プロブロガー「イケダハヤト」さんが「仏教」を考える。【仏教は宗教ではない】を読んで。

「仏教は宗教ではない」

なかなか奇抜でインパクトのあるタイトルですよね。

ですがこれ、よくよく考えれば「間違っちゃいません」よね。

「仏教」って読んで字の如く「仏の教え」であり、「教えそのもの」は、「人為的に体系化された教義」や、「組織化された団体」などと、イコールではないわけですから。

この本は「まだ東京で消耗してるの?」のブログタイトルで有名な「プロブロガー」「イケダハヤト」さんと、

上座仏教(小乗教)の僧侶、「アルボムッレ・スマナサーラ」さんの「対話形式」で書かれたものです。

僕はてっきり、イケダさんが、現地(スリランカ)まで赴き、取材をしたのかと思ったんですが、全然違いましたね。

この「アルボムッレ・スマナサーラ」さんという方は、主に「日本」で活動されているようです。

しかし、なぜ「日本」で活動しようと思ったのか?

その理由について「アルボムッレ・スマナサーラ」さんは、

日本の仏教は釈迦の死後かなりたってから編纂された大乗経典に基づくため、釈迦のアイデアが旨く伝わっていない。

日本人が仏教を何も分っていないと思った。(Wikipediaより)

と、仰っています。

まぁその「お気持ち」はわかります。

確かに、今の日本の仏教界は、江戸時代の寺院法度の影響で、「葬式仏教」と揶揄されるような体たらくに成り下がってしまっているのが実態。

また、伝播する過程の中で、「本来の教え」に恣意的な解釈が添加され「変質」してしまった事実は、まんざら否定できるものではないと、僕も思います。

「幸福」。時代背景と人類が求めるものの関係性について思うこと。

人々は傾向として、「安定期」と呼ばれる時代には「外的・物質面」に「幸福」を求めますが、

環境が激しくの変動する時代においては「内的・精神面」に「幸福」が求められます。

人類は歴史上、概ねそのパターンを繰り返してきていて、

まさに「現代」においては「後者」のような「変革期」に直面しているのだと思われます。

近年、「物質至上主義」のような考え方よりも、「心の豊かさ」に人々の関心が移ってきているのは事実。

そこにきて、「宗教」というものは本来、そういった「内面的な幸福感」を満たしてくれる存在であったはずですが、

そういった現代の人々が求める方向性とは裏腹に、「宗教」人気は「下火傾向」というのが昨今の実情です。

生活定点

(図は「生活定点」より引用)

「宗教」というと、「どこかの団体に帰属」して「その団体特有の教理に浸る」というようなイメージが先行します。

上掲のグラフは示唆しているのは、「宗教」という概念と、現代人の求める「内面、精神的な幸福感」とが、合致していないという実態でしょう。

人々が求める「内面・精神的な幸福感」とは言い換えれば、

「真理とは何かを自分なりに追求し、心の平穏を得ること」

だったり、

「人格的、精神的な成長を果すこと」

等といったことが言えると思います。

例えば、TVメディアでは「ぶっちゃけ寺」が視聴率を集めていたり

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こういった類のものは、教団側の経営戦略に大衆が煽られ、乗せられてしまっているような構図があるのかもしれません。

