カルト信者たちは、なぜ生活を犠牲にしてまで活動に傾倒するのでしょうか?
今まで積み上げてきた信用を失ってまでして、守るべきものとは一体何なのでしょうか?
「本当にそれで幸せなの?」「何か見失っているんじゃないの?」
周囲から見れば、滑稽で、不可解で、まるで別次元の人たちです。
彼らをそこまで夢中にしてしまう、彼らにとっての「魅力」とは一体‥。
僕は、「顕正会」という、いわゆるカルト団体に過去「7年間」身を置き、わき目もふらず活動に没頭してきました。
ノルマが設定された布教活動。会合への出席。そして周囲からは「狂ったカルト信者」という烙印を押され、冷笑され、蔑視され続けてきました。
まさに過酷であり、世間から強い抵抗を受けながら、走り続けた「7年間」。
その精神状態を根本から支えていたものは一体何であったのか?
現役時代を回顧して、「カルト信者」にしか理解できない心の内をここに披瀝してみたいと思います。
SPONSORED LINK
自己重要感
はい、まさにこれに尽きると思います。
「自己肯定感」に同じです。
人間は、三大欲求(食・性・睡眠)と同じくらい、「自己重要感を得たい」という強い欲求を潜在的に持っています。
カルト信者は、この大事な「自己重要感」が満たされるゆえに、教団に依存的に関わり続けているというわけです。
カルト信者は皆、自分のことを「特別な存在」であると自負しています。
僕は、「顕正会」での経験しか書けませんので、以下、「顕正会」における具体例を示していきます。
地涌(じゆ)の菩薩
3000年前、釈迦が法華経を説いたとき、彼らはその時その場所に居合わせていたのだと固く信じています。
しかもなんと、「仏様の遣い」として釈迦に呼ばれ、地面からボコボコと湧き出てきたのだと。
笑ってしまうようですが、本当に彼らはそう信じています。
そして「末法(まっぽう)」といわれる現代の「愚痴と欲と瞋(いか)り」(三毒といわれる)にまみれた、顕正会員以外の全ての人間たちを、顕正会に入会させることで、救済することを「使命」だと考えています。
三毒にまみれた世間の人たちは、「顕正会の教義」に従わない限り、真に幸せになることができないどころか、あと数年、十数年の間に世界規模の戦乱を巻き起こし、みんな死んでしまうと思っています。
そして、そうなることにより、ようやく皆が「顕正会の素晴らしさに気付き、心の底から入会を求めてくる」と、強盛に信じています。
そのとき、世間に向かって、顕正会の教義を説き、人々を救済する使命を担っているのが自分達であり、
全ての人々が「顕正会員」になることによって、初めて世界に平穏が訪れるのだと確信しています。
つまり彼らは自分たちこそが「救世主」だと思っているんですね。「人類の存亡」がかかっているのだと。
えぇ、まさに自分たちこそ「マトリックス」の「ネオ」のような存在だと、本気で信じているのです。
しかも常に「魔」という「エージェント」に狙われながら。
カルトが目指すもの。彼らが胸に懐く「ユートピア」
では、皆が顕正会員となったら、どのような社会が顕現されるというのでしょうか?
顕正会会長の浅井さんの指導を引用してみたいと思います。
【仏国はいかに素晴らしいか】
このことがわかれば「広宣流布」すれば、どれほど立派な国ができるかということもわかる。(中略)
日本国中が「南無日蓮大聖人」と、熱涙の中に請願して「国立戒壇」が建設されたら、日本はどのような立派な国になるか。これが仏国であります。(中略)
そのとき、世界から戦争も飢餓も疫病もなくなる。(中略)
このとき、政治も妙法の政治になる。科学も、農業も、医療も、教育も、すべてが妙法化されて人々を利益するのであります。(顕正新聞 平成25年1月25日号)
上掲の演説中における「広宣流布(こうせんるふ)」とは、顕正会では、全世界の人間が顕正会員に入会することを意味します。
また、そのときには「国立戒壇(こくりつかいだん)」という建造物を建設するのだと、会では決められています。
もちろん会では、この「広宣流布・国立戒壇建立」はあと数年、数十年以内の間に到来するとされており、
彼らは、この歴史的な時節にたまたま居合わせた「特別な存在」なのだと信じているのです。
そして彼らは、どのような災難が起ころうとも、「自分達だけは仏の加護によって助かる」と信じています。
この道理だと、世界大戦争の後、生き残る人の多くは彼ら「顕正会員」なので、
将来的に彼らは、「新たな文化が創設される際のキーパーソン」となります。
この誇りを胸に懐き、希望と「自己重要感」に満ちた濃い日々を過ごしているというわけです。
SPONSORED LINK
カルトの魅力。それは自己重要感。まとめ。
これ、実に恥ずかしい暴露話なんですが、
現役時代、顕正会歌の「遺名おもし」を脳内再生して、数年、数十年後の栄誉に思いを馳せ、泣いてました。
彼らの信条からすれば、上記したように、数年後の立場は約束されているわけで、
それを考えれば、現状の辛さなど物の数ではありません。
「今は不遇なことに、世間から認められていないが、近い将来必ず報われる」
会はこういった「確信」を信者に与えることで、彼らの「自己重要感」を満たしています。
彼らが「水火も辞さない」といった覚悟で弛むことなく布教に邁進できたり、
如何なる世間の抵抗をも撥ね除ける信念を持つ、その根底にあるのは、
将来への「揺るぎない確信」と、
信者であることへの「誇り」。
ただそれだけです。
彼らは、顕正会員として活動することに対し、
他の何ものにも代え難い「価値」を感じています。
彼らは「正義の団体の一員」としての自己に陶酔しているのです。
こんばんは。
顕正会と日蓮正宗の大きな違いは、顕正会には同じ境涯の人が多く、日蓮正宗は違うということです。
顕正会では非正規雇用の人が多く、まともな富裕層はまずいません。
また、「生涯独身を目指す」人が多く、独り身の人が多いです。
しかし、日蓮正宗は違います。
ポーンと大金を御供養できる信徒さんもいらっしゃいますし、既に家族持ちで一家広布や法統相続が叶っている人も大勢います。
要するに、自分に功徳が無くても周囲の人も同じだから安心できるのでしょうね。
だからこそ、傷の舐め合いができる。
日蓮正宗は本当に色々な人がいるからトラブルも多いし、自分が取り残された感も起こる。
世法で上手く行かない人が顕正会の勧誘に引っ掛かって入会してきますが、あいにくとそういう人は日蓮正宗法華講でも上手くは行かないと思います。
カルト教団にいた方がいい人も、実際にいます。
私はそんな人を無理に折伏することはありません。