死後の意識はどこへ行く?量子論が明かす「脳」の驚くべき機能。

死後の世界を科学的に考える場合、欠かせない問題があります。

意識とは何か?という問題です。

意識とはどこから来て、死後、どこへ行くのでしょうか?

そんなフレーズから始まる動画は、最先端の脳科学の見地から、

人間の「意識」の実体について、大変興味深い内容が語られています。

それは、脳内の構造を担っている「マイクロチューブル」に「量子コンピューター」と同様の性質が確認されている。

というもの。

残念ながら現在、該当する動画は削除されてしまいましたが、その内容に基づき、概略に触れてみたいと思います。

量子脳仮説。

人の意識について革新的な研究を進めている「スチュアートハメロフ」はある日驚くべき事実を発見します。

つい最近大動脈が止められ、血液が流れていない患者のモニターをチェックしたところ、脳のニューロンが爆発的に活動している現象を確認しました。

脳の処理システムは、内部に限定、完結されるものではない。

この彼によって取得されたデータは、既存の学説を根底から覆す可能性を秘めています。

もし、これが脳機能における「外部とのリンク」を示す根拠だと仮定するならば、

数多く報告されている、臨死体験、あの世における出来事を裏付けるエビデンスにもなり得、

今までオカルトとされていた分野は、サイエンスに枠に組み込まれることとなります。

それは、例えば「ワンネス」という概念も立証する可能性だったり、

「集合意識体」をロジカルに説明することも!?

「科学と臨死体験の合致。」

人間が自らの「脳」について、まるで手に取るように理解できる日は、そう遠くないのかもしれません。

脳を手に取る

量子論とは?

そもそも、量子論とはどのようなものなのか?

上記の内容を理解するために、まずは量子論における最低眼の知識が必要です。

僕は、その筋の学者ではありませんので、今まで見た中で比較的平易に説明されている動画をご紹介します。

8分程度の動画で、今回の「意識の実体」と絡めて、量子論の概要を知ることができます。

脳神経外科の権威。エベン・アレクザンダー氏の臨死体験。

続いて近似のテーマのである、こちらの動画もご紹介しておきたいと思います。

現時点で200万回以上の再生回数をカウントしている人気コンテンツ。

「エベン・アレグザンダー医師」の臨死体験お話。

エベン医師は元々、死後の意識について否定する立場だったにも関わらず、

自らの実体験を通して、その見解は一転。

脳神経外科の権威にも関わらず、様々な自論を打ち立てて、

「死後の世界は幻覚」論を否定しています。

その趣旨は、現在書籍によって著され、主張を全世界に轟かせています。

更に、最近では新刊も出されたようで、詳細はリンク先にてどうぞ↓

木内鶴彦さんの体験から。

エベン・アレクザンダー医師に限らず、臨死体験のお話はというのは、現在、実に多くの方のものが出回っていますが、

とりわけ僕がプッシュしたいのは、何と言っても木内鶴彦さん。

(※参照リンク↓)

死後の世界の体験談。木内鶴彦氏が語るリアルなあの世と人生論。

彼が語る、「死亡体験」の内容に基づけば、

死後、「個の意識」は、ビッグバン以前から宇宙に存在する「膨大な意識」の中に取り込まれていくことになります。

急に頭がよくなってきているような感覚でした。

自分が学んだり体験したこと以外の知識が自分の記憶として存在するようになってきたのです。

人類の歴史やさまざまなことが自分の記憶として読みとることができるようになっていきました。

わからないことが何もない、とてつもなく天才になったような気分でした。
(※参考 生き方は星空が教えてくれる)

まさに、スピリチュアルの文脈で語られる「アカシックレコード」にログインしているかのような状態。

それは「個」の意識にダウンロードするというよりは、

集合意識そのものの中から、「個」の情報を辿るというような感覚のようです。

「意識」としてさまざまな世界を旅している間中、膨大な意識の中から「木内鶴彦」という個の意識をたどり、それをしっかりと保つように努力しなければなりませんでした。

(中略)

個という意識をベースにして膨大な意識の記憶をなぞったということになるのかもしれません。

仏教における意識。

「個の意識」が肉体を離れ、ひとつのビッグデータに格納され、保存される。

まるで、クラウドストレージサービスかのようです。

あくまで直感ですが、僕はこのことから、仏教の阿頼耶識(アラヤシキ)を連想しました。

脳が外界と隔離され、肉体という媒体とセットでしか機能しないのであれば、

肉体の機能停止と同時に、脳に蓄積されたデータの消滅というのは免れません。

これでは「業を未来に引き継ぐ」という、仏教的観念そのものが否定されてしまうのです。

阿頼耶識については掘り下げて勉強したことはありませんし、こじつけるのはやや強引かもしれませんが、

既に「仏教と量子論」の不可分な関係性は大いに指摘されており、

理論の統合が徐々に図られていることは、実に多くの方々が語っています。

(※参照リンク↓)

量子論と仏教の話。これは解り易い!科学の発展が思想の統合をもたらす。

意識の行方。

木内さんの話も含め、この類のテーマというのは「主観の世界」でしかありません。

では、「意識」というものの本質について、思索を巡らしたり、普遍性を追及することは不毛なのでしょうか?

