この記事は、友人、知人、あるいは親族から顕正会の話を聞いて興味を持ったが「半信半疑」という方。
あるいは既に顕正会に入信し、紹介者に勧められるままに「勤行」を実践してみたが、いまだにビデオ放映の体験発表で聞くような功徳(くどく)が感じられないという方を対象としています。
もしネットで顕正会のことについて調べたならば、数々の悪口が氾濫、横行しているのを目の当たりにすることでしょう。
しかし、顕正会を勧めてくれた紹介者の方は既にそのような事実を知っていて、入信したその日、またはその数日後のビデオ放映終了後、あなたに対して釘を刺すように、こう伝えてきたかもしれません。
「ネットに書かれていることは創価学会の謀略だから全部うそ。真に受ける必要はない」
と。
私は顕正会に7年間在籍し、その中で5年間班長という役職に就き、100人に近い友人、知人を誘って入信させ、本人の信仰実践の経過を見てきました。(ただし入信だけして実践までしなかった人の方が多かったですが)
これらの経験を元に、「顕正会で信心するとどのような功徳があるか」について、事実ベースでお伝えしていくとともに、
その事実はどのような性質のものかについて私の考えを示してみたいと思います。
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Index
結論から言うとそれっぽいことはある
結論からお話しますと、顕正会に入り、ある程度しっかり信心を実践すると組織で言われている功徳のような出来事は起こります。
私の経験では基本的にほぼ例外はありませんでした。
私が入信したのは19歳の頃でしたので、入信させたのも同年代の子が多かったことから、特に、
「彼女ができた」
というものが多かったかと思います。
中には真剣に勤行を実践し始めたそのすぐ後に「人生初」の彼女ができた友人までいました。
他には就職活動で良い企業に入社できて、更に上司に気に入られてあっという間に昇進した友人。
40度近い発熱をともなう風邪に罹り、もうダメかもしれないと思った際、布団の中で「南無妙法蓮華経」と唱えたら自然と熱が平熱のレベルまで下がってびっくりしたと語ってきた友人。
女性の方でも、彼氏本人の意志で仕事の都合上遠い場所へ行ってしまう予定だったが、なぜか急に本人が考えを改め遠距離にならずに済んだ。
など、挙げればきりがありませんし、何しろ私自身が勤行を初めてまもなく、4年間音信不通で居場所もわからなかった母親と再会が叶う、などといったことを経験いたしました。
これらは組織で「初心の功徳」と呼ばれている現象で、おおよそ3ヶ月を目処に新規会員が体験するとされています。
私が新しく誘った友人を本部会館に連れて行くと、部長が必ず最初に本人に投げかけていた言葉
「功徳あった?」
は今でも印象として残っています。必ず聞いていました。
しかもそういう時、大抵は何かしら返答に困らない程度の「ネタ」を持っていたのでした。
組織ではどのような事実、現象を功徳と認識しているのか?
会に所属して活動するようになると「功徳」というキーワードは至る場面で耳にするようになります。
新規会員にとっては上記に示したような「不思議な良いこと」
ちょっと難しい表現をすると「僥倖」というものでしょうか。
徐々に活動に慣れてきた頃には、「罪障」という概念を意識するようになり、いわゆる「悪いこと」も功徳と捉えるようになります。
「悪いこと」が起こるのは罪障が軽くなって表面化している証拠。
本当は「とんでもなく大変な悪いこと」が起こる予定だったものが、信仰の功徳によって「ちょっとした悪いこと」という事実で済んでいる、というものです。
更に中堅になってくると、「顕正会に入信できたこと自体」が功徳と認識するようになります。
中でも組織で評価され、重役を任されるようになる人物像は、
「浅井先生(会長)に出会えたこと自体が最大の功徳」
と、心の底から思っているタイプです。
若干脱線しましたが、これらは「初心の功徳の先にあるもの」です。
もし会で信仰していくならば、現在の実践の延長にはもれなく上記のような自分の姿があると想像してください。
そもそも功徳の定義とは?
