人は、あくまで主観的に「正しい」、あるいは「本当」だと思っていることについては、その裏付けとなる情報ばかりを収集したり、
その信念を補強することについて、多くの時間や労力をつぎ込もうとする傾向があります。
逆に、反証となるような情報については、関心を持とうとせず、無視したり、探す努力自体を怠ったりします。
このことは人間なら誰しもが共通して当てはまる普遍的な心理作用であり、
これを「確証バイアス」といいます。
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Index
道を開くために。人間の心理と特徴。デール・カーネギー。
私たちはある事実が気になると、頭の中にあることを補強する事実を猟犬のように追いかけ、ほかの事実はすべて無視する!自分の行動を正当化する事実。希望的観測に都合の良い事実、偏見を正当化する事実のみを欲しがるのだ。
(中略)
アンドレモロワ(フランスの作家)は、こう表現する。「個人的欲求と一致するすべてのものは、真実に見える。一致しないすべてのものは、人を激怒させる。」
人は、そう簡単に自からの問題の答えに辿り着くことはできない。それも不思議なことではない。2+2=5と仮定して突き進んでいれば、簡単な算数の問題を解くことさえ難しくなる。それでも世の中には、2+2の解を、5いや500かもしれない、と主張して自分自身や他人の人生を生き地獄にする人がたくさんいる。
デール・カーネギーは人を動かす 新装版などの超ロングセラー自己啓発本の執筆者としても良く知られている方ですが、
これだけ名を馳せたのは、氏が人間関係や、人が本質的にもつ心理の傾向性などをについて大変深い理解があったからでしょう。
「猟犬のように追いかけ」とは絶妙な例えですね。
顧みれば、僕も宗教にハマっていたときは「猟犬のようだった」かもしれません。
一度入ると抜け出せない「迷宮」。それがカルト宗教の世界です。
では実際に、僕がカルト宗教にハマっていた当時の心境を回顧し、経験則の上からお話していきたいと思います。
まず、「ハマる」というのはどのような心理状態かというと、それは即ち、
「依存している」
ということです。
依存ですから、しばらくそのことに触れていないと「禁断症状」が生起されます。
顕正会の場合、キーワードは「感激」。
「感激」を端的に説明すれば、「この宗教は絶対だ!」という感覚的な「確信」。「ぅおぉぉ~!スゲ~!」という胸の高鳴り。連続的な恍惚感です。
「感覚的」なものですから、根拠はありません。しかし、「教え」に触れることによって、その「感激」が活性化されることを「感覚的」に理解しているのです。
しかし、「教え」に触れて膨らませた「感激」は、一旦教団の活動から離れ、外界の情報に晒される中に、徐々にしぼんでいきます。
すると「危機・恐怖・焦燥感」が湧き上がってくるのです。
早く「教え」に触れなければ、生活は空回り、何かとんでもないことに巻き込まれるかもしれない…。
例えば、喫煙者の「ニコチン切れ」のようなもので、急いで供給しなければならないわけです。
彼らは「感激」を供給するために足繁く会館に通ったり、会が発行する機関誌を繰り返し読んだり、仲間や先輩、後輩と常にコンタクトを取るのです。
一定の「感激」を保っていないといられないのです。
これはもう「依存」なのです。
人は「依存」に陥った場合、その行為を正当化するための「裏付け」を探す。
この「依存性」を本人たちはある程度自覚していて、しかも逃れられないことを知っているために、
努めて正当化をして、自己肯定感の均衡を保とうとするわけです。
余談ですが、僕は喫煙者なので、たばこの依存性を自覚しています。
なので、やはり「たばこは本当はそんなに体に悪くないんだ」ということを実証するための情報ばかり集めてしまいます。
やれ、昔は漢方に使われていたのだとか。
やれ、喫煙者と肺がんリスクの統計データは本当は間違っているのだとか。
やれ、本当はタールやニコチンに毒性があるわけではなく、栽培する際に大量に使う農薬や、添加物がいけないんだとか。
だから、オーガニックで無添加のアメスピを愛用しているわけですが、
反対に、毒性についてだとか、辞める方法などといった情報はほとんど目にした記憶がありません。
少なからず耳目には触れているのでしょうが、無意識的に排斥しているのです。
人は得てして、自分の信念、自分の世界観に合致した情報しかインプットできないし、
それらを助長する情報に限って積極的に取り入れるのです。
確証バイアスに惑わされて事実を誤認しないために。カーネギーが勧める2つの方法。
1、事実を把握しようとするとき、情報を自分自身のためではなく誰か他人のために集めていると思うこと。
この方法は、証拠を冷静かつ公平に見ることに役立ち、自分の感情を排除するために役立つとカーネギー氏は述べています。
2、事実の収集を試みる間、私は時々、別の論点から反論を準備する弁護士の気持ちになってみる。言い換えれば、期待に添わないものや直視したくない全ての事実の把握に務める。
アンビバレンスですね。これも常に心がけていたいと思います。ただし何でもかんでも疑ってかかると、精神衛生上あまりよろしくないかもしれませんので、
やはりカーネギー氏の言うように「時々」にしておくのが吉かと。バランスが大事ですよね。
特定の教団のドグマにドハマりしている人へ。
人は人である以上、確証バイアスを完全に払拭することはできません。
もし何か信仰の最中において、「禁断症状」に苛まれるような自意識が芽生えたのならば、
それは果たして「純粋な信仰」と呼べるでしょうか?
一度広く情報採集して、自分の認識や価値観に偏狭性はないか確認しましょう。
自分を客観的な視点で矯めつ眇めつ眺めながら、点検をしてみることをおすすめします。
元の「自分」を取り戻してほしい…。周囲の方へ。
あるいは周囲に依存的に宗教に耽溺している方がおられるのであれば、
単にその本人が「狂ってしまった」とか、「全く別人になってしまった」と肩を落としたり、忌避、敬遠する前に、
今回説明した「確証バイアス」が、人間ならば誰しもが持つ、普遍的な心理の作用なのだと知って下さい。
むやみに本人から逃避せず、まずは「受け入れてあげること」が大事ではないかと思うのです。
しっかり向き合い、そして「カルト宗教」という迷宮から抜け出す道案内をしてあげて下さい。
周囲の助力が必要なのです。
時間はかかるかもしれませんが、必ず「元の本人」に戻りますから。
まずは「マインドコントロール」について知識を深めることも重要です。
【※参考記事一覧】カルトが行うマインドコントロールの具体的な手法について。
自分のブログに来ている現役顕正会員GGDAさんは、まさにこの記事の状態のようです(>_<)