進む「グローバル化」。2020年に開催を控えた「東京オリンピック」。
僕たち日本人が、「他の宗教を信仰する方」と接する機会は、この先間違いなく増えていくことでしょう。
このような社会の流れを鑑みると、そういった相手と「恋愛に発展する」というケースも、今後、珍しい話ではなくなるかもしれませんね。
起こり得る様々な状況を想定して、各宗教について関心を深め、最低限の知識は養っておく必要がありそうです。
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世界人口の過半数を「キリスト・イスラム教徒」が占めている。キリスト教関係と言えば…。
先日(5/7)、livedoorニュースにてこのような記事を見かけました。
世界の宗教とそれぞれの信仰の特色について、簡潔にまとめられた、読み易い内容でした。
リンク先の記事からの引用します。
世界人口で「キリスト教徒」の占める割合は30%以上。22億人に上る。
次いで多いのが「イスラム教徒」。世界人口の23%、16億人。
特記事項として、「イスラム教徒」に関しては現在「急増中」。
そして、最も多い「クリスチャン」の特徴は、
基本的に婚前交渉は禁止
水曜日の夜と日曜日の朝には礼拝へ行く。
とのことです。
とはいえ、キリスト関係の宗派も実に多岐に及んでいるわけで、一口に「クリスチャン」でまとめてしまうのは無理があるでしょう。
僕は、キリスト教関係といえば真っ先に「エホバの証人」がイメージされます。
勿論これは単なるイメージであって、キリスト教(カトリックやプロテスタント)と「エホバの証人」の教義には明確な差異があるのですが、
彼らの自宅訪問やビラ配布といった積極的な布教活動が強烈なインパクトを与えているのでしょうか。
キリスト系関係というと「エホバ」と連想してしまいます。
ということで、今回は割と皆さんが遭遇する確率が高いと思われる「エホバの証人」の「禁制」について、
「恋愛」に絡んだ信条を簡単にまとめてみました。
「エホバの証人」信者との恋愛について
調べてみたところ、「エホバの証人」の「婚前交渉」の禁止は割と厳格なようです。勿論、実態が伴うかどうかといえば、それは個人の信仰の浅深によるのでしょうが。
エホバの証人は基本的にタブーが多いようです。有名なのは「輸血」です。
今回のテーマが「性・恋愛」なので、関連する禁止事項をざっと列挙してみます。
・エホバの証人以外との結婚は出来ない。
・エホバの証人以外の異性とは、いわゆるデートをすることが出来ない。
・自慰行為は禁止されている。
・子供は、両親、および長老と称される者に逆らうことはできない。逆らえば、鞭によって戒められる。
厳しいですね。同じ「エホバの証人」の信者同士でも、子供のうちは両親の理解が得られない場合は、鞭で戒められるとっ!
もっとも具体的に何歳まで「子供」かは良くわかりませんが…。(調べれば良いのですが、ものぐさですみません)
ちなみに拠所とする聖典に、これらの根拠としてそれっぽい文言があるようです。
コリント第一の手紙 第5章ー11
兄弟と呼ばれる人で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば、そんな人と交際をしてはいけない、食事を共にしてもいけない
コリント人への第一の手紙 第13章
たといわたしが、人々の言葉や御使(みつかい)たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢(にょうはち)と同じである。
たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、
不作法をしない。自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
「不義は喜ばない」「愛がなければいっさいは無益」ってあたりがポイントなのでしょうか。
正式な契りを交わす以前の行為を、「不義」に当てて解釈しているのかなと思います。
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愛(LOVE)の解釈について
ただし「愛」=「性愛」と短絡的に解釈にしてしまうのは誤りです。
というのは、そもそもギリシャ語には「love」に相当する言葉が三つあるからです。
「フィロス」…知的な好奇心
「エロス」…性愛
「アガペー」…神の愛、無償の愛(相手に価値がなくても好きになる)
です。
「フィロス」について、上記の説明だけでは恐らく多くの方が「ワケワカラン」状態だと思いますが、
端的に言えば「友情的な愛」を示しているのだそうです。
友情なのに「love」?
これ、日本人文化から考えるとちょっと不可解な表現ですよね。
ここで「異文化」への柔軟な理解が求められます。
日本人にとって「LOVE」=「性愛」という通念が定着してしまっている感がありますが、
三種あることを前提に考えると、この日本人の感覚は、彼らの持つ感覚との「ズレ」を感じます。
特に「エロス」と「アガペー」の意味については、何だか相反した印象を受けますよね。
キリスト教における「契約」の概念がない日本人にとって、これは最も理解に苦しむ点だと思われます。
勿論、僕もイマイチ良く解りません。
「愛」の解釈一つとっても、こういった「感覚的」な違いは、交際にあたって間違いなく「障壁」となることでしょう。
もし彼がいきなり「僕は母親を愛している」とか言い出したら、きっと「うわっ、マザコンかこいつは」となるでしょうから。
「そういう意味じゃないんだ」と弁解したとしても、互いのアイデンティティが異なれば、なかなか簡単には理解できるものではありません。
わりと「頑な」なイメージ
ちなみに僕が顕正会で信仰していた頃、エホバの証人の会館に「問答」(今思えば「ごっこ」のレベルですが)に赴いたことがあるのですが、
たまたま出てきた会館責任者が、とってもさわやかな「好青年」でした。
会話の内容を思い返してみると、
まず「進化論」に関しては「断固否定」。
それにこちらの出版物も「断固」として受け取りませんでした。
もう少し柔軟性があっても良いと思うのですが…。
せっかくさわやかな好青年なのに何だか勿体ない。
「エホバの証人」の熱心な信者さんと、もし交際することになったら…。
これは無宗教の人からすると、もしかしたら難儀なことなのではないかと思われます。
※僕は「エホバの証人」を実際に信仰したことがないので、記事の内容が事実とは異なる点があるかもしれません。そこはご了承頂くとともに、関係筋の方がご覧になって「もし誤りがあった場合」はご指摘を頂ければ幸いです。
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こんにちは。
エホバの例を取ってみても、日蓮正宗はまだ緩い方なんですね。
ただ、他宗の相手とお付き合いになったという時点で、どうするのかは人によりますかね。
恐らく多くの人は、「1度でも折伏しないと与同罪だ」と考えそうな気がします。
一部の人は、「絶対に御受誡」でしょうか。
それでダメで破談になっても、どうせ次があるという人はそれでいいかもしれませんが、私のように、そもそも機会があるのかどうかすら怪しい人間には「1度でも折伏」はハードルが高いですね。
最悪、自分が脱講して相手の宗教に行っても良いというのは私だけの考え方です。
……もっとも、エホバに行く気は無いですが。
エホバの人間も、他教の人間と付き合おうとは思わないでしょうし。