約半年振りに筆を取った。
まず初めに謝意を表さなければならないのは、一昨日の段階で、明日新しい記事を投稿する予定だなどと仄めかしておきながら、実際は一日遅れるという僕の失態についてだ。
ごく少数の人達にではあるが期待を裏切るようなマネをしてしまったと思う。
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休活の言い訳と序文。
ところで何故?この半年の間、執筆の手を休めていたのか?
わざわざそういった僕の私情に対してまで気を掛けて下さる心優しい方というのは、恐らくごく少人数に限定されるはずで、この文章を読んでいる多くの人達にとって、そんなものはどうでも良い話かもしれない。
今年の4月、僕は住宅を購入したことに伴って、ローンの手続きや、新しい家具の物色、引っ越し準備等で、その応接に暇のない状況を迎えた。
その後も新居のDIY作業等が大わらわで、到底ブログに時間を割ける余裕などなかったのだ。
しかし、半年間丸ごとコミットしていわけではなく、タイミングを見て書こう、いや、書きたいという衝動に幾度も駆られていたのは事実だ。
文章が次から次へと脳内生成され、それは快適な入眠を幾度となく遮った。
こんな僕のような変り種はそうそうお目にかかる機会はないかもしれない。
「書きたいならウダウダ言ってないでさっさと書けよ」と。
ところが、得てして一旦腰を下ろしてしまうと、再起するのが非常におっくうになるもので、
これが僕の場合、次第に、普通なら考える必要もない余計な観念や、訳の分からない葛藤にすら苛まれていくのである。
この奇矯な心理状態についての言及は、改めて他に機会を設けるとして…
ただ、このままブログ執筆の一切を打ち切ってしまおうなどという考えは微塵もなかった。
「年が明けて来年くらいに書ければ良いかなぁ」と、
漫然とした意識ではあったが、水面下で僕なりに準備を進めていたのである。
・ブログのテンプレを有料のものに変更したり、(現在はsimplicityというテーマ)
・ブログのタイトルを変更したり(またかよ)
・挿絵として独自のイラストを挿入したり(既に身近で専属に書いてくれるアーティストと話がついている)
現段階で、直ちにすべてを実行に移せるわけではないが、とにかくこうやって止むに止まれぬ衝動に突き動かさせて筆を走らせている現実がある以上は、
つまり、その悠長な自分の態度に対して、いい加減嫌気が差してきたということに他ならない。
法華講への入信前から現在までの経緯。
余談は程々にして、本題に移っていきたい。表題の件についてである。
その前に、この記事を読んでいる方の中には、僕の素性や現在の立場について知らない方も多いはずだ。
ということで、内容を最低眼理解して頂くために、背景となる遍歴から追って述べていきたいと思う。
Twitterなどで絡みがあったり、懇意にして下さっている方はご存知かと思うが、僕は顕正会という宗教団体を7年間活動した後、教団を離脱、同時に日蓮正宗法華講に籍を置いた。
自分で言うのも何だが、講では熱心な組織活動を展開していた。
その最中、よんどころない事情、というより「事件」が発生。
ある日を境に一切、菩提寺、つまり自分の所属寺院を訪れることはなくなった…。
それより、二年の歳月が過ぎようとしている。
ただし、だからといって支部の方々と完全に没交渉になったわけではなかったし、
それよりも重要なのは、僕にとって、組織と離れることと、「信仰から離れる」ことは決してイコールではなかったという点である。
初めに、組織の側は決して「去る者追わず」という態度ではなかった点について述べたい。
僕はそんな彼らの善意を幾度となく辛辣な言い草で振り払ってきたのだが、
それでも節を屈することなく一途に「お誘い」のメールを寄越して来た「ある殊勝な人物」の存在があった。
元顕のキズナ?
