私が(死後)意識だけの存在になってから感じていたものに、「私」という個の意識を取り込む膨大な意識の存在というものがありました。
(中略)
その膨大な意識が、個の意識を包み込み同化していくのです。
それは、すべてが自分であるという何とも不思議な感覚でした。
(中略)
私が経験したのは、記憶の中に実体験として入り込むようなものなのです。
すべては自分の外側ではなく、中にあるのです。
死んだ後の世界とは一体どのようなものでしょう?
そもそも、「死後」自体が有るのか?それとも無いのか?
もし有るとしたらどこへ行き、何をして過ごすのか?
この「問い」というものは、人間の持つ「根源的な知的欲求」であり、且つ、死ぬまでは決して解けることのない難題でしょう。
しかし「死ぬまで解けない」のなら、反対に「死んだ経験のある人」は知っているわけで、聞いてみれば良いのです。
でもそんな人いるの?
いるんです。
上記の内容は、「木内鶴彦」さんという方が著された生き方は星空が教えてくれるからの抜粋です。
この方はなんと「30分間」の「死亡体験」をお持ちの極めて希少な人物です。
ちゃんと「死亡診断書」まで出ていますから、折り紙付きなのです。
さて木内さんはその「30分間」に、一体どのような世界を見てきたのでしょうか?
では今回、彼の著書の内容を適宜、引用しながら、
未だ見ぬ、「死後の世界」を覗いてみることにしましょう。
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Index
木内鶴彦さんの人物像。
まぁ、臨死体験と聞くと、どこかオカルトチックな眉唾物という印象を持たれる方は少なくないのかもしれません。
現に、そういった体験から得た情報を売りにして、一稼ぎしようという肚の話は多く出回っていますね。
では、僕があえて木内さんをプッシュする、その理由というのは、何も科学的な根拠ばかりを追い求めた結果ではありません。
それは、本の中や動画の中で窺い知れる「人物像」が非常に興味深いこと。
僕は、木内さんの「生き方」に大変な魅力を感じます。
木内さんは、予言者でもなければ、霊能者でもありません。
自身が実際に見てきた、惨憺たる未来の地球の姿。
このご自身が得た体験を強く信じ、主体的に「環境問題」と対峙し、活動に尽力されている「コメットハンター(彗星探索家)」です。
ということで、死後の世界を覗く前に、木内さんの思想について簡単に触れてみます。
宇宙を知るということは「自分を知る」ということ。
木内さんという人は、星が、宇宙が、そして我々が居処とする、この「地球」のことが大好きなんです。
四時半ごろ仕事から帰り、お風呂に入って二時間くらい寝て、暗くなるのを待って車で観測のポイントの山に向かいます。観測は、夜が明けて星が見えなくなるまで続けます。観測を終え、家に帰って二、三時間睡眠をとってまた仕事に行く、一日の平均睡眠時間は四時間ほどでした。
そんな日々を何年も続けたのです。
やや奇特ですが、飽くなき探求心を貫き続け、
それを「行動」として成し遂げた者のみが、見出し、到達できる境地といいますか。
そこに「死亡体験」が紐づき、展開される木内さんの自然主義的な人生観は、非常にアトラクティブです。
宇宙を知るということは、突き詰めていくと自分を知るということだと私は感じています。視野を広げていき、宇宙の果てまで行ったときにそこに存在しているのは、結局は自分自身でもある膨大な意識そのものだからです。
書籍の購入まではちょっと‥。
という方は、動画が出てますのでどうぞ。
前半は主に宇宙や星の話。
後半は、死亡体験についての詳しいお話や、
直面している環境問題について。
また木内さんの、思想や人生観について聞けますよ。
発達したテクノロジーや自分の能力を「どのように生かすか」。
人間が、ただ地球を喰い物にする、消費的な態度で在るべきではなく、
あくまで与えられた、自然を主軸に置き、地球環境の保護に如何に貢献できるかを考え、実践していかなければならないのだと。
実際に木内さんの活動は、種々の実を結び、
例えば、「ごみ処理の技術」や、「太古の水」
といった、エコロジカルな開発が社会貢献を果たしています。
また方途の理念として、動画の中では、人間社会の構造について考えたとき、プリミティブなスタイルにこそ環境問題を打破する鍵がある、
みたいな趣旨のお話もされています。
以下は著書からの引用。
誰かが行動してくれるのを待つのではなく、一人ひとりが自分で考え、努力して行動しなければ、地球環境を守ることはできません。
