先日は内村鑑三の大著「代表的日本人」について紹介させて頂きましたが、
参照リンク→内村鑑三の日蓮観が秀逸。【代表的日本人】に選り抜き、その心は。
この書籍は内村の主観的な評価に基づいて、日本の偉人5名を主に海外へ向かって紹介する、といった構成で、いわゆる「自伝」と呼べるような性質は持ち合わせていません。
そこで本日は、内村がどのような経緯を辿ってキリスト教徒になり、
彼特有の「無教会主義」と通称される思想が、如何様な環境下で育まれていったのか。
彼の個人的な日記を基に、時系列を追って、心の機微や、事の成り行き、次第を綴った著作、
「ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか」
を紹介させて頂きます。
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Index
内村がキリスト教徒になった「理由」について。
まず注目したいのは本作のタイトルが示唆する、彼の執筆当時の胸中ではないでしょうか。
つまり「なぜ」ではなく、「いかにして」との表現から窺える述作の本意です。
このニュアンスから読み取れるのは、本作は彼のキリスト教徒になった「動機」や「理由」について説かれたものではなく、単純に事実や経緯を追って叙述した形式の著書である、ということ。
内村の人生のフェーズとして、あえてこの段階では、まだそういった信条や信念の核心に迫る内容について筆を染めることはしなかった。
実際に彼が先導した一連の運動の根幹を支える思想の独自的性質を「無教会主義」と称するようになったのは、当該著作を上梓した後のことです。
憶測に過ぎませんが、これは内面的にも対外的関係においても、未だその機が熟していないとの自己認識が内村の中にあったからかもしれません。
感化、実践、苦悩、挫折、葛藤‥、彼の思想体系は様々な経験の中で練り上げられていったものであって、論理的に整頓され、説得力を帯びた言説へとアウトプットされる段階に到達していなかった、
時期尚早との感が、本作のような形式に落ち着いた一因であったように思えます。
では一体「いかようにして」。
彼は「どのようにしてキリスト教徒になったのか」。
その事実的経緯を説明した一幕が著書の序盤に記されています。
この点について、うっかりしてると通り過ぎてしまう程に、彼は実にあっさりとした筆致を以て触れています。
以下に該当文を抜粋しておきます。
・十二月一日 「イエスの宗教」の門に入る。
と言うより、強制的に入れられた。つまり「イエスを信じる者」の誓約書に強制的に署名させられたのである。
実にあっけない。
あっけないけど、あくまで「きっかけ」ですからね‥。
本作執筆に至るまでの内村鑑三の略歴。
高崎藩士の七人兄弟の長男として江戸の小石川で生まれた彼は、
5歳の時に家族で高崎へと移り、10歳の時に地元の英学校で初めて英語を学び始めます。
その後、13歳で東京外国語学校に入学し、そこであの有名や「新渡戸稲造」また「宮部金吾」など交誼を結ぶことになります。
先の一幕は内村が16歳の時、札幌の学校におけるシーンですから、新渡戸氏や宮部氏とは、内村がキリスト教徒になる以前から親交があった、ということになりますね。
更にその後、札幌にて独立キリスト教会を創立し(21歳)
新島襄の紹介で浅田タケと結婚するも、すぐに離婚となり(23歳)
アメリカに渡航、日本での学校教員などを経て、
かの有名な「内村鑑三不敬事件」が取り沙汰され、日本を騒然とさせます。
当時内村は30歳、本作の完成を見たのは彼が「31歳」と時ですから、
本日紹介のものは「そこに至るまでの経緯」が叙述された自伝、ということになります。
苦楽を共に、かけがえのない仲間たちと内村の歩み
先に紹介したように、内村がキリスト教徒に「させられた」背景についてですが、
これは英聖公会から派生した教派であるところの「メソジスト」の教師による、生徒たちに対する圧力的な布教の空気に屈せざるを得なかったわけで、
とにかく内村の、当時、周囲の生徒たちが続々と洗礼を受ける中で、徐々にのっぴきならない状況に追い込まれていった、
