「やや日刊カルト新聞」に学ぶカルト批判の極意。「訴えられても勝つ文章」。

この本、すごく面白かったし、勉強になりました。

執筆者は、「やや日刊カルト新聞」(主にカルト問題についての記事を扱う、ニュースサイト形式のブログ)の元主筆を務められていた「藤倉善郎」さんという方。

最近まで、ブログの執筆を手掛けていたらしいのですが、現在は主筆の座を退いて「総裁」「創始者」と名乗っているようです。

カルト宗教は全般的にやや下火傾向の昨今ですが、とはいえ完全に消沈したわけはなく、依然社会にのさばっている息の長い教団もあれば、先般の寺社に油のような液体がまかれた事件で有名になった、キリスト系の某新宗教のような新手の教団も勃興してきているのも事実。

この本では、世間でも良く知られている、割と知名度の高い教団を中心に取り上げられているし、

2012年8月に発刊された著書ということで、情報としては比較的新しい部類に入るのではないかと。

本の裏面には、

体当たりで取材を挑み続けてきた筆者が語る、カルト集団との交流(笑)&暗闘記

と、この本の趣旨が端的に著されています。

以下、少々長いですが、カルト宗教批判の文章を書かれている方は、是非この記事を読んで参考にして頂ければと思う次第です。

珍妙なエピソードが凝縮された、ユーモア溢れる【2章】

「取材したらこうだった。」

との見出しで始まる「二章」では、表題通り、藤倉さんが実際にカルト宗教に潜入したり、取材して得た情報がありのままに綴られています。

どんなことが書いてあるんだろう?と期待を寄せてページをめくってみると、

「セックス教団潜入」…。

いやぁ、初っ端からぶっ飛んでます。

「セックス教団」とは、「ラエリアンムーブメント」という名称の教団のことで、

この団体が過去に催した「5泊6日」の合宿に、藤倉さんが取材目的で参加したときの内容がリアルに記されています。

ラエリアンの教祖は、フランス人の「ラエル氏」。

氏は、人類は、宇宙人エロヒムが遺伝子操作によって創造したと主張し、宇宙人を地球に迎えるための大使館をイスラエルに建設することを目的としているそうです。

そして教義の骨子は「フリーセックス」。

読んでいて僕は、世の中知らない事が沢山あるのだなぁ~と痛切に感じた次第です。

クレイジーな合宿体験談の次のお題は、

「自己啓発セミナー」

の取材レポート。

続けて、

「パナウェーブ研究所」

の現場に突入して取材を決行したお話。

更に、「上祐氏」へのインタビューや、

「幸福の科学」の教祖「大川氏」の実家周辺の現地聞き込み調査など、

名だたるカルト教団の裏情報が目白押し。

カルト教団からの「訴訟」という脅しに呻吟した経験談。

「三章」では、「親鸞会」に告訴され、やむなく警察署に出頭するハメになった藤倉さんの経験談が綴られています。

そして徐々に著述の内容は、実際にカルトと対峙し、場数を踏まれた経験者という立場から語られる、

メディア報道の実態や、著作権などの法律関連のお話にシフトしていく…。

藤倉さんのモットー「訴えられても勝つ!」

心に響きました。

「訴えられても勝つ!」

これは、何も挑戦的な意味合いではなく、

「カルト批判について文章を書くのなら、訴えられても勝つだけの根拠を備えよう。」

との趣意。

つまり相手にツッコミどころを与えない文章の書き方を目指す必要があるということだ。

では、具体的な方法について、適宜、著書からの引用を用いながら叙述していきます。

最低限の法律知識を

まず、批判記事を書く場合には、3つの「違法性阻却事由」を全て満たす内容であることを心掛けること。

一、公共の利害にかかわる内容であること(公共性)

二、公共の利益を目的とした表現であること(公益目的)

三、その表現が真実であることの証明があること(真実性)または、その表現が真実であると信じるに足る相当な理由があること(真実相当性)

