先日、「憎悪」か「愛」どちらかの感情が生み出す莫大なエネルギーが、
「表現活動」を継続する上で、欠くべからざる要素、つまり「燃料」のようなものだ。
との趣旨を談じましたが、
斯く言う僕自身においても、決してその埒外ではありません。
今回は、このブログが如何なる「燃料」によって運営されているのか、
その正体を披瀝したいと思います。
SPONSORED LINK
宗教がもたらすのは、「争乱」か、「平和」か。
ズバリ、僕は、教団のくだらない「しがらみ」に対して、言い知れぬ「憎悪感情」を懐いています。
つまり、組織が専有権を主張する「唯一無二の血脈」という概念。
近い意味に言い換えれば「反骨心」ということになるでしょう。見る角度によっては、取るに取らない「愚痴」と映るかもしれません。
しかし僕の中においては、確固たる「定見」であり、そのまま、このブログの基盤を成す「ベクトル」と言って良いと思います。
もう少し具体的に叙述します。
・同調圧力を生み出し、内なる意見をミュートする閉塞感。
・異端者をはじき出し、除籍へと追いやる、排他性。
・日蓮正宗、顕正会、創価学会それぞれが自教団の優位性を誇示し、
カニバリズムともいえる状況を招来し、
共倒れの道を突き進む、争乱の構図!
なぜ寛容になれないのか?
なぜ共食いの「暴走」に歯止めをかけられないのか?
これは人間の持つネガティブな側面であり、決して逃れることのできない「宿命」なのかもしれません。
しかし、各者が称揚する高貴な「宗教性」を、真に、存分に発揮すれば、
本来、改善は可能なはずなんです。
むしろ「可能」でなければならない。
「可能」でなければ、「おかしい」んです。
宗教は抗争を助長するのか?
宗教は争乱を助長するために存在するのでしょうか?
増長する敵愾心を鎮め、平和をもたらす力のないようなものを、果たして「宗教」と呼べるのでしょうか?
これはもう、教義解釈の是非などという概念を超越し、「嘆き」という性質を大いに含んだ「憎悪感情」ですね。
個人の純白な「信仰」が「教団の権益」によってかき消され、無力化されてしまう構造。
その「負の機能」に対する激しい怒りと憎しみと嘆きが、僕の心底でうごめいているわけです。
(※写真は「嘆きの壁」)
SPONSORED LINK
他を「許さない」、「認めない」行為を、宗教的営為と呼べるのか?
そもそも特定の教団に追従しなければ「功徳がない」とかいう、つまらない決まりごとみたいなのは要らないんじゃないでしょうか?
教団を離れることと、信仰を辞退すること。
双方は全く関係ありません。
学校教育もそうですが、選択の余地なく、予め決められた学級に、最初から最後まで属さなければ、勉強させない、絶対に卒業を認めないなどということは、現代において有り得ない。
個の多様性を認め、より自由度の高い「日蓮信仰」へと三者団結の下に刷新していくべきです。
苦汁を飲まされて、なお我慢して、リソースを消耗させて、
唯々諾々と特定の教団に隷属する優等生だけが救われるのか?
んなバカな。
ところが、それを認めない。教団の権益というか、「御利益独り占め」みたいな、
そういう狭くて、けち臭い教条が嫌いです。
安全地帯からはじき出された者は「地獄行き」。
尊い、珠玉の「信仰心」を蔑ろにするにも程がありますよね。
所有に拘ってないで、共有しましょうよ。
権利ばかり主張するとか、強欲過ぎる。
僕の「憎悪」の莫大なエネルギーは、恐らく、ここらが源泉で、
このブログは、そういう馬鹿げた「しがらみ」に対する、アンチテーゼであると言っても良いと思います。
信仰者の「信心」に「悪」は無い。
顕正会、日蓮正宗、創価学会。
それぞれに属する信仰者は皆、日蓮を信仰の対象に据え、心の柱としているはずです。
組織を構成しているのは、所詮、人間ですから、その個々の信心には遍く「親愛感」を懐いています。
しかし、その一方で、共通して教団に内在する「個人の信仰を阻害する構造的要素」に対しては、
激しい「憎悪感情」を懐き続けています。
先日、ローマ法王は人工中絶に対して、寛容な態度を示しましたが、
時代の要請に耳を傾け、忖度し、組織の在り方を改める姿勢というのは、諂(へつら)うこととは違うはずです。
むしろキリスト教は、「第二バチカン公会議」然り、そういったイノベーションを度々、実現してきたからこそ、存続を保ってきているわけですから。
「随自意」という、信条の規範のゴリ押し、合理化、全体主義路線に一旦終止符を打つべきです。
そして、平和的解決の方途を熟慮、検討し、
自由に、のびのびと、「日蓮信仰」を満喫できる環境の構築を志向するべきです。
いっそ、組織の垣根など全て取り払ってしまえ。
この際、はっきりと揚言しますが、
お互い罵声を浴びせ合い、相手に落ち度があったなら、鬼の首を取ったように勝ち誇り、嘲笑する。泥掛け合戦。
これ、傍から見れば、ただのバカですよw
いつまで恥晒し続けるんですかね。
「宗旨の争い釈迦の恥。」
「ネオリベ野郎」とか呼んでもらっても結構ですが、
とにかく、この教団の構造的な性質への「憎悪」とも「嘆き」とも言える激情は、今このブログ運営に当たって、大きな原動力となっているんです。
繰り返しますが、そもそも日蓮信仰への「親愛感」が無ければ、
僕がこのような感情を懐くこともないでしょう。
では、「愛」とは何か?どう定義されるのか?
こんなふうに考えています。
自由にのびのび信心、大賛成です!
顕正やめて現在は法華講員ですが、
もう窮屈な信心はご免です。
窮屈嫌なら信心やめたらって言われそうですが、自分には信心が必要です。
なぜなら、「幸せになりたいだけですが、なにか」(-.-)