半ば、不可抗力的な環境要因が内村の周囲を取り巻いていたのだと思われます。
しかし、なんやかんやで、元来より土着の神々に対しても信心深い性分だった彼は、まるでその必然性を匂わせるように、徐々にイエスの教えへと身を委ねていくことになるわけです。
札幌において、かけがえのない仲間達と、ときに喜びを共有し、またあるときには議論を戦わせながら切磋琢磨していく。
まるで、彼らの賑やかしい声が文面から耳を伝って聞こえてくるようですね。
十二月二十九日、木曜日
午後いっぱい多忙。夕暮れ前にすべて準備が整う。午後六時、集会が始まる。兄弟姉妹三十人が出席。S(札幌)におけるこれまででの最高の集会。全員が心情を吐露し、夜九時半まで、自由闊達に楽しく晩を過ごす。
(中略)
この夜、ぼくらが感じた喜びは、真に宗教的なものだった。この年は大成功の一年で、ぼくらが成し遂げた成果は小さくなかった。苦労の後の喜びは心地よい!(117・118項)
内村鑑三は少年期から信心深かった。
まだキリスト教の真髄など知る由もなかった少年期の彼は、一体どのような人物だったのでしょうか。
そのことを具さに窺わせる記述があるので、該当箇所を以下に抜き出してみます。
ぼくは信じていた。しかも心から信じていた。無数にある神社にはそれぞれの神がいて自分の領分を必死に守ろうとしており、戒律を破る不届き者にはかならず罰をあたえるのだ、と。
ぼくが最も崇敬し、崇拝していた神は学問と手習いの神だった。毎日二十五日にはしかるべき儀礼と捧げ物でその神を手厚く祀った。ぼくはその像の前にひれ伏し、書が上達しますように、記憶力がよくなりますようにと熱心に助力を願った。
それから稲作を司る神もいる。(中略)
カラスの紋章を持つその神は、人の心の奥底を見抜く神だった。(中略)
さらに別の神は、歯痛で苦しむ人々を癒す力がある。ぼくはその神にも祈願した。(中略)
ぼくはすべての神に捧げられる共通の祈りを考案し、もちろん、神社の前を通りかかったときには、それぞれの神にふさわしい特別な願いをつけくわえた。(中略)
神社がいくつも並んでいるところでは、同じ祈りを何度もくりかえすのがとても面倒だったので、遠回りでも神社の少ない道を選び、良心の呵責を感じることなく、祈りをくりかえす手間を省こうとしたものだ。(27~30項)
まさに多神教信仰の模範とも言うべき篤信。
内村はキリスト教徒として己を拓く以前に、遺伝的なレベルにおいて、宗教者としての素地、高いポテンシャルを有していたことが、上記の八百万の神への態度から認めることができます。
勿論、かくして内村は多神教の謳歌に‥とは続きません。この段落の最後は以下のように結ばれています。
しかしついに救いが訪れた。(30項)
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著作全体の構成
本書の大部分は、アメリカでの生活が舞台の中心地となっています。
キリスト教を思想の基底とする国への憧憬、期待といった理想と、不正や差別が跋扈する現実とのギャップに直面した内村は何を思ったか。
そんな動揺と幻滅の渦中で、それでもキリスト教独自の優れた性質というものを人々との関わりの中で見出し、
それらの要素が彼の確固たる信条へと昇華されていくプロセスが詳述されています。
更に終盤にに向けては、そういった環境に晒されながら、屈強に培われた彼のキリスト教への不屈の崇敬。「したたか」でありながら「しなやか」さを併せ持つ日本的精神が、典麗なる筆致を以て滔々たる独白として紡ぎ出されていくのです。
個人的にハイライトしたい文中における内村鑑三の名言。
ぼくは神なき科学は軽蔑するが、科学なき福音もあまり高く評価はしない。信仰は常識と完全に両立できるとぼくは信じている。そして熱意ある成功した宣教師たちは誰もがこのような感覚を豊かにもっていた。(333項)
次、