今までお伝えしてきた内容だと実際には「どんなことでも功徳」と認識して間違いないような気がしてきますが、顕正会の教義の基底は「日蓮大聖人の仏法」であり、
日蓮大聖人の仏法とは、歴史上実在の僧侶「日蓮」を本仏と崇め、そこに教義というものが肉付けされたものであり、
その本仏たる根拠や体を成している教義は何が由来かというとそれは「日蓮正宗」です。
私は現在日蓮正宗に形式上は籍を置きつつ、全く実践、活動はしていない立場ですが、日蓮正宗の活動を熱心にしていた頃はよく住職さんに、
「功徳とは六根清浄」
と教えていただきました。
教義上の典拠は「御義口伝」です。
「功徳とは六根清浄の果報なり。所詮今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり」
これはどういうことか率直に表現するとつまり「心が綺麗になる」ということです。
「心が綺麗になる」とはどういう状態か?と問われれば、それは人によって若干認識の差異はあると思いますが、ともあれ一般的に言われる「心が綺麗」ということで良いかと思われます。
定義に基づいた視点から見た実態
しかし、私は会に所属してまじめに活動するにつれて「六根清浄」という定義から凡そかけ離れた実態を知ることになりました。
彼ら(先輩会員)の態度はというと、表面上は、信心の先輩という立場から、「後輩に与えるべき印象」というものを自覚、意識していますので「にこやか」に接してきます。
しかし、よくよく観察してみると実態は綺麗になるというより「からっぽ」のような人々でした。
からっぽでなければ到底言えない、できないようなことを平気ですような人々です。
からっぽでなければどうして、本当は辛く、虚しく、苛まれているのに「にこやかに過ごす」ことができるでしょうか?
どうして、自分の本来の興味や関心を捨てて、我慢して、大切な「意欲」という自分の資源を顕正会の為につぎ込むでしょうか?
組織に心を売り渡してしまった人々の姿です。
私は脱会直前の頃に先輩に「仏法は生活法ですよね?最初にそう教わりました」と、確認したことがあります。
先輩の回答はこうでした。
「それは意味を履き違えている。仏法が生活法というのは、生活の中に仏法を取り入れるの意ではない。仏法を中心として生活をするということだ」
と。
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魔法のような功徳は継続しない
記事の初めの方で取り上げた「魔法のような功徳」の数々ですが、実はこの事実にはそれぞれオチがあります。
人生初、彼女ができた友人ですが、何週間もしないうちに別れてしまったのです。
それから、良い就職ができた彼ですが、結局その後には過労となって精神的に参ってしまい、ある日突然仕事へ行けなくなってしまいました。当然その後は退職しました。
不思議にも発熱が止んだ彼は、その後何日もせずに全く連絡が取れなくなり、その後は会っていません。何があったのでしょうか?
私の体験にしても、もしかしたら信仰をせずともそのうち母親とコンタクトが取れたかもしれませんね。
私の最大の失敗は、「功徳だ!」と思った勢いで4年振りに再会したにも関わらず、その場で熱烈に顕正会の勧誘をしてしまったことです。
母親は相当がっかりしたに違いありません。
顧みると、再会は私が信仰をやめてからの方が良かったように思えます。
ここで似たような事例を引き合いにしてみます。
こちらから「宝くじを当てた人の末路」と検索してみてください。
だいたいどのようなものか、適当な記事をクリックして内容を読んでいただければと思います。
おそらく、
「突然手に余る大金を所持して、使い方がわからずあっと言うまに消化してしまい、泡のように金は消えていき、結果的にその大金はかえってその人に不幸をもたらした」
みたいな内容のものが確認できるかなぁと思います。
本来自分が現実味をもって扱える程度の資産をはるかに超えた大金を手にしたとしても、得てして扱う側の自分が適切な対応を取ることができません。
しかし自分の努力によって、あるいは更にそこに才能や資質が伴っていれば別です。
一度大成した事業家が、たとえ失墜しても再び這い上がってくる姿が世間にはありますね。堀江さんなどはその典型でしょうか。
なぜこのような事例を挙げるたのかというと、
「初心の功徳」は、味わった人のその後に「何ももたらさないこと」をお伝えしたかったからです。
つまり、初心の功徳などというものはたまたま棚から出てきた「ぼた餅」みたいなものです。
棚にたまたまぼた餅が入っていることを期待して探す。そんなくだらないことを真剣にやるよりも、その時間を自分で稼いだお金でぼた餅を買えるよう努力したり勉強したりする時間に充てるべきです
身の丈に合わないものを手にしても、それは言わば「点」であり、「線」ではありません。
すぐにその幸福は過ぎ去ってしまいます。
結局彼ら会員が継続的に得ている幸福は具体的に何かといえば、先ほど示した
「浅井先生に出会えたこと」
です。
果たして組織の皆が入信したての頃に、将来、継続的にそのような幸福を得ることを望んだでしょうか?
もっと、「仕事ができるようになりたい」とか、「笑顔溢れる家庭を築きたい」とか、そういったことではないでしょうか?
