人間は、誰かに「認められる」ことで、健全な自尊心を保っています。
その健全な自尊心とは、今までにした自分の行いが、家族や友人、職場等に「認められてきた」という事実の積み重ねによって、
成り立っているといっても過言ではないでしょう。
しかし、カルトを脱会した人間は、「誰にも認められていない」ところからスタートします。
「誰にも」というのは、やや極論かもしれませんが、
その度合いとしては、カルトに染まった分だけ、「孤独」の状態に近い位置から、人生の再スタートを切ることになるのです。
以下、カルト宗教で7年間過ごした僕が、その周囲の方へお伝えしたいことを綴りました。
カルト被害の当事者の方で、もし「生きる意味がわからない」、「人生の価値が見い出せない」と鬱屈されているのでしたら、
参考になるかわかりませんが、以下の記事なども併せてご覧ください。
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Index
カルト信者特有の承認欲求。
カルトの思想というのは、教団の仲間、あるいは、教祖・本尊に「認められる」ことのみを至上の目的と掲げ、人生のベクトルとしています。
一般世間の価値観とは大きな乖離があるのです。。
なので当然、世間とは深い深い軋轢が生じます。
その「ストレス」をケアするために、
カルト特有の考え方を積極的に取り入れていくことになるわけです。
世間からの批難を肯定的に捉える「カルト独特の世界観」
カルト信者は、「ある特定の教団に所属している」という理由だけで、多くの場合は世間から忌避、敬遠されることでしょう。
そういった「周囲から認められていない自分」を積極的に認めてしまったならば、
それは、ただ開き直っているだけに過ぎず、
世間からは、虚しく粋がっているだけの独善的な人間として映ることでしょう。
しかし、そんな姿を指して、いくら周囲が「おめでたい人」と揶揄し、批難し、嘲笑したとしても、
彼らは歯牙にもかけません。
なぜなら、カルトの思想に染まった信者というのは、そのイタい事実すらも「肯定的に捉えることで」、ストレスを軽減し、自尊心を保っているからです。
そのように揶揄し、忌避、敬遠する側の人間を指して「あいつらは愚人なのだ」と、
「低俗な愚人たちには我々の高尚な考えなど到底理解できない。あぁ、おかわいそうに。」
そう納得し、悦に入ることで、彼らは自尊心を満たし、心の充足を得ているのです。
人はたとえどのような相手であっても「認められる」ことで、自己肯定感を得て、
そうして健全な自尊心を育くんでいくことは、円満な主体性を構築する上で重要なことでしょう。
しかし彼らは、「世間の愚人らに認められること自体が恥だ」として、「褒められることなど、こっちから願い下げだ。」
と、お高くとまってるというわけです。
結果的に世間から見放される。
しかし、これを続けていった場合、どのような結末に至るかは言うまでもありません。
完全に孤立し、やがて精神上様々な支障が生じ、最終的には、粋がって虚しく吠えることすら、断念を余儀なくされるほどに生命力を失い、
最悪のケースでは、その尊い命を、自らが絶ってしまうという悲劇すら起こり得ます。
彼らは「誰からも認められていない」状態で人生の再スタートを切らなければならないのです。
「カルトの思想」がもたらす弊害。脱会しても思考パターンの「癖」が抜けない。
カルト脱会後の元信者にとって一番深刻な問題は、
「誰も自分のことなど認めないという事実を、肯定的に捉えてしまう癖」を長く引きずり続けてしまうことではないでしょうか。
カルト信者が、教団の思想に支配されていた期間というのは、
「俗世間からは誰からも認めてもらわなくても良い」という考えが前提となって周囲の環境を形成しています。
本人が周囲に対して「認めよう」という心がないわけです、なぜなら本人にとって周囲は皆「愚人」なんですから。
なので当然、周囲もそんな人間のことを「認めるはずがありません」。
表面上最低限の必要があるから関わっているだけのことで、
それが、最悪は「家族・近親者という間柄であったとしても、お互いそのことを納得をした上で相互の関係が成り立ってしまっている」
という、救い様のない事態を招いているケースすらあります。
ネガティブ思考のスパイラル。孤独、自尊心ズタボロ状態から「どう這い上がるか」?
もしカルトから脱会したならば、
同時に、教団の仲間とは袂を分かつことなりますよね。
なので、残る人間関係というのは基本的には「認められてはいないが、一応表面上成り立っている最低限のもの」のみとなります。
しかし、脱会したことにより、先に述べたような「他を蔑むことで一時的な優越感を得るための手段」も同時に失っています。
つまり、自尊心の「供給源」を失っているわけですから、
快活に生きるための「原動力」は枯渇状態。
ぽっかり空いた心の穴は「自分自身で」埋めていかなければなりません。
「誰からも認められていない」現状から自力で這い上がっていかなければならない。
「原動力」のない状態ですぐにでもこのことが求められるわけですから、
まずこの点で、想像を絶する苦難が想定されます。
また、人に「認められること」によって得られる健全な自尊心を、一つ一つ積み上げていくために行動を起こすためには、
その行動を生み出す「思考パターン」。
これが、求められます。
しかし、
長い間、「あいつらは愚者だ」と思うことによって、心の充足を得ていた思考の「癖」というのはすぐに変えられるものではありません。
ここで、更に苦悩に悶え、喘ぎ、苦しむことになるのです。
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カルト特有の「癖」に呻吟する元信者を周囲がどうサポートするか?