その人物とは、先述した顕正会離脱とほぼ同時期、僕の紹介で法華講に移られた、同支部の男性のことである。
この方の熱烈なアプローチに対し、ただ「煩わしかった」などというまるで人情味の無い感情に任せて乱暴な言葉を吐く前に、
きちんと慎ましく感謝の念をお伝えしなければならないと思っている。
このことについて少し経緯をお話しすると、最初の段階では電話連絡をもらったりしていたのだが、
いかんせん相手は組織に追従する身、一方で僕は組織から離れ、自己流の信仰を営む身であることから、
次第に価値観の乖離が甚だしく亢進していったわけだ。
話の中で徐々に摩擦が生じるようになり、良好な関係は通話を重ねる毎にこじれ、崩壊していったのである。
しかし相手の、「何とか組織の活動に戻したい」という、揺るぎない信条に基づいた「熱意」はとどまることを知らず、
それは時に衝突を招き、口論にすら発展する始末であった。
「それではお互いのために」、ということで忖度してこちらから提起した案がこれ。
「メールだけは送ってきて良いよ。多分、返さないと思うけどね。」
というものである。
残酷なようだが、このままでは永遠に話の折り合いがつかないと判断したが故の、よんどころない結論であった。
それより、約束に準じて、御講や重要行事について日程やら意義やらについて詳細を送ってきていたのだが、毎度、全く興味をそそるような内容ではなかったので、
やはりこちら側も約束に準じて、全てスルーしていた。
するとどうだろう、
次第にそれは人格攻撃のような色を帯びてきて、もはやそれを読むことにすら苦痛を感じるような内容に変貌していった。
同じ支部の講員が、「あんたは精神病だ、器質的疾患を抱えている、社会不適合者だ、自立性がない」みたいな迷惑メールさながらの長文送ってくる…。お寺に行きましょうって趣旨なんだけど、気持ち悪さばかりが喚起されて、余計に固辞してしまう。なんで分からないかなぁ~。
— ミミとヨロリ (@mimiyorori) 2016年10月9日
まさにその内容ときたら、「こちらの反応が無いもんだから業を煮やして煽ってきているのか」と思わせるほど粗野なものであった。
しかし、冷静に考えれば、というか常識的に考えれば、それは到底賢いやり方とは思えない。
僕がそういうメールに対し嫌悪感を懐けば懐くほど、またお寺に対する心も加速度的に離れていった。
そして鬱積していた思いが、遂に一昨日、堰を切った。
宗教者ブロガーのファンダメンタリズム。
少し長くなりそうなので、数回に亘って今回の顛末を「メールのやり取りを掲載するかたち」で記していきたいと思う。
ただ初回に際して、これだけは申し上げておきたいのだが、
人間なので、こういうものを書いて、多少は溜飲を下げたいという心根というのも全く無いわけではない。
ただし、特定個人を貶めたり、辱しめようなどという「下品」な魂胆は出来る限り自分の中から排除したいものである。
相手を説き伏せて、勝利を宣揚することには何の意味もない。
というか勝ち負け以前に、そもそもこの一幕に対して、あくまで客観的な立場から観察した場合、「どっちもどっち」という感想を懐くのが恐らく自然だと思われる。
しかし、過去の僕のように、そして、どこかの教条主義的な人のように、
相手を下げて、自分の正義を証明するためだけにブログというツールを利用することはもうしたくはないのである。
なぜなら、組織に付かない僕が護るべきものなど「自分の信仰心」の他に何かがあるわけではないからである。
それに、ブログなんていわば日記だ。日記なのだから、ある時は備忘録であり、筆のすさびである。それ以上でも以下でもないはずだ。
そういう、当たり前の原点に立ち還る必要性みたいなものをずっと感じていた。
今回、わざわざ彼との文章の応酬を掲載するのは、恐らく、このまま彼と個人的なやり取りを続けていても、擦れ違いの程度を大きくするだけで、建設的な会話に成り得ないと判断したからであり、
つまり、彼に対するメッセージでもある。
メールで伝えきれない心の機微をこのツールを使って表現したい。
と、同時に他の多くの人に対しても、奇異かもしれないが、この僕の確固たる定見を開陳し、
全く新しい道を提起したい!
これは抑え難き信念である。
組織不要論の宣揚。
ズバリそれは、「信仰に組織は必要ない」ということだ。
表題に「拒絶」と書いたが、少しニュアンスが違うかもしれない。
僕の中で組織は「不要」なのだ。
組織と離れることで、僕は「信仰には必ず組織が必要」という教団の既成信条を完全に払拭し、そういった妄想の檻の中から完全に脱却することができたのである。
その細かい理由についてはメールの引用と並行して、都度、言及していきたいと思う。
それでは次回よりその顛末を追って見ていくことにしよう。
はじめまして、古き兎と申します。
私が思うに、神や仏というものは概念だと思います。
俗な言い方をすれば鬼や竜といっておとぎ話の存在。そういう存在がいるという設定。
もっというならば漫画やアニメのキャラと同列の存在でしょう。古くから語られている存在だから伝統文化のような形で祭り上げられていますが。
神は不死とは言いますが、それは概念だからに他ならないでしょう。
最も、完全に消す方法も無いわけではなく、その神を知る人すべてが後世に語ることなく消え、それが書かれた書物がすべて消えるなら完全消滅だと思います。
ここからは現実の話をしましょう。かつて釈迦は言いました。
「この世は色々なまやかしが多いけど惑わされるな、ただ因果のみを信じよ」
この一言に尽きます。因果とは原因と結果。種を撒かずに作物が畑に実ること無し。
大根の種を撒いた畑からじゃが芋が取れることも無し。
漫画やアニメのような不思議なことなんて何一つ起こらない。
ただすべてに原因と結果がある、それだけ。原因と結果を良く考えよう。
要約するならこんな所でしょう。
自分の歩いている地面をよく見て生きていくことが大事だと思います。
顕正会他、迷惑行為を行う新興宗教は原因と結果の一致しない嘘を撒き散らしているとしか。
あと顕正会の行っていることは明確に犯罪と言えることがあります。
それは「強要罪」と「住居不退去罪」です。義務のないことを強要し、明確に拒絶しているにも関わらず引き下がらないなら遠慮なく警察沙汰にしましょう、無差別に訪問してきて帰れといって帰らない場合も不退去の罪に問われる可能性があります。
長文失礼しました。