群馬県安中市旧宅の資料館における、ガイドのおじいさんのお話を基に、
新島襄の生涯について、時系列を追いながら「簡略」に見ていきたいと思います。
(※旧宅へのアクセスや、施設の概要については下の記事をご覧ください。)
群馬県安中市、新島襄の旧宅へ行ってきました。アクセスと案内の概略。
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生誕と幼少期
天保14年(1843年)、新島襄は江戸の神田にあった安中藩の江戸屋敷で生まれます。
本名は「七五三太」(しめた)。
アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書に出会った新島襄は、
「福音が自由に教えられている国に行くこと」を決意し、アメリカへの密渡航を企てます。
アメリカへ
1864年。
函館で貿易商をしていた「福士卯之吉」らの手配により、新島襄は函館からベルリン号に乗り、まずは上海へと渡航。
そこから今後は自分で見つけて「ワイルド・ローヴァー号」へと乗り換え、
「1年と36日間」を経て、
アメリカのボストンに上陸します。
そして、この船の船長だった「ホレイス・テイラー」さんが、
「七五三太(しめた)は呼び辛いので、お前は襄(じょう)と呼ぶ」
ということで、この時「襄」という名前がついたそうです。
そしてボストンへ上陸後、テイラー船長はワイルド・ローヴァー号の持ち主である「ハーディー」さんのもとへ新島襄を連れていきます。
その後、新島襄のアメリカでの生活から勉学に必要な費用の全てを工面してくれたのが、この「ハーディーさん」です。
新島襄はこの「ハーディー」さんのお金で高校、大学を出て、牧師の資格をとります。
ここまでおよそ「10年」の歳月を経て、21歳で日本を離れた新島襄は「31歳」になりました。
ちょうどその頃、日本では明治維新を迎え、伊藤博文も参加した「岩倉使節団」の「通訳」「道案内」役として新島襄が抜擢されることになったのです。
免状発布と安中への帰省。
その功績が認められ、過去の脱藩を許されると共に、アメリカの大学の留学を認める旨の「免状」が発布される運びとなります。
この免状を受け取った新島襄はようやく安堵して、一旦、現在の群馬県安中市にある両親が住む家へと向かいます。
「10年振り」の再会です。
しかし、ホッとしたのも束の間、新島襄が帰国したことを知ったアメリカの友人の「デイヴィス」さんから、
「京都・奈良・大阪で一生懸命キリスト教の布教をしているのだが、誰も乗ってくれないので、新島さん手伝ってくれないか」
との誘いを受けて、新島襄は京都へ向かいます。
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京都へ。運命の出会い、そして同志社英学校(同志社大学)の創設
そこで、2人で一生懸命布教しましたが、思うように進まず、
そこで「山本覚馬」さんが、
「君たち、そんなに学校を作りたいなら土地を提供してあげよう。お金も出してやる」
ということで、創設されたのが、現「同志社大学」の全身である、
「同志社英学校」
新島、デイヴィス、山本の三人が力を合わせて設立されました。
そのときの生徒はたったの「8人」だったそうです。
そして大河ドラマ「八重の桜」でお馴染みの「八重」さんは、この山本覚馬の「妹」さんです。
八重との出会い
八重さんは非常に健康体で「86歳」の長寿を全うしました。
そして、民間の女性では初となる、天皇陛下からの銀杯(勲章的な)を頂き、
日清・日露戦争では看護活動に従事しました。
新島襄とはキリスト教の勉強会を通じて出会っています。
そして驚くことに八重さん、実は襄さんとは「再婚」なんですね。
なので、初婚の方との間には「子供」がおられたそうで、
その子孫の方も過去に一度この安中の旧宅に訪れているようです。
他にも、この安中の「旧宅」では、多くの資料と供に、
新島襄の生涯について深く学ぶことができます。
日本におけるキリスト教の布教に、大きく貢献した「新島襄」さん。
日本キリスト教史を知る上で、新島襄抜きでは考えられないほどの大功労者であることに違いありません。
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