僕が顕正会で真剣に勤行(ごんぎょう)を始めるようになって、約1・2か月経過した頃、まずは仲の良かった友人たちを次々と勧誘していくようになりました。
もともと父親が大の宗教嫌いなので、その影響もあってか、それまでは人を宗教に誘うなんてことは僕の人生の中で有り得ないことだと思っていました。
では何がキッカケで勧誘をするようになったのか?
それは顕正会で発行している「折伏理論書」を読み進めていたとき、そこに書かれた衝撃的な事実を目にしたことに始まりました。
「折伏理論書」のP65には、
勤行は自分自身の修行であるから「自行(自行)」といい、折伏は他人を教化し救う修行であるから「化他(けた)」という。末法、ことに広宣流布以前の謗法充満の世においては、自行を化他が車の両輪のごとく相俟(あいま)って、始めて完璧なる仏法の実践となる。すなわち自分が御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱えるだけでなく、人にも御本尊の功徳を教え、信心を勧めていくことが、大聖人の仰せのままの正しい仏道修行である
と、このように、書かれていたわけです。
もともと、「勤行すると幸せになるよ。南無妙法蓮華経と唱えるだけでいいんだよ。」
と言われたから始めたというのに、折伏理論書では、
「人に勧めることで初めて完璧なる仏法の実践となる」
と、書かれていたんですね。
「そうか…せっかく勤行してても人に勧めないんじゃ意味ないのか」
単純にそう思った僕は、それより友人たちを火の如く勧誘し始めたのです。
例えば美味しいケーキを人に勧めるとしましょう。
それは自分で食べてみて「美味しかった」から勧めるわけであって、「美味しい」という味覚を得たいから人に勧めるというのはおかしな話ですよね。
僕が顕正会で勧誘を始めたのは、仕事で自分が利用したこともない商品の美辞麗句を並べて人に売り込むの同じことでした。
つまり、僕が勧誘の実践を決断した、その裏にある心理の正体とは、
功徳という対価につられ、まずは勤行の実践のみから始まった「コミットメント」から、
一貫性の原理に沿って引き起こされた心理的自動反応だったわけです。
彼らは、勧誘の際や、新入信者に対しては基本的に、「勤行するだけで良い」としか教えず、
差し当たり、組織の活動にコミットメントさせておきます。
そして機をうかがいながら、タイミングを見定めて、今まで明かさなかった本当のこと打ち明けるのです。
「勤行だけじゃダメだよ。人も勧誘しないと幸せになれないよ」
このように最終的には勧誘の実践を促すわけです。ズバリこれが彼らの目的なんですね。
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功徳が出なければいけない
勧誘をしたということは、先程の折伏理論書の例えのように、車の両輪が回るように、生活上において「前に進む」現象が起きてくるはずです。
いや、むしろ起きてこなければいけません。
そうでなければ、わざわざ「友人に絶交される」なんていう極めてハイなリスクを負ってまでして起こした行動の意義が失われてしまいます。
それでは困るというわけです。
すると、些細なことでも、「これは功徳」「あれも功徳」と、何でも「功徳」と、次第に都合良く解釈をするようになっていきます。
「幸せにならなければ困る」といった潜在意識が、自覚できない心の奥底にあるからなのです。
ここで更に「プラシーボ効果」(これについては後述します)も合わさると、
断片的な幸福から、次第に断続的に、
やがては、陶酔するかような永続的なものに変化していきます。
「功徳に満ち溢れた毎日」「顕正会員として活動できることが無上の幸福」と、いったように良いことの有る無し関係なく、
無条件で、「自分は幸福な人間だ」と、自らが思うようになり、他人にも自分の意志でそのことを説くようになります。
破壊的カルトの信者の方に、「今、幸せですか?」と聞くと、
皆さん満面の不気味な笑みで「幸せです」と答えますよ。
現実の生活は、家族と穏やかに過ごす時間もなければ、寝る間もないほどに「宗教一色」なのに、です。
本人が「幸せ」ならばそれは結構なことです。
ただし世間ではそれを「幸福」と言わず「恍惚(こうこつ)」と呼ぶんですよね。
これが「一時的マインドコントロール」からの「永続的マインドコントロール」です。
ローボールの段階から最終的な相手の要求はどこにあるのか、
一歩立ち止まって冷静に考え、的確に見抜くことが大切ですね。
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