地球で誕生した生命は、地球でしか生きつづけることはできないのです。地球環境を守ることは、自分の命を守ることにほかなりません。
一つの命は、他のすべての命を生かすために存在しています。あなたの命は地球上のすべての命を支えています。
でもこれは、地球上のすべての命が、今のあなたの命を支えているということでもあるのです。
木内さんの話に触れていると、生きることへの活力が湧き、満ちてくるのを実感します。
それだけ、振動数の高い方であり、夢と希望と確信に満ちた、端的に言えば「愛」の存在なのです。
自然のサイクルのなかには、短期的に見たら、それが何の役にたっているのかわからないようなことも沢山あります。
しかし、長居スパンで見れば、それは欠くことができない大切な働きをもっています。自然に無駄なことは何もありません。
人間の能力も同じです。
大切なのは今の価値基準で自分の能力を判断しないことです。あなたが心から楽しみながらできること、それがあなたの能力であり、自然界の中の役割なのです。
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死んだ後のリアルな感想。
前置きが長くなりましたが、いよいよ、死後の世界について迫ってみたいと思います。
まず木内さんは、死んだことに対してこんな感想を述べられています。
死はつらいことでも恐ろしいことでもありませんでしたが、死後の世界は非常に退屈なものでした。
(別項へ飛ぶ)
死ぬことは苦しいことでも悲しいことでもありません。それは死を一度体験した私がいうのですから、間違いありません。
死ぬときにいちばんつらいのは、自分の才能を開花させることなく、人生を終える悔恨の思いです。
うそぉww
退屈なんだそうです。
なぜかというと、それは「自由過ぎる」からのようです。
ふと看護婦さんを呼びに行ったはずの母親が戻ってこないことが気になりました。
「どこへ行ったんだろう。もしかしたら姉さんたちのところへ電話でもしに行ったのかな?」
そう思った瞬間、私は公衆電話をかける母の傍に立っていました。
(中略)
兄にも私が生きていることを知らせたいなと思ったのです。
すると次の瞬間、今度は兄の中にいたのです。
(中略)
そうです、私は考えるだけで空間を瞬時に移動することができるようになっていたのです。
インクレディブル!
もはや空間という障害は取り払われ、思った場所に存在することができるようです。
更に、この「意識だけ」という状態は、
時間という制約すらも超越するのだと木内さんは話します。
時間を越え、木内さんが見てきたものについては次回、詳しくご紹介したいと思います。
膨大な意識の世界。
死ぬとどこへ行くのか?
何になるのか?
その問いの「答え」というのは、木内さんの体験に基づいて考えるならば、
それは、
「どこにでも居るし、何にでも成る」
ということでしょう。
宇宙を形成する「膨大な意識」と一体になるということですから。
そしてそれは「退屈」なようです。
すべてが自分自身だということは、とてつもなく暇で、退屈で、それなのにこれといってやることもないのです。
木内さんから学ぶ「生き方」。
もし死後について「悲観的」な考え方をしているのなら、木内さんのお話を聞いてみて下さい。
そしてそういうネガティブな固定観念はさっさと捨ててしまいましょう。
僕たちが三次元という時間的、空間的な縛りの中で、実存性を確立し、
仮に、人生という「ゲーム」をプレイしているのならば、
「今」を真剣に生き、
そして、楽しまなければもったいないのです。
ゲームの主たる目的は、
自己に与えられた能力に気付き、取り組み、開花させることです。
そのプロセスこそが、正に「醍醐味」なのです。
「死亡体験」がウソか真か?
それは死んで体験してみないことにはわかりません。
木内さんが示す「生き方」は、他者へ大きな希望を与え、活力をもたらしてくれる。
このこと自体に大きな価値が存しているのではないかと。
そう感じる次第です。
ちなみに「沢尻エリカ」さんも愛読の書とのことです。
お邪魔します。
臨死体験について大変興味深いお話をありがとうございます。
NHKでモーガンフリーマンが出演した、臨死体験のドキュメンタリーを観たことがありました。宇宙意識に合一したと語る、脳科学者の証言は印象深いものでした。
でも、死んでも意識があるのなら、やはりあのイメージが頭をよぎるのです。。。
棺に入れられて、焼かれる時どれだけこわいのか・・・
無が本当はいいんですけどね。
私は死んだら無であってほしかった。。。