ピーター・シンガーの「実践の倫理」は入門書とも言える平易さだった。

先日、「倫理」ということに関して、日蓮正宗信徒の遺体動画騒動の件にあやかり、僕の主観的意見を書かせてもらいました。

今回の件で学習したのは「倫理」という概念って抽象度が高すぎて、その定義に引き付けて議論を展開するとき様々な齟齬が生ずる、ということです。

普段、覚知しているようでいて、実は曖昧なままで良しとしているキーワードって、問題に直面して深堀りする中で初めて見えてくることが多々あり、

僕はそういうのを放っておくことに何だか気持ち悪さを感じてしまう性分なんですね。

かと言って、煎じ詰めていけば何事も深遠で、周辺領域も含めて横断的にカバーしていくとなるとそれこそ果てしないですから‥

まぁ大体その道に通じた著名人の書籍や、その手のメインストリームについての情報材料を数種類取り上げて概観し、

「よしわかった!」とある程度で見切りをつけて悦に入っておくのが精神衛生上、吉なわけですw

で、今回「倫理」という途方もないテーマにぶち当たり、個人的に手に取ってみたのが以下の著書。

動物倫理への論考に定評のある倫理学者、ピーターシンガー。

ピーター・シンガーという方の著書、「実践の倫理」です。

この方、非常に定評のある人物で、「動物倫理」などに関しては草分け、パイオニアとして高い評価を受けている優れた知見をお持ちです。

動物倫理といえば、シュバイツァー、日本では新渡戸稲造の奥さんとかが有名ですが、以前から大変興味のある分野でして、

ピーター・シンガーの出色の書、「動物の解放」を読んでみようと決心して、その書籍の高額さに驚愕して購入を断念した男とは僕のことですw

入門に最適かも。

学術的な著書というのは得てして非常に難解なものですよね。

ところが、豈図らんや。この人物の論考はアカデミカルな定評を得ているにも関わらず、(そういった類のものの中では)とても読み易かった。

(西洋著書の日本語訳に往々としてありがちな言い回しの違和感は排除できないが、文中で引き合いに出される哲学者や思想は良く知られているものが多く、基本的に平易な語彙で構成されている。)

倫理への学問的な理解を求める場合、この著書は入門書として重宝すること請け合いですね。

それは「倫理」か「非倫理」か。

勿論、動物倫理については言うまでもなく、バイオエシックスをはじめ、環境倫理、貧困、格差問題の倫理的視座など細分化された多岐の分野についてざっくりと論考が示されていて、どれも興味深い内容。

宗教倫理についての言及は少ないのですが、短文ながらも確信的な定見とその理由については序文の方にきちんと記述されていて、

とりわけ以下の強調された箇所については刮目したいものです。

「倫理的なものと非倫理的なものを区別するこの第一の試みは誤りであるが、我々はこの誤りからも学ぶことができる。慣習とはちがう倫理的信念をかかげている人たちでも、何らかの理由から自分たちがしていることが正しいと信じているならば、やはり倫理の基準に従って生きているのである。このことを認めなければならないことが分かった。傍点部(当サイトでは太字で表記)の条件が求める答えへの手がかりになる。倫理基準に従って生きるという観念は生き方を擁護するという観念、生き方のための理由づけをするという観念、ひいては生き方を正当化するという観念と結び付いている。したがって人々は我々が不正とみなすあらゆる種類のことを行なうかもしれないが、彼らが自分たちのしていることを擁護し正当化する用意があるとすれば、彼らはやはり倫理基準に従って生きているのである。その正当化を不十分だと我々は考えもしようし、その行為を不正だとも主張しよう。しかし正当化の試みさえあれば、その試みが成功していようとしていまいと、それだけでその人の行為はー倫理以外の領域と対立するものとしてのー倫理の領域に入ってしまうのである。他方、人々が自分たちの行なっていることに対して何らの正当化をもち出すことができない場合には、たとえ彼らのしていることが慣習的な道徳の原則と一致していようとも、倫理基準に従って生きているという彼らの主張は否定されてよいだろう。」(11・12項)

事例に適用してみよう。

この記述はまさに、我が意を得たりでした。

「この人は成仏した、その証拠が遺体に顕れている、だからこの信仰は正しい。」

ということを宣揚するために、遺体の動画をYouTubeにアップすることは、世間一般、つまりマジョリティーとしては是認されないでしょうが、ただし、それが「倫理ではない」といって唾棄される理由は、少なくともピーター・シンガーに拠れば見当たらないということなんですよ。

ちなみに「何のこと?」という方は初めに以下の記事を閲読下さい。

(参照リンク 日蓮正宗信徒の「臨終の相」の映像から、宗教と倫理について考える。)

投稿者は死者を冒涜しようなどという観念は微塵もないどころか、それ自体が死者への供養にあたるとして善行であると熱烈に信じている。

その事実を決して無視してはいけないし、容喙する側にしても、その裏付けとしての論理が用意できていない段階においては正直、批判の体を成していないと言っても過言ではありません。

倫理学的考察の重要性。

ただし、上に示した引用文における「正当化の用意」という意味に則して、動画投稿という行為に及んだの背景事情に目を向けてみると、

やはり、遺文(千日尼御前御返事)に示された字義通りの解釈の有効性において、首脳部の是認が得られているか否かということは、界隈の最大の関心事であるべきなのです。

日蓮正宗法華講に籍を置く彼らは程度の差はあれど、少なくとも僧俗一致の理念を掲げているわけで、僧の側が何等かの議論の末「これは危険だからしまっておこう」という着地があったにも関わらず、その傍らではこれ見よがしに金科玉条の如く麗々しく掲げて強弁を張っているなどということがあっては、

本人達にとっても結果的に不本意なはずだし、そこを改めて問う姿勢というのが欠如している「信徒としての姿」には見るに堪えないものがあります。

宗教者こそ、倫理という概念と定義について度々立ち止まって、再考することが求められているのではないでしょうか。

ピーター・シンガーの「実践の倫理」はタイトル通りその平易さ、簡潔さから「実践的」なものであり、須く、普段の信仰営為に取り込むべき高い重要性を含んだ良書と言えそうです。

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