釈迦は「今に集中しろ!」と教えました。

(※参照リンク↓)

仏教で説かれる死生観。本物の釈迦の教えに触れたければ‥‥。

しかし、それはあくまで釈迦在世の時代に限った話であり、

グローバルに情報化が進み、テクノロジーが飛躍的に進歩した今、状況は著しく変化しています。

個人の知識として取り入れるための環境は整えられており、またその材料も豊富なのです。

「死後について思いを巡らすこと。」

これは人間が人間である所以でもあります。

本来的に持っている「知的欲求」は、払拭できるものではありません。

実用性こそ乏しいですが、

「知ること」「考えること」、そして「議論すること」は、

正に、人間の文化的な営みそのものではないでしょうか?

今後の科学的見地からの「意識の実体の解明」に、期待は高まるばかりです。

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『死後の意識はどこへ行く?量子論が明かす「脳」の驚くべき機能。』へのコメント

  1. 名前:ポリ銀 投稿日:2015/12/21(月) 11:30:51 ID:c9dc3819d 返信

    量子力学って想像以上にすごい学問だったんですね~。

    今回の記事はわかりやすくてためになりました。

    普段、目にしているガチガチの物質すらも、その微小世界では不安定なエネルギーなんだってのが、分からなくても魅惑的です。

    唯物論でも唯心論でもないのが世界。

    ハイデガーが世界=内=存在なんて意味ありげな言葉を使用した意味も、何となく感じ取ることが出来ます。

    死んだらどうなるのか、人生の半ばを過ぎてしまった私には、日々切迫してくる問題になりつつあります。

    • 名前:ミミ 投稿日:2015/12/21(月) 22:24:47 ID:f442208e9

      ポリ銀さんへ
      こんばんは、いつもありがとうございます(^^)
      実生活に即して考えられる概念ではないので、正直分からないというのは本音ですよね。
      ただ、なぜだか僕はそういう世界に気が付くと吸い寄せられてしまうような性なのです(^-^;
      死後だけは保険とかないですからね。
      はたまた、科学の発展に伴って今後はそういったサービスも!?
      悪い業だけ抹消してくれるとか。そういうのがあったら便利ですね!(笑)

  2. 名前:テレサ 投稿日:2017/05/06(土) 03:47:37 ID:088682732 返信

    エベン医師の、証言の欠点は、自分がまぶしい光の中で見たもの妹さん
    を無き「妹」さんと証言した人が「嘘をついている可能性がある」、つまり、
    エベン医師が書いた絵を見て、エベン氏の本当の妹でない、よく似た
    写真を送る(エベンさんは本当の妹を知らない・)。それが「本当の妹」さんでは
    ない「あるよく似た美人」を「妹さん」ですよ・・と渡す。またエベンさんは、つまり、絵と写真の類似性・・の程度の問題。写真を絵に類似的に、そういうふうに「見たがる」かもという。可能性。 とアメリカという「話題性」を提供すると「金(かね)」
    になる、そういう傾向。

     それと人は、脳が無くても即時的に記憶するものであって(例えばCMを2回みると、2回みたと
    言えるのは、一回目を覚えているからである)つまり反復するから抑圧する、でないと、いつまでたっても、永遠に一回目のCMになる)、現在、未来への
    配慮から、つまり反復により、次々と意識下へ行くのだが(どんどん下へ、仕舞いにはは肉体と同化する?か、シナプスの奥に?)。現在、未来への配慮が必要が ない・・とき、つまり死ぬとき反復できなくなるわけである。それで、即時的過去が「そのまま
    上がってくるわけである。つまり記憶自体になるわけである。これはまた、器官無き身体の 存在の証拠でもあるかも知れない。・・

     脳は有機的に機能するあいだ、「再認」の偏狭的モデルの支配下にある。それは、ドゥルーズの「哲学とは何か?」結論、「カオスから脳へ」を読むと良い。」
    脳地図は、絶対的なものではない。脳が「ある程度」、機能を分担してるとは言え、
    言語、記憶(身体の)記憶(言語、ニーチェ的に言えば約束{未来}の記憶)、運動、が「組み合わせ」の状態を、表現するとき、例えば「殴りながらものを言っている自分を自覚し、やばいぞと思う」とき、いったい、脳はどうなっているのか?。。

    妹さんの写真を絵に(類似させる)見立てる、そういうふうに「見たがる」かもという。可能性。
    そういう傾向。
     誰か言っていたけれども、「自分の認識を超越したものを「神格化」する。可能性。」 これが、宗教のひこばえであり、イエスが、ある種の「恍惚状態」を「神」と見るのと類似してはいないか。

    • 名前:ミミ 投稿日:2017/05/11(木) 22:58:11 ID:48c8d4a67

      テレサさんへ
      ありがとうございます!