これらを全て満たしていれば、「名誉毀損」を理由にカルト側が訴えてきても、理屈上は裁判に勝つことができる。

とのことです。

僕はこれを読んだとき「私憤」と「公憤」という言葉が脳裏に浮かびました。

団体の公共的な意味合いでの反社会性について指弾するならともかく、

特定の教団員をターゲットにいわゆる「人格攻撃」に至ってしまっているケースが時折見受けられますが、

個人的な「怨恨」を根本精神に特定人物を「なじる」行為は、

周囲からみても多くの場合、あまり気持ちの良いものではないはずです。

例えばこれをネット上で行った場合、大きな目でみれば「インターネット」の自体への品質の阻害というか、

情報社会発展の妨げになるという意味で、それがたとえ真実であったとしても、二の「公共目的」の項目に反する行為に相当してしまうのではないかと思うわけです。

カルト側の著作物を利用して文章を書く場合。

一、出典の明示

二、引用部分とそれ以外との明確な区分

三、評論のために必要な部分のみの引用

四、評論が主で引用が従であると言えるだけの内容バランス

これも必須項目ですね。

コピペで楽してはいけないということですね。基本評論であれば一部引用は認められているし、リンクもわざわざ相手に許可を取ったり、通知をしなくても(モラルとしてはともかく)勝手に貼っても全く問題ないので、

あとは、主たる「自分の文章」がしっかりと加えられているか。

つまり「オリジナルコンテンツとしての情報価値を有しているか」がポイントになるのではないかと、僕は思います。

ま、ここではバイラルメディアの存在は一旦除外しておきましょう。

取材も合法的に

やはり、相手がたとえ反社会的な集団だったとしても、

だからといって彼らにも人権があるわけで、それを無視した強引なやり口は認められないということですね。

カルト関係者との信頼関係

これは、執筆者の人格的な素養が問われる部分で、難しいところだと思われます。

とはいえ、人を情報ネタとして扱う以上、そこには必ず対人関係が存在するわけで、

そのことを無視して書き続けるのは、初めは経験則を元に、ある程度までは可能かと思われますが、

結局一定のラインで行き詰ってしまうのではないかと思います。

やはり現役さんや強力な情報筋の助けがあって、初めて良いコンテンツが生み出せると思うので。

この部分は僕の今後の課題でもありますが…。

本当に難しいことです。

やり取りの結果をネットにさらす

これはあくまで、フェアなやり取りをするために「公共の目」という力を借りるという意味。

また、

抗議が理不尽なものであればあるほど、その事実を公表することは、団体の実態を世に伝え、被害の予防を図ることにつながる。公共性・公益目的・真実性を兼ね備えたネタだ。

ということで、至って正攻法的な手段。

他人を頼る

最後、

表現活動をするにあたって孤立しない努力をしてほしい。

これは、執筆活動の醍醐味でもあると思います。一丸となってカルト批判をすることは、それぞれ若干、主義主張が異なることはあれども、あからさまに仲間を引きずり下ろすような行為はあってはならないと思います。(堅実な指摘は別にして。)

例えば、この「顕正会批判」の世界でも、法華講員として「破折」の立場で論ずる方と、無所属の立場で「経験談」を中心に執筆される方といるわけですが、皆仲間だと僕は思います。

批判をする立場の人たちが仲間割れをしてしまったならば、「あれは自界叛逆だ」などと、相手に付け入る口実を与えてしまいますからね。

学べることが盛り沢山。カルト批判の文章を書く人には「必携の書」です。

と、まぁ色々とエラそうに書き連ねてみましたが、そういう僕も、このブログにおいても「アウト」な部分は少なからずあると思います。

それら全てひっくるめ、過去記事の見直しと共に、今後の課題として掲げ、邁進していきたいと思います。

これはおべんちゃらでも何でもなく、この著書を読んで素直に藤倉さんへ尊敬の念を懐きました。

藤倉さんのようなライターを目指したいと強く思った次第です。

最後の最後に、最も心に響いた藤倉さんの一言。

「訴えられても勝つ」文章とは、ただ単に訴訟問題になるというだけではなく、読者に対して誠実でわかりやすい文章でもあるのだから。

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