「ノア約束の船」レビュー。見所は、ノアの葛藤と原罪観念への示唆。

今から約1年半前の、2014年6月13日に公開された映画、「ノア 約束の船」を視聴しました。

この作品は、タイトルから容易に想像できる通り、旧約聖書に描かれた「ノアの箱舟」の話を題材にしたストーリーで、

映像的なダイナミクスよりも、どちらかと言えば、叙情的な描写の側面に醍醐味が凝縮された作風に仕上がっていると思います。

「原罪」などといった、一神教の基本的な教義への理解があると、一層、視聴を楽しめるでしょう。

キャストが豪華。

なかなか豪華なキャストが出揃っております。

ノア 約束の船

主人公、ノアを演じるのは、「グラディエーター」などに代表される、「ラッセル・クロウ」。

更に、最終的にノアに対し、人道的な意味で救いをもたらした、赤子たちの母親である重要人物「イラ」を演じるのは、

「ハリーポッター」で「ハーマイオニー」を演じた、「エマ・ワトソン」。

旧約聖書の記述の中でも知名度の高い、ノアの子「セム」を演じるのは「ダグラス・ブース」。

こちらは、先週たまたま他作品「ジュピター」を視聴したばかりだったので、「あ、また出てるよ」なんてことを思いつつ、彼の演技、とくと堪能させてもらいました。

椅子から転げ落ちたの?

レビューをネットで漁っていたら、

聖書原理主義者がその内容に仰天し、椅子から転げ落ちたという事件が発生した挙句、

イスラム諸国では上映中止になったとの記事を見かけたのですが、これはマジな話でしょうか?

まるで、イエスの最大の受難をこれでもかというくらい残酷に描写した結果、視聴者が映画館内でそのままショック死してしまったという問題作、「パッション」を想起させるようですが、

実際は、全然普通に見れる内容なのでご安心を。

予備知識として、旧約聖書が頭に入っていると、より楽しめる。

一部調べでは、日本という国では、一神教(ユダヤ・キリスト・イスラム)に属する人の割合が1%にも満たないとされるため、(勿論、JWや統一などの異端を含めればもっと多数に上るはずだが)

旧約聖書にはあまり馴染みがないものと思われます。

そこで描かれている神の人格的な姿とは、「愛と平和」を謳うキリスト教のイメージとは裏腹、

かなり酷な試練を、人間に対して絶えず与え続ける神の行いが示されており、

例えば、ダビデの人口調査などは一見、日本人の宗教・本尊観からすると恐らく理解不能に陥るのではないかと。

突如、神が現段階における人口の統計を取る様、ダビデに命じ、その結果に対し、神はどのような所感を懐いたのかはわかりませんが、その中の多数を殺してしまうのです。

これは、神から聖別を受けた立場である「王」への、「慢心」に対する戒めと解釈されているようですが、

こういった世界観を踏まえて視聴しないと、何か腑に落ちないというか、視聴後、スッキリしない感覚が残るのではないかと思います。

勿論、「ノアの箱舟」の基本知識を押さえておくことについては、言わずもがな。

ノアの箱舟とおぼしき残骸が、実際に漂流したとされるアララト山で発見されていることは、

旧約聖書の内容に一定の信憑性を与えている事実も軽視できませんね。

見所はやはり、狷介な父親「ノア」の葛藤。

で、一番の見どころは、やはり「神の啓示」と、「人間的な感情」の狭間、せめぎ合いに葛藤し、

苦悩と共に、徐々に孤独化していく「ノア」の姿。

これは、敬虔な信仰者にとっては、中々耳の痛い話で、信仰対象に忠実であろうとすればするほど、

一般世間の価値観との乖離が顕著になっていく傾向を避けることはできません。

これは、例えどのような教団に属する者にとっても、漏れなく当てはまるジレンマで、

度が過ぎた「教条主義」というのも考えものだなと、

そんな暗示を含ませているような描写。

「ノア、もういい、いいんだよ。そんな自分の感情を押し殺してまで守るべきものなんて本当にあるのかい?」

と、思わずそんな問いを投げかけてあげたくなる狷介さ。

ストイック過ぎる。

「原罪」。感情には抗えない「ノア一家」。

ありとあらゆる人間は、生来的に、罪を犯してしまう要素を持っていて、

またそういった宿命から逃れる術はないとする、性悪説的な考えに立脚しているのが、一神教に見られる信条で、

それが「原罪」と呼ばれていることは有名です。

選民である「ノア一家」とて、その埒外ではなく、

皆が皆、自己中心的な感情、湧き出ずる「肉欲」等に支配され、

相反する「ノア」との考え方の間には、次第に対立が生じてきます。

人は行動原理は「理性」ではなく、「感情」。

完璧にはなれないよ、という「人間臭さ」を感じさせる表現が、各所に盛り込まれています。

この作品のレビューはさほど芳しくない印象ですが、

スペクタクル映画ではなく、見方を変えて、宗教的な意味におけるアプローチを存分に堪能することによって、

この映画の本当の「魅力」に気付くことができるはずです。

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