ぼくの知っているアメリカのクエーカー教徒の教授は、ぼくがキリストを目指す戦いにおいて克服しなければならなかった疑念や困難について語ったとき、どうしてそんなことになったのかよくわからない、と答えた。キリスト教はとても単純なものであり、「愛(LOVE)」というわずか一音節の中に収まるものだ、と彼は考えていたのである。わずか一音節に収まってしまっても、宇宙そのものには収まりきらない!なんとうらやましい人だろう。彼の先祖たちが彼の代わりにすべての戦いを戦い切ってしまったのだ。苦闘を知らずにこの世に生まれてきた、出来合いのキリスト教徒である。大金持ちの息子にはたたき上げの人の苦悩や奮闘は理解できない。同様にこの教授や同じようなキリスト教国の多くの人々には、ぼくら異教徒が「愛」の一音節の中に静かに落ち着くまでに、魂の中で戦い、どのような問題に決着をつけなければならないか、理解できないのである。(334項)
信仰と世事の狭間で身の振り方に苦慮を重ねてきた内村。そういった主体性と環境の摩擦によって錬磨され、構築された彼の「矜持」の片鱗が、上掲の所感から滲み出ていると思います。
厚かましいことですが、この気持ちは僕自身も大変共感できるものです。
異教は、キリスト教国でキリスト教だとされているものの多くと同様、道徳を教え、道徳を守ることをぼくらに説く。ぼくらに道を教え、そこを歩くことをぼくらに命じる。それ以上でもそれ以下でもない。ジャガンナートや幼児の生け贄などについては、ぼくらの言う異教から除外しておこう。それらは異教ですらないからだ。マモン崇拝や、幼児殺し、その他キリスト教国における恐ろしい行為や迷信がキリスト教でないのと同じことである。その点について、ぼくらは異教を公正かつ寛大に判断しよう。そして、最良、最強の状態で敵を迎え撃つのだ。
ためらうことなく言おう。キリスト教も異教と同じだ。つまりぼくらに歩むべき道を示している。それどころか他のどの宗教よりもはっきりと、まぎれもなくそうしている。キリスト教には他の信仰によく見られる人を惑わす狐火や人魂のような要素はまったくない。じっさい、キリスト教の一つの際立った特徴は、光と闇、生と死がはっきりと区別されているところである。しかし、誰か公正な裁判官にモーゼの十戒と仏陀の戒めを比較させても、昼と夜ほどのはっきりとした違いはすぐには見つからないだろう。仏陀、孔子、その他「異教徒」の教師によって説かれるような「人生の正しい道」を、もしもキリスト教徒が念を入れて研究すれば、それまでの自己満足が恥ずかしく思えてくるだろう。
中国人と日本人には彼ら自身の孔子の戒めを守らせるのだ。そうすればこれら二つの国は欧米のどの国よりも公正なキリスト教国となるだろう。キリスト教改宗者の中で最も優れた人々は仏教や儒教の本質的な部分を決して捨てていない。僕らがキリスト教を歓迎するのは、ぼくら自身の理想により近づくのに役立つからだ。
狂信者、「信仰覚醒運動家」(リバイバリスト)、見せ物好きの宣教師を喜ばせる連中だけが、かつての信仰の対象を火刑にしようと必死になる。「私はそれを廃止するためでなく、完成するために来たのだ」とキリスト自身は言っている(※304~306項)
まさに包括主義の帰趨、極致と称えるに値する見地だと思います。
まとめ。
多神教的アイデンティティと、一神教的価値観。
その性質を異とする情操のエッセンスを抽出し、統合する際に起こり得る、必然的なアレルギー反応を克服した内村の精神的気質と、その歩みが、今もなお多くの人々に勇気と活力を注いでいるに違いありません。
僕個人としてはここに「安心感」を加えたいと思います。
信仰を営む上で避けては通れない障壁。信仰に基づく理想傾倒と抑鬱のせめぎ合い。先にあるものを提示してくれている。
特定の教団帰属者はいわずもがな、たとえ「無宗教」を標榜する一般人であったとしても、
多様な信仰概念と触れ合う機会、その可能性が高まりつつある現代(例えばSNSの流布や外国人移民増加傾向の時勢を迎えて)という時局だからこそ、内村の思想を学ぶ意義も重層性が高いものと確信します。
内村の著作はまだ他にもあるので、また機会を設けて思索を進めてみたいと思いました。
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