ズバリこれ。
「此の法門の一門いかなる本意なき事ありとも、みず、きかず、いわずしてむつばせ給へ」(四条金吾殿御返事)
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Index
「十四誹謗」の拡大解釈が生む「風通しの悪さ」。
日蓮正宗では「十四誹謗」ということが言われてますね。
その中で、組織内のルールに該当する条目は以下のようなもの。
・第十一「軽善(きようぜん)」。即ち御本尊を受持し、信行に励む人に対して、軽んじ侮ること。
・第十二「憎善(ぞうぜん)」。正法を信受する僧俗を憎むこと。
・第十三「嫉善(しつぜん)」。正法を信受する僧俗を嫉(そね)み妬(ねた)むこと。嫉むことも妬むことも共に、他の勝れたものに対して羨(うらや)んだり憎んだりするところから起こる感情。
・第十四「恨善(こんぜん)」。正法を信受する僧俗を恨(うら)むこと。字義から言うと「恨」の字は、同じウラミでも心中に根に持つ深いウラミのこと。
これは、ごもっともだと思います。
恨んだり、妬んだり、蔑んだりと、そういった感情から発した言動って基本的には良いものを生まないはずですから、
そういう心根で議論しても建設的には成り得ないのです。
ただし、
僕が言いたいのは、このルールに対する拡大解釈。
要するに、
この条目に抵触してしまうことを極端に畏怖、懸念することが、
【組織の改善や成長を阻害する悪因となってはいないだろうか?】
ということです。
トップダウン構造が持つジレンマ
確かに、御法主→末寺住職(出家)→信徒(在家)
という構造は、ボトムアップと相反して、余計な議論や揉め事を生まず、
ある種の平穏をもたらすシンプルな仕組みなのかもしれません。
しかし、ここで時折持ち出されるのが、「随自意」(ずいじい)という法門上の概念。
ここから、
「自分勝手な振る舞いは仏意に適わない」→「僧侶が説示する修行の在り方から外れたら成仏できない」→「僧侶の権威付け。」
と、
同時に、悪い循環が生む温床と成り得てしまう事実も否めません。
西洋に見る、教会権威の驕りや締め付けが、後にプロテスタント、即ち「抗議する者」を発生させた如く、
「鬱積した不満」は、やがて「憎反」というカタチでしばしば「爆発」することは、
こういった歴史が物語っているわけですね。
揉めなければ「止揚」(しよう)もない。
何が言いたいかっていうと、
「信徒間で揉めることは本当に悪いことなのか?」
ということ。
僧侶は組織内の在り方について、次のように指導します。
同志間では、どんなに不本意な事や不愉快な事があったとしても、それを見ないように、聞かないように、言わないように努め、仲良くして行きなさい。と言われております。
う~ん。なんという風通しの悪さ!
これでは組織の腐敗は目に見えているといっても過言ではないでしょう。
約一年半程前、僕は「ふむふむ」と従順に頷いてましたが、
ちょっと待てよ。
これは何か違うような気がする。
これでは、もし優れた改善案、あるいは、出家にあからさまな怠惰があったとしても、
そういった意見や、それを指摘する真っ当な主張をも蹂躙してしまう、大いなる危険性も同時に孕んでいるのではないかと。
揉めること自体が決して「悪いこと」とは限らない。
御隠尊の日顕上人が、とある法要後の信徒同士の争いを目にした際の御指南で次のようなものが残ってます。
「本日は当鹿沼の地に頓止山仏城寺を建立致しまして、その入仏落慶法要に参った次第であります。しかるところ、法要が終わった直後に、何を騒いでおるか。私はその信心を疑います。」
「信心を疑います。」
はて…。
「揉める」→「信心がない」→「揉めないことが信心」となり、
これでは、建設的な議論を生む機運すらも隠滅させることにならないか?
という話。
ここで、例えば、ヘーゲルの弁証法なども参照にしてみたい。
組織の発展、及び成長にはアンチテーゼが必要条件で、且つ、その発生は免れない。
しかし、統合し、アウフヘーベンしていくプロセスをどう踏むかはとても重要です。
つまり、このアンチテーゼを組織の外に生むか?自分の組織の中で完結させるか?という話で、
「教条に沿わない因子は排除する」となるから、
結果として、野放図に異流儀が生まれていくのではないでしょうか?
その反対に、もし「教義に不満があるなら辞めてもらって構わないよ?」
というのであれば、それは明らかに「慈悲」ではないはずです。
悪くいえば、「殿様商売」。
まぁ、それだけの余裕があれば話は別ですが…。
どうも内情を覗けば、そういうゆとりなどなさそうですね~…。
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揉めれば?
ってことで、あえて声を大にして言いたい。
「揉めれば?」
宗教学者の島田さんも仰ってます。
この本、正直あまり人気がないんですがね。
揉めて、お互い納得できる場を作ることは、コミュニケーションを円滑に図る上で大事なことです。
「雨降って地固まる」
とは良く言ったものですが、
「見ない・聞かない・言わない」
これでは結局、真に「仲良く」も成り得ないということです。
これが日蓮正宗が抱える「ジレンマ」ではないか。
僕はそう思っています。
ミミ 様
お邪魔致します。
創価・顕正・法華講と渡り歩いた私の感想は、どこも一緒の目くそ鼻くそです。
臭いものに蓋をして、「黙って言うことを聞け!」的体質ですね。
日蓮正宗も全体主義的傾向が強くなっているようです。
折伏は縁の濃い人や家族以外は、在家ではなかなかできないので僧侶がするのが伝統のはずですが、いつのまにやら創価で味をしめて、信者のケツをたたくのが仕事だと考え違いしてしまっているようです。煽られて必死の法華講員もいますしね。阿部信彰御尊師様なんか、「昔の創価学会員は夜中の2時・3時に入信勤行したりして頑張りましたよ。皆さんもそれくらい頑張って下さいよ~」なんてヘラヘラしながら言ってました。本山の夏期講習で。その場にいた人間はしらけてしまいましたが。あんなのが次の・・・って感じです。
いうこと聞かなきゃ除名するぞ!地獄に落ちても知らねえぞ!って・・・・
恫喝ですよね。
80万人の根拠すら教えてもらっていません。
僧侶が妻帯やめれば今の法華講員でも十分にやしなえるけど・・・オイオイ。
顕正会のときと同じく、いや、それ以下のお願い勧誘や法事にまぎれて御受戒ポンが横行しています。何の意味もないと思うのですが。
私は戒壇のご本尊様を信仰の対象としています。密教的な血脈伝承は信じていません。ですから、戒壇の御本尊様を管理する責任者が、貫主上人であると思っています。書写の権能があるからといって、貫主になったからホイって簡単なものでもないはずです。できれば御形木様は日寛上人に戻して欲しいとも思っています。大聖人教学を今の形にしたのは、日寛上人様ですから。そもそも日達上人は次をきっちり決められずに、お亡くなりになっているのは確実ですからね。でも、そもそもが「頼みます」程度の引継ぎですから、貫主上人に一切の権能があることは疑っていません。59世が全部世に出しちゃいましたから。
日寛上人様のお形木が欲しいなあ。草創期の学会員が受けた御本尊様。
でも、そんな願い出しようものなら・・・。
今の猊下をみとめられないのかコラー!って叱られますし。困ったチャン。