  3. 名前:テレサ 投稿日:2017/05/06(土) 04:38:48 ID:088682732 返信

    世界=内=存在は、ライプニッツの「モナド」とほぼ一致している。
    すなわち、無数の「モナド」がそれぞれ「世界」をもっており、
    世界は、身体を通し入ってくる。「モナド」は、それぞれに応じ
    世界を選別し、世界を作る。世界は、それ以上、膨らまない。
    モナド自身は、「眼」をもっておらず{モナドに窓はない}、
    受け取った世界で生きる。

     意識は、時系列的に言って最後の現象であり、それ自体、
    フッサールが言うとおり、それ自体、最後であり、何も生み出さない。
    「怖い夢」を見て、起きた。そういう現象をよく見てみよう。
    何らかの原因で起きてから、それを「怖い夢」と思うのである。
    起きた原因を「怖い夢」のせいにするのである。因果関係が逆なのである。

    死ぬときは、「人の死」、決して「私の死」ではない、死んだ自分を見れない私。
    死ぬと、分解され、土になり、他の魂の要素になり得るが、他の魂にはなれない。
    「輪廻」がおかしいところが、輪廻がいつも有機体を前提としており、無機物を
    無視(差別)しているが、無機物は、それ自体、ある組み合わせなのであって、
    その概念は、有機物からみた概念なのである。「剣岳」は、有機体からの視点である。山、岩も我々を見ており、それゆえ「遭難事故」も起こるのである。
     また「山は動くではなく」、「動くは山」というべきなのは、
    動く前に、それらを「区別」できないからである。

  4. 名前:テレサ 投稿日:2017/05/06(土) 16:56:37 ID:088682732 返信

    エベン医師の、証言の欠点は、自分がまぶしい光の中で見たもの妹さん
    を無き「妹」さんと証言した人が「嘘をついている可能性がある」、つまり、
    エベン医師が書いた絵を見て、エベン氏の本当の
    両親が妹さん風の写真を送る。しかし、それが「本当の妹」さんでは
    ない可能性がある。そこいらにいる「よく似た美人」を「妹さん」ですよ・・と。つまり、絵と写真の類似性を探す、エベン氏の「本当の両親」。
    絵の写真の類似の程度の問題。・・アメリカ社会では、話題になることが目的化
    している・・そういう日常がある。そういうわけで、エベン氏の本当の親は、
    商売目的で、「エベン医師が書いた絵」に類似、または類似させた女性を
    用意することができうる。

    絵を見て、それに類似した女性を「写真」として、送る。
    エベン医師は、まず恍惚した状態である女性をみた。だが、それはどんな姿か誰も
    知らない。ので「絵」で掻く。その絵自身が、ある種の「曖昧さ」がある。
    彼は、絵を描くが、その「絵」は、デッサン風であり、ある種の「曖昧さ」が
    ある。彼は、絵の特徴を言わない。

    つまり誰か言っていたけれども、「自分の認識を超越したものを「神格化」する。可能性。」
    これが、宗教のひこばえ(芽)なのかも。

    別の観点から言うと。
     それと人は、脳が無くても即時的に記憶するものであって(例えばCMを2回みると、2回みたと
    言えるのは、一回目を覚えているからである)つまり反復するから抑圧する、でないと、いつまでたっても、永遠に一回目のCMになる)、この場合の一回目のCMの記憶は
    「前意識」に保存される、そして反復されるごとに、「奥へ行く」=身体になる。

    現在、未来への配慮から、つまり反復により、次々と意識下へ行くのだが、現在、未来への配慮が必要がない・・とき、つまり死ぬとき反復できなくなるわけである。それで、即時的過去が「ほぼ、そのまま上がってくるわけである。つまり記憶自体になるわけである。これはまた、器官無き身体の
    証拠でもあるかも知れない。

     

  5. 名前:テレサ2 投稿日:2017/05/06(土) 17:01:35 ID:088682732 返信

    脳は、有機的に機能するあいだ、「再認」の偏狭的モデルの支配下にある。それは、ドゥルーズの「哲学とは何か?」結論、「カオスから脳へ」を読むと良い。
    脳地図は、絶対的なものではない。脳が「ある程度」、機能を分担してるとは言え、
    言語、記憶(身体の)記憶(言語、ニーチェ的に言えば約束{未来}の記憶)、運動、が「組み合わせ」の状態を、表現するとき、例えば「殴りながらものを言っている自分を自覚し、やばいぞと思う」とき、いったい、脳はどうなっているのか?。。

    妹さんの写真を絵に(類似させる)見立てる、そういうふうに「見たがる」かもという。可能性はある。
    そういう傾向。誰か言っていたけれども、「自分の認識を超越したものを「神格化」する。可能性。」 これが、宗教のひこばえであり、イエスが、ある種の「恍惚状態」を「神」と見るのと類似してはいないか。