この記事を読んでいる入信したての読者さんが心に描き、期待をしている「功徳」とはそういったものではないでしょうか?
そういうものは魔法で手に入れるものではなく、自分が時間をかけて積み上げ、築き上げていくものではないでしょうか?
宿命が変わるという甘い言葉
自分の命の癖、つまり性格のことを会では「宿命」と表現しますが、
勧誘の際に「それを変えることができる」と教えてもらったかもしれません。
会ではそれを「宿命転換」と呼びます。
例えば「怒りっぽい人」
そういう人が自然と怒らなくなった、といったような体験発表を聞いたり、あるいは本人の実体験として語ってもらった、などということがあるかもしれません。
これにどんなカラクリがあるかと勘ぐってみると、まず一つは「高揚」によって一時的に「怒り」がその姿を隠しているのかもしれません。
それから考えられるのは、単なる本人の身体的成長によって、生活に支障が出るような性格上の問題があったとしても、それが徐々に改善していったのかもしれません。
これは人生の経験の浅い若年者には、人生ではそういうことがあると経験則からまだ理解ができないので、
特に10代の頃に入信した現幹部の大人からそのような経験談を聞くとまるで本当に顕正会の信心が変えたように聞こえます。
もちろんその場合話した本人も本気でそのように信じているに違いありません。
本人が本気で信じている話というのは説得力があるものです。
しかしよく考えてみると「顕正会の信心がそのように変えてくれた」という根拠はどこにもありません。
極度に怒ったり、悲しんだりするのは主にホルモンが関係していますから、身体的成長に伴って体質が変化し、社会生活の観点から見れば結果的に改善が図られたということは大いにあり得る話です。
自分を作り飾っている
そして宿命転換のカラクリ考察で私がもっとも強調したいのは次の3つ目、
「本人がわざわざ信心によって宿命が変わったかの如く、意識的に振舞っている」
ということです。
これは単純に組織の中で成果を上げたいからです。
本人が功徳の実績を作ったように振る舞えば、支持が得られます。そしてそれは成果に直結します。
すると結果として、その「意識的な振る舞い」の副産物として徐々に本人の性格が変わっていくことは十分あり得ます。
自分自身は過去の経験に基づいた「自分はこういう人間だ」という固定観念で成り立っているという言説は存在しており、それが事実だ仮定すると、「自分は(全く別の)こういう人間だ」という強い思い込みによって「現在の自分」の上書きということが理屈として可能だからです。
ところがこの変化については、顕正会の信心が絶対条件ではなく、実はなんだって良かったわけですね。きっかけというか、たまたま顕正会だったという話であって。教義が単純なので信じ易さはあるのかもしれませんが。
それは例えば仮に「イワシの頭」だったとしても実現できたはずですから、やはり「御本尊によって」という根拠は非常に乏しいわけです。
結び。棚ぼたを求める前に
顕正会の話を聞いて、
「良いことがある」と聞くとなんとなく浮かれて、期待をしてしまう気持ちはわかりますが、もしそうなら冷静になってこう考え直してほしいです。
「棚にたまたまぼた餅が入っていることを期待して探すよりも、自分で稼いだお金でぼた餅が買えるよう、コツコツと努力しよう」
と。
もし顕正会によって変えられるものがあるとするならば、それは顕正会に頼らずとも変えることが十分可能なはずです。
もし真剣に悩んでいることがあり、その解決を顕正会に望むならば、他の方法を模索しましょう。
私が7年間活動した経験としてはっきりお伝えしますが、顕正会はその真剣に悩んでいることの「根本的な解決」をもたらしません。
それよりもご自身が「顕正会の活動によって何を失うか」について目を向けてください。
果たしてネットに書いてあることは全て「創価学会の謀略」でしょうか?
顕正会の深いところに足を突っ込む前によく考えてみてください。
ポリ銀です。
お久しぶりです。久々の更新記事、楽しく読ませていただきました。最近はいかがお過ごしでしょうか?僕も資格を取得し、資格を活用した仕事に転職しました。
自分が継続しても苦痛にならない職種ということで、決断し2年継続しています。顕正会員の時は仕事が続かなく、へんな夢を追い続けていましたが、今は、地道に生きていく中に喜びを感じられるようになりました。
また、時間がある時に、私のブログも閲覧してみてください。私の住む徳島県は、顕正会が全く広まっていないので、創価学会員相手にメールのやり取りをしています。
ミミさんならではの切り口で、ツッコミコメントをいただければうれしいいです。
突然、失礼いたしました。