要望を満たすのに、「自己犠牲」が伴うわけではないですよね。
卑近な例を挙げれば「話を聞く」という行為です。これは身体的に何か大きなリスクを負うわけではありません。
「貰う」ことだけでは決して「心の充足感を得る」ことはできません。「貰う」ことで、「心の充足感」得ようとするのは顛倒した考え方なのです。
ちなみに、アドラー心理学では「貢献感」というものを「幸福」の本質と捉えていますが、
この幸福ということも「愛」と同様、抽象度を上げれば「ベクトル」として説明されるものなんだと思います。
SPONSORED LINK
つまり愛とは、「与えること」を前提とした「統合」
話は戻り「統合」というと、中には「戦略、侵略的」なイメージを孕んでいることが多々あります。
「TPP」などは、その好例と言えるのかもしれません。
これは従来の貿易に関連する規約を変更し、加盟各国を、アメリカ主導のルールへと「統合」しようというものですよね。
「TPP」は今でこそ「環太平洋パートナーシップ協定」などと呼ばれていますが、正式には「環太平洋戦略的経済連携協定」です。以前はマスメディアもそのように報道していたはずですが‥。
日本に不利な規約ばかり押し付けられ、営業力に劣る日本側は対応に四苦八苦していますね。
「M&A」などもそうですが、これらは「利潤」を目的とする「統合」です。
「奪い」「搾取」を前提とする目論見がありますから、純粋な「与える」という心根に反します。
勿論、「一事が万事」と、頭ごなしに決めつけるのは早計かもしれません。
事業を合併することにより、互恵関係をもたらす事例も少なからず存在することでしょう。
しかし、「愛」は決して合理性から語られるものではないはずです。
問題は「動機」であって、「奪う」ことや「搾取しよう」という戦略的な意図がある限り、
見返りを求めない、清廉潔白な「与える行為」とは言い難いと思います。
もし、夫婦どちらかが「結婚詐欺」を目論み、結婚生活そのものに戦略的な意図があったならば、
それを「愛」と呼ぶには無理があります。
上司と部下との関係においても、
「おまえと俺は同じ部署で働く以上一心同体であるべきだ」などと如何にも尤もらしいことを言って部下の尊敬を惹きつつ、
心の中では「散々こき使ってやろう」などと企んでいたならば、これも「愛」とは言えませんね。
それは【愛】か、それとも【愛】ではないのか。
相手の言動が「愛」なのか?それとも「愛」ではないのか?
これを考えるとき、煩雑な事情が絡まり合い、認識を歪ませる場合があります。
「あなたのためを思って」「あなたのためを真剣に考えて」などと言いながら、
結果的に相手に何等かの強制をしたり、
活力を搾取したりするケースです。
それが本当に「愛」なのか見抜く方法として、
試しに「相手が意図する統合を拒んでみる」という手段を行使してみると良いです。
もしそれが、自己都合、即ち、「ニセ物の愛」であった場合、相手は決まって「憤慨」します。
これは非常に分かり易いのです。「損得勘定」や「見返り」がなければ、何も「憤慨」する必要がないわけですからねー。
「支配」「侵害」「管理」「操作」しようとするのです。
これは明らかに「愛」ではありません。
個人の自由意思を踏みにじり、自尊心をズタズタにする、「暴力」です。
決して従ってはいけません。
価値観の相違は須く生じます。
互いにとっての「愛」とは何か?
この問いに対して、双方が共に、キチンと向き合うことができたのなら、
その営為自体を「愛」と呼ぶことができるのではないでしょうか?
愛と言う概念の検証に於いて、愛国心となると話がそれてしまします。此処で議題にしたいのは「自己肯定」と良心の変容に付いてです。つまり良心は変容しうると言う仮説の下に成り立つ愛と、変容しないと言う概念に於いて、どちらが魂の進化に適しているかという事になります。
良心は変容を繰り返すほど進化し、変容し無ければ退化します。魂の進化の一過程として重要な役割を担う愛だとすれば、「変容し無い固定概念は有用で有るか」となります。故に良心の変容を固定するならば、愛は不要となります。
此処に一縷の望み、希望が存在出来ます。この概念を廻っては今も尚議論の尽きない所です。恋に関しては本能的欲望と見なす事が可能です。ですが、愛に関しては欲望を超越しているのです、ですから愛は抑制機能としても効果を発揮します。
本能はコントロールされるべき物ですから、一応のメリットを見出す事が出来る訳です。愛情となれば多くの動物に見受けられますから、情と切り離された「愛」はツールとして必要不可欠なもので、代わりになる物が有りません。