1、「信仰義認説」
2、「聖書中心主義」
3、「万人祭司説」
ルター(1483~1546年)は、ローマによるカトリック一辺倒だった西洋に変革をもたらしました。
いわゆる「宗教改革」です。
上記3つの原則を掲げたルターの改革が火種となり、やがて「プロテスタント」を派生させる大きな流れを作り出します。
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Index
「宗教改革三大原則」と大石寺分裂の類似性。
1、信仰義認
昭和49年。顕正会は母体である日蓮正宗から解散処分を受けましたが、
そのことが返って、会の信仰の純化に寄与したのだと主張します。
信仰対象の根本である、「戒壇の大御本尊」への参詣が叶わなくとも、
「個人の信仰が深ければ」宗祖の御心に通じると説くわけですし、
「いつでも参詣できる」状況は、返って怠慢を生じる悪因と成り得るから、
「参詣できない」ことが、より「戒壇の大御本尊」を恋慕し、渇仰する精神を育むのだと。
ようは、ルターの場合、「教会」を介さずとも、「信仰」によって直接的に神と繋がることができると説き、
顕正会は、宗門を介さずとも、「信仰」によって日蓮大聖人、戒壇の大御本尊と繋がることができると説く。
宗教改革における「信仰義認説」と、顕正会の主張は瓜二つなのです。
2、御書中心
また、聖書中心主義は、一旦、「解釈の問題」を除外して考えてみた場合、
やはりこれも、顕正会の主張と被るものがあります。
「時代が変われば解釈が変わる」のは当然なのですが、
あえて、変化に抗い、原理主義的な立場を標榜するわけですから。
ある意味「御書中心」を謳っているのです。
勿論、その内容云々というより、あくまで「我々は御書の文意に実直に従っているのだ」とする、スタンスの話です。
この意味では創価学会も同様です。
3、万人僧侶
3つ目は大変解り易く、顕正会は「僧侶不要論」を唱えているのです。
これも「友人葬」を行う創価学会にも共通して言えることですが、
彼らは僧侶の特権を否定しているのです。
在家に対し、葬儀の、または入信の儀式の執行を認めるわけですから、
これは「万人僧侶論」と言っても過言ではありません。
「ユダヤ教とキリスト教」「天台宗と日蓮系」
ユダヤ教をバックボーンにキリスト教は発生します。
イエスはユダヤ教の「律法」を「良く読んだ人」なのです。
「律法」の肝要を悟り、体現し、そのことを皆に説いていったのです。
そして迫害に会い、死罪となります。
死んだはずなのに、生き返って「神の子」となるわけです。
天台宗をバックボーンに日蓮系の宗派が発生します。
日蓮上人は「法華経」を「良く読んだ人」なのです。
「法華経」の肝要を悟り、体現し、そのことを皆に説いていったのです。
そして迫害に会い、死罪となります。
死んだはずなのに、死んでいなかったのです。
そして「大菩薩」、あるいは「仏」として崇められていきます。
イスラム教の分裂
イスラム教には大きく2つの派が存在します。
「スンニ派」と「シーア派」です。
なぜ分裂したのかというと、「後継者」の問題です。
ムハンマドの血脈を継ぐ「カリフ」の「後継者」です。
彼らは4代目のカリフ「アリー」までは上手くまとまっていましたが、
「アリー」の急死に伴い、跡目を「アリー」の親族しか認めない立場を取ったのが「シーア派」です。
こうして血脈のありかを争い、主張が分かれて、分裂していきます。
日蓮正宗も顕正会も創価学会も、
「血脈は自宗にあり」とそれぞれ主張します。
勿論、この血脈の論争は大石寺教団内に限った話ではありません。
仏教系の宗派はごまんとありますが、分裂の際の争点は大概「血脈」です。
顕正会は、日蓮正宗の第66第法主、「日達上人」から先の法主は認めない立場を取ります。
でもやっぱり「日蓮ファン」
こうして文章化して叙述し、比較をしてみると、類似性が明瞭となります。
「だから何」という定義付けは皆様にお任せします。しかし、そっくりですよね~。
まぁ、そんなことお構いなしに、
僕は一人の「日蓮ファン」ですが。
なぜなら日蓮正宗の御本尊が「一番しっくりくるから」。
所詮、それで良いんじゃないでしょうかね?
何か問題でも?
ミミ様
御無沙汰しております。ポリ銀です。
この記事はとても面白かったです。
日蓮正宗系の信仰って結局一神教ですよねえ。
うすうす感づいてました。
信者の攻撃性がハンパないですもん。
法華講も一緒。
唯一絶対を信じると、人間はこうなってしまうんですね。
よくよく思い返せば、創価学会員も顕正会員も自分大好きなひとが多かったなあ。
でもね、僕もミミさんと同じで、今更他の宗教に行こうと思いません。
でも、昔みたいに他人の勧誘をしようと思いません。信じられるかどうかって、本人次第ですもの。無理に入れても何の意味もない。
33年に80万人体制とかってのも、僧侶が頑張る分には応援しますよ的なスタンスです。だって働かなくていいように、御供養しているんですから、僧道に邁進して下さいって思っています。
ただ、自分の親族や大切な人には、自分の信じる理由等話していますけどね。功徳をいただくことと組織礼賛は別だと、最近は物事を分けて考えられるようになりました。
法華講幹部はみんなそんな感じですね。大人の信仰にこそ功徳があるんですね。