教団が作り上げた「ロジック」には必ず欠陥点が内在しています。
教団は、信者がときに、眼前の事象について、あらかじめ持っている「カルト特有の思考パターン」では説明のつかないような「不測の事態」に遭遇することも想定しておかなければなりません。
もし、不測の事態に対処し得る「ロジック」が用意されていなければ、
信者が今まで積み上げてきた「リアリティー」は、そのことを契機に瓦解してしまう恐れがあるからです。
例えば、
【1】「一生懸命折伏(勧誘)したのに、信じ難いような不運に見舞われる。」
【2】「絶対に叶う本尊に、何十年も祈り続けているのにそのことが全く報われない。」
当事者にしてみれば結構深刻な問題ですが、
このようなものは、辛うじて説明がつきます。
【1】については、「功徳力による過去の罪障(カルマ)を軽く受けているのだ」と意義付ける「転重軽受法門」。
【2】については、「信心や信仰活動が足りない」と一蹴させられます。
ただし、どう足掻いても教団側が説明できない致命的な欠陥が一つだけあります。
それは、
「教義や教祖のお言葉の明確な矛盾点」
これだけは回避できません。
しかし、これについても教団側は何とか信者を説得させ得るロジックを用意しなければなりません。
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一念信解とは?
この事態を回避するために教団は日頃から、
「教義の奥深さや、高度性を強調します」
顕正会では良く「難しいことはわからなくて良い」と指導しますが、
これは裏を返せば「あなた達には到底理解できない程、ウチの教義は奥深く、難解なものである。」
という意味にもなります。
更に穿った見方をすれば、
「教義の矛盾については深く考えなくても良い」
という意味にもとれます。
これを顕正会では「一念信解(いちねんしんげ)」といって、重要法門だと位置付けられているわけです。
しかしそれでも抑制できない信者たちの「知的欲求」はどのように処理されるのでしょうか?
彼らの心中に胚胎した疑問は多くの場合、先輩信者からは「保留」にされ、
「いつか理解できる時が来る」
と回答を先延ばしにします。
しかしこの方法は、大変な上策です。
なぜなら、信者は疑問を解消したいため、その境地に一刻も早く辿り着けるように、「一生懸命活動するための動機」がつくられるわけだし、
信者の「教義への興味」を常に惹きつけておくことになるからです。
イワシの頭も信心から
と同義ですね?
王様は裸だとも近いですね?