本人が周囲を認めない「癖」があることによって、いつまでも周囲から「認められない」。
「認められない」からまた卑屈になり、他を蔑むことで一時的な心の充足を得る。
このスパイラルに陥ってしまっている元信者をどのようにサポートしてあげれば良いのでしょうか?
もし、周囲の方が根本的に本人をサポートしてあげたいのであれば、
まず、カルト宗教によって染みついてしまった「癖」をしっかりと理解してあげないといけません。
理解した上で、本人のためにできること。
それは、
ただ「認めてあげること」です。
鷹揚に構える。本人の変化を早急に求めることは禁物。
「あなたはおかしい!こう改善するべきだ!」と責め立てるように内面的な変化を要求したとしても、
それは「ストレスを与え、相手を苦しめるだけで、全く建設的ではありません。」
当たり前じゃないですか。「おかしい」のは。
そもそも、ある程度は「おかしい」からカルトに染まってしまったわけですし、
カルトによって更に「おかしくなってしまった」のですから。
勿論様々なアドバイスは適宜必要かもしれませんが、
「早急な変化を過度に要求しないこと。」
これだけは厳守を心得るべきです。
それは相手を苦しめるだけ。
本人を変えることが出来るのは、他者ではなく「本人自身」なのです。
しかしそれは、「本人が自分自身を認めてあげること」ができて、
初めて、「変わること」可能となります。
ですから、その人の変化を願うのならば、
「本人が自分自身を認めてあげること」ついてのみ、助力をしてあげて下さい。
本人は既に、「自分自身を認めてあげることができない」わけですから。既に脱会した時点で「自尊心の供給源」を失っているのです。
その本人は、ときにはこの世の終わりみたいな顔をして、毒のような言葉をまき散らすかもしれません。
ときには、世間を見下すような不遜な態度で、信じられないような悪言を吐くかもしれません。
しかし、考えてみて下さい。
そもそも本人は「常識から逸脱することによって心を満たしてきたのです」。
そのような人間に即時「常識」を求めるのは、少しハードルが高いと思いませんか?
あなたがそばにいること。それは本人にとって本当に幸運なことです。
「認めてあげる」のは、周囲だからこそ、できることですし、
その周囲が存在している時点で、その本人にとっては大変幸運なことです。
中には完全に「孤独」に追い込まれ、
そのまま静かにこの世から去ってしまう人もいるんですよ。
もし僕が上述したことを理解しようともせず、まくし立てるように、「常識」を振りかざして無責任に責めるのならば、
それは、彼らを死地に追いやる、殺人にも似た、大変残虐な行為だと知って下さい。
どうか、本人がせっかく広げようとしている羽を、折るようなマネだけはしないであげて下さい。
どうか、上手に飛べるまで、諦めずに応援してあげて下さい。
周囲は辛いでしょうが、本人はもっとつらいのです。
長文になりましたが、ここまでお読み下さり感謝します。
心を込めて書きました。このメッセージが、少しでも誰かのお役に立てたのなら幸いです。
胸にストンと落ちると言うか、あぁ、夫はこんな気持ちだったのかと漸くしっくりきました。
結婚して約2週間で離婚に直面するほど、夫は顕正会の活動にのめり込んでました。
半ば無理矢理の形で活動停止してもらってから、もうすぐ4年が経とうとしています。
普段は自尊心がさほど高いと感じさせない優しい夫ですが、時折「あいつ等になんか認めて貰わなくて良い」などと、会社の人達の事を蔑むような発言をしたりするので、どうしてかな?と思いつつ、私も内情を知らないので頭から否定することはしないで、様子を見ていました。
もしかしたら入信していた頃の考えの癖が抜けなかったのかもしれませんね。
約8年も入信していたら当たり前かもしれません。
基本的には今も「あいつ等なんかに…」という気持ちでいるみたいですが、それなりに仲良くできる人もできて、プライベートでも親しくして下さる人もちらほら出来て、随分精神的にも落ち着いて来たように思います。
ただ、活動停止して貰って良かったという私の気持ちの中に、本当に良かったのかな?と疑問があるのです。
結婚したからと言って、相手の人生を束縛する事はいけないことです。
にも関わらず私は無理矢理止めさせたに等しい事をしました。
当時は毎週末は泊まりがけで居ないし、平日も携帯電話はメールやら着信やらが頻繁でしたし、兎に角早く脱会して欲しくて宥めたりすかしたり…。
今、平穏で幸せな毎日の中、冷静になって、罪悪感と言うか、私の傲慢さで夫の大切だった物を無理矢理へし折った感じがずっと取れないでいます。
ただ、今その事について話し合うのも気が引けるし、夫のフラッシュバック的なものも怖いです。
私が夫の聖域をめちゃめちゃにしておいて、あの時はごめんと今更言ったところで、もし活動再開したいと言われても、それを受け付けることも出来ないし、はっきり言って自分でも偽善だと思います。
もう、顕正会のけの字もかかわり合いがなくなったのに、時折どうしたら良いのかわからなくて、今でも宗教脱会やその家族についての記事を探してしまいます。