この動画の中で話されていることが非常に分かり易いですね~!
現在の科学の最先端、「量子力学」が、
「空」や「道」などといった概念を証明しようとしている。
つまり古来、各東洋思想の立場から説示されてきた「真理」を裏付ける、実に画期的な発見が成されているという話。
動画における前半に関しては、主に量子論について説明されていますが、
話の中盤あたりから徐々に核心に迫ってきます。
せっかちな方は12分くらいのところから再生されると良いですよ。
仏教と量子力学の関係性については、近年、様々な文脈の中で語られており、
否定的なものも含め、多種多様な意見が提起されていますが、
動画の中で語られる「M理論」、そして「超情報場仮説」などを始めとする、科学の発展、証明は、
思想、宗教界にどのような影響を与えるのか。
そんな話が大好きでして…。ホント興味津々です。
そうはいっても学者の論考というのは難解であり、前提として理解へのハードルが高い…。
このように平易な言葉で説明している動画コンテンツというは希少です。
是非聞いてみて下さい(^-^)
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Index
科学と宗教は同じ結論に辿り着こうとしている。
改めて、「宗教と科学」。
これらは基本的に別の概念として考えられてきましたが、
近代の目覚ましい科学の発展により、
「実は同じ結論に達しようとしている」
ということです。
東洋の思想は本当に凄かった!
「空」と「縁起」。
釈迦の悟りを一言で端的に示す場合、一般的に「縁起」と表現されます。
一方、日本仏教(禅)の中で「悟り」となった場合には、通常、「空」という概念が持ち出されますが、
この「空」とは、一説に、釈迦滅後数百年後の大乗仏教の勃興に伴い、「縁起をより分かり易く」ということで生み出されたものだと言われています。
つまり「縁起」をより洗練されたものに刷新すべく、考案された新しい表現方法なのです。
では「縁起」とは一体どのようなものでしょう?
これは動画の中で言われているように、既存の言語で説明することは不可能だとされていますが、
強引に簡略化して説明するならば、
「縁起」とは、「全ては関係性によって成り立っているということです。」
例えば、「貴方自身」を他との関係性を一切用いずに説明しなさいと言われたらどうしますか?
それは実際には不可能です。
説明するとしたら、
「父親の〇〇の息子です」とか、
「〇〇県〇〇市に住んでいる〇〇です」といった様に、
必ず、何かとの関係性を引き合いに出さなければ明確に説明することはできないのです。
単体という絶対的な概念は存在し得ない。
それは必ず何かとの関係性によって定義される相対的なものでしかない。
「全ては縁によって起こる」
釈迦は、「これがあらゆる物事の実態であり、真理なのだ」
このように説いたとされています。超大雑把ですが。
仮に「縁」と「起」を分けて説明するならば、
「縁」とは「相互に影響を与え合っている関係そのもの。」
「起」とは、「縁の産物として生起される、有ると認識できる物質、及び概念」
と言えそうですが、かえって解り辛いですかね…。
やっぱり言語表現に縛られた中では難しいかもしれません…。
さておき、動画の中で説明される普遍的な法則性とその仕組み、
そして釈迦の悟った「縁起」。
これらはズバリ適合するということなのです。
他の例を引きながら、もう少し噛み砕いて見ていきましょう。
「アドラー心理学」の主張は、まさに「縁起」。
この真理は例えば「悩み」という概念に当てはめて考えることもでき、
それは「アドラー心理学」からのアプローチによって、一分、証明されていると言えます。
アドラー心理学では次のようなことが言われています。
「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」。これはアドラー心理学の根底に流れる概念です。もし、この世界から対人関係がなくなってしまえば、それこそ宇宙のなかにただひとりで、他者がいなくなってしまえば、あらゆる悩みも消え去ってしまうでしょう。
つまり「悩み」という概念も「他者との関係性」によって成り立つということ。
他者との関係性がなく、単一で存在する「悩み」など有り得ないと説いているわけです。
全てが関係性によって成り立つ。
一見関係ないように思える、こういった角度からも、
遠い過去、釈迦の説いた「縁起」が、科学からのアプローチによって徐々に証明されてきている事実を垣間見ることができます。
この「縁起」を「インスピレーション」によって感じ取った「釈迦」は物凄い人物だったんですね。
しかしその段階に至るまでには、徹底した修行の実践が存在します。
そう、ズバリそれは「瞑想」です。
各宗教の主張も、詮ずる所「同じ境地」を目指していると思う。
よく宗教を比較する際に、持ち出されるのが、
「それぞれ登り口こそ違うが、辿り着く頂上は同じだ」
という考え方。
これに関しては、しばしば否定的な意見が飛び交いますが、
僕はあながち間違いではないと思うのです。
人々の目を曇らせているのは、背後に絡んでいる「教団の利権」です。
「老荘思想」と「禅」。
動画の中で「道(タオ)」という概念が出てきたので、
老荘思想にも目を向けてみます。
荘子は、「心斎・坐忘」(しんさいざぼう)と言って、悟りの境地に至るまで方法論を説きました。
一方、「禅」の目指す境地は、前述の通り「空」ですね。
「禅」の説く方法論は「只管打坐」(しかんたざ)。これは只管(ひたすら)座って瞑想せよ!と言っているのです。
荘子が説く「心斎・坐忘」。禅が説く「只管打坐」。
双方には如何ほどの差異があるのでしょうか?