しかし、少なくともこれらは「必要だから存在している」のであり、サービスを受ける側も、こういった機会を欲する「心理的要因」があるはずなのです。

人々が「内面・精神的幸福感」を求めるという「需要」。

それに対し「供給側」が、元から存在する「宗教」という概念から脱却し、時代相応の「カタチ」に「適合」させることで、「人々の欲求を満たしている」ということでしょう。

大衆の心を捉え、巧みに描写するセンスが光る

イケダさんという「ごく一般的な若者」が「個人的」に「仏教の大元」を謳う「単独の僧侶」に話を伺いに行くという「シーン設定」は、

「教団」に対しては、「内面・精神的幸福感を求めない」。どこかに属し、そこから「得よう」という考え方は「ナンセンス」。

と、こういった現代の風潮、トレンドに、うまくマッチングしていると思います。

また、タイトルについても、

「仏教」は「宗教」(一般的概念で語られる)で「あってほしくない」「混同すべきではない」

という、多くの現代人の内に秘めているであろう「願望」のようなものをうまく捉え、端的に表現するそのセンス。

これには、「さすがイケダさん」という他ありません。

主張の基本は「大乗非仏」

とはいえ、あくまでこれは「上座仏教(つまりは小乗教)」という立場からの論じられたものであり、

つまりは「大乗非仏説」に立脚した考え方という域を出ないため、

それを踏まえて読んでいかなければ、誤解を生じやすい内容であることも確かです。

「大乗非仏」というのは「大乗経非仏語説」であり、

これを「大乗非仏思想説」と捉えるのは短絡であり早計でしょう。

本の中で、「アルボムッレ・スマナサーラ」さんは、大乗(勿論法華経も含む)経以降の流れを悉く否定する物言いをしていますが、

これ、かなり無理があるんですよね。

というのは、「アルボムッレ・スマナサーラ」は、本の中の時点で、既に多くの「矛盾」を露呈してしまっています。

例えば、

「一番たちが悪いのは、同じ宗教内の本家争いです。」

と仰っているのですが、「アルボムッレ・スマナサーラ」さんはの主張は概ね「我こそが仏教の本家である」と言っているようなものですから。

これは一例であり、まぁ僕の理解が浅いのかもしれませんが、読んでいて所々「訝しさ」を感じる箇所がありました。

と、そうはいっても深く共感できる部分も多々あり、

「アルボムッレ・スマナサーラ」さんの「率直な意見」。そして「強々」とお話されている様子には時々「爽快感」すら憶えます。

激しく同意できる部分と、反面、訝しさを感じる部分、

極端な二面性を持ち合わせた内容でした。

結局「つまらないの?」「面白いの?」といわれれば断然「面白い。」

・「拝んでも意味はない」

・「危険な宗教に洗脳されない方法・見分け方」

・「ニセモノとホンモノの違い・見分け方」

等々、興味を惹く中見出しが目白押し。

そして非常に「読み易い」。

その点から、ターゲットとなる読者層は主に10代~20代に設定してあると考えられます。

それらの年齢層はそもそも「宗教に関心が薄い」ですから、「啓蒙」という意味で「この本」は、大きな役割を担っていると言えそうです。

というか内容云々とは別視点で、何より上述した如く「アルボムッレ・スマナサーラ」さんキャラがかなり「イケて」ます。

そのウィットに富む話の展開に「次へ次へ」とページをめくりたくなる「ワクワク感」を憶えます。

更に「あとがき」には、対談を終えたイケダハヤトさんが「何のために僕らは生きるのか」という哲学的な思索が追記されており、

「自分の頭で考える良いキッカケ」を読者に与える、素晴らしい内容に仕上がっていると思います。

kindle版で「390円」という廉価でお買い求めいただけますので是非。

ちなみにこの本は二部構成であり、これは前編。よってこの記事も、「前編」の読後感想。

まだ「後編」には着手しておりません。

ということで、「後編」の読後感想も後ほど、書いてみたいと思います。

それでは。

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『プロブロガー「イケダハヤト」さんが「仏教」を考える。【仏教は宗教ではない】を読んで。』へのコメント

  1. 名前:ポリ銀 投稿日:2015/12/14(月) 10:07:44 ID:7259958e4 返信

    宗教学や仏教学を哲学科時代に触れたことがあるので、非常に興味深く読ませていただきました。

    当時は顕正会でしたが、ニーチェの宗教批判がそのまんま顕正会にあてはまってて、痛快でしたね。また、中村元先生のブッダの言葉なんかも岩波で読みました。論語的な感じを受けましたね。

    日蓮正宗の流儀は、本仏とされる大聖人様のオリジナルと教え込まれていますが、色々と北伝ならではのミックスジュース的な部分が多いんですよね。

    紙の曼荼羅に書かれた文字にマントラを唱える修行をするのは、真言宗の阿字観行まんまですからね。しかも、密教は仏教ではなくバラモン教という説があります。加持祈祷は仏教ではないんですよね。天台宗では朝はお題目を唱えて、夕方は念仏だったとか。お題目は決してオリジナルじゃないですよね。

    植木さんの法華経を読んでいて、ずいぶんと漢訳は端折ってるんだなって感じています。

    宗教ですからある程度のところで、思考停止することも大切ですが、これほど混乱が生じている正系門家では、しっかりと学問をすることが大切なのかもしれません。

    • 名前:ミミ 投稿日:2015/12/14(月) 23:05:23 ID:d5c249f35

      ポリ銀さんへ
      こんばんは。
      ポリ銀さんの博学には思わず舌を巻きます(^-^;
      中国→日本の仏教の流れをみると、唯識などは決してご利益志向の教えではないことからも、日本仏教のオリジナリティが窺えます。
      そうですね、「信仰」ということを軸に考えれば、ある程度のところでの諦めは肝心なのかもしれません。
      法華経の読後感想楽しみにしてます(^^)