動画の中で語られる、「到達点の一致」が答えだと仮定するならば、
修行法による差異は大した問題ではないですし、
結局、「瞑想」の呼び名が多様であるというだけのことではないでしょうか。
只管(ひたすら)瞑想に浸ることで、上掲の動画の中で語り手が言うところの、
「流れ」と一体となる。
つまり、この世界の真の相は「空」であり、「道」であり、
そして「縁起」なのだと。
「科学」という見地からこのことが論理的に証明されてきているんですね。
ちなみに老荘思想では「無い」ということを定義しますが、
「有無相生」と言われるように、そもそも「有る」という概念は、「無い」という概念ありきで成り立っているわけですから、
やはり「縁起」の枠から外れることはないのです。
科学的な検証によって各宗派の教義に優劣をつけること自体がナンセンス。
僕は過去にこのような記事を書きました。
【宗教批判】について一考。宗教は【検証不可】。科学との違い。
宗教の「正邪」、あるいは「優劣」について考察する際に、我田引水的に科学が持ち出されるケースが多々あるんですが、
いくら宗教の「正邪」を科学的に実証しようとしてもできるはずがないんです。
どうしてこれが上手くいかないかというと、
そういう人たちの心中に、
「科学は自分の信じる宗教の正しさのみを実証してくれる」
という「希望的観測」が大元、前提にあるからなんですね。
しかし、科学は決してウソはつかないんです。
本来「正邪」などというものは「ない」というのが答えであり、
その答えとは別の結果を科学によって証明しようとすること自体が、
科学に反しているからです。
「あれは偽経を基として教義を構築しているから、誤りである!」
などといった、議論が一向に実を結ばないのは、そもそも科学の用途をはき違えているからなんですね~。
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まとめ。
科学の探求の帰趨、
それは東洋思想における偉人たちが到達した「悟り」と同一のものだったのです。
物理や心理といった「科学」からのアプローチ。
釈迦、老子、禅という「宗教」からのアプローチ。
これらは、互いに深い関係性があるどころか、
実は、「同じゴール」を目指していたということになります。
この先、こういった価値観が社会に浸透していくにつれ、
既存の文化にどのような変化を与えるのか?
また、それは人々の精神性の向上に寄与し得るのか?
宗教界はその事実をどう受け止め、
どう咀嚼し、
自宗が標榜する教義にどのような変容をもたらすのか?
科学の今後の更なる発展に期待は高まるばかりです。
楽しみだなぁ~。
今回の記事は私的には大好物の内容でした。
とても面白かったです。
悟りとはどんな姿をしているのか、命が生まれてくるのはなぜなのか?理性は回答不能の疑問を持ってしまいます。
考えても無駄かというと、そうでもないような気もするのですが、日本人というのはなかなかそういった話ができません。
死んだら自分はどうなるのか、生まれる前の自分はなんだったのか、自分なんてそもそも存在しないのか。存在しない自分が、なぜこの人生を自分として生きなければならないのか?
仏教は答えてくれません。
釈迦が形而上学を排斥したからです。
しかし、私は形而上学的な問いに呪縛されながら生きていくのだろう、、、そんな気がしています。