【カルト】と聞くと、何か奇異で、怪しげで、且つ反社会的というイメージが世間では定着していますが、
元来の【カルト】という言葉が持つ意味は、現在とは少し違っていたようです。
「カルト」は、「崇拝」、「礼拝」を意味するラテン語 「cultus」から派生した言葉で、元来は「儀礼・祭祀(さいし)」などの宗教的活動を意味しており否定的・批判的なニュアンスは無かった。(Wikipedia)
また、マインドコントロールについて詳しい西田公昭さんは著書「マインドコントロールとは何か」の中で、
「カルト」おは、何等かの強固な信念(思想)を共有し、その信念に基づいた行動を熱狂的に実践するように組織化された集団のことをいう。「カルト」という言葉は本来は、儀礼、崇拝、熱狂などの意味をもつ英語である。それから派生して既成宗教の信者が、新宗教や異端的宗教を「邪教」としてのレッテルを貼る意味で偏見的、差別的に用いることがある。
と説明しています。
僕はこの西田さんの説明の中で、特に後半部分の方に重要性を感じています。
なぜなら、「カルト」という「言葉の先入観」にとらわれること
つまり「レッテルを張ること」によって、失われている「人権」が世間には沢山あるというのが事実だからです。
いわゆる「風評被害」みたいなもので、イスラム教徒の方々が、「ISをイスラム国と表現するのはやめてほしい」と声をあげたことに似ています。
「言葉の先入観」に支配されないためにも、特に日本人の場合、宗教について、もう少し深い理解が求められるのではないかと思っています。
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Index
「西洋と日本」「一神教と多神教」。日本人の宗教観が形成された歴史的背景。
西洋では、キリスト・イスラム教に代表されるように「一神教」の概念を基としてイデオロギーを形成しています。
「何か唯一つの特定の対象を熱狂的に崇め、信仰する」
という考え方は、既に教育の段階から、「常識的な感覚」として個々の信条に深く定着しているし
ライフスタイルにも密接に関わっているため、彼らはそのことに何の違和感を懐きません。
しかし一方、「日本」という国は、元来「多神教」の文化です。
様々なモノに霊が宿っているとする「アニミズム」という土着の思想に始まり、「八百万の神」は日本古来の基本的な本尊感です。
大陸から仏教が渡ってきたときも、始めは「鎮護国家」の思想として取り入れられ、
「個人の宗教」として広く伝播したのは、平安末期や鎌倉新仏教が興隆し始めたころからです。
ところが、「個人としての仏教」は西洋に比べ、特定の宗旨が突出して大きな勢力への発展を遂げることなく、
やがては江戸幕府を支える、いわば「まつりごとの道具」として利用されました。
林羅山によって、中国由来の儒教の思想は、「上下定分の理」という幕府公認の「似非朱子学」として変換され、
これを土台とする時代が背景となり、管理・統制下におかれた「個人としての仏教」は、統治者によって選択の自由を奪われ、抑圧され続けてきたのが史実。
日本式に変換された「仏教」が、日本式に変換された「儒教」によって利用されたというわけです。
「メリークリスマス」というのは「キリスト誕生おめでとう」という意味です。
ハロウィンも、一般的にはキリスト教の祭典と解釈されています。
カトリック教会で11/1に祝われる「諸聖人の日」の前晩に当たる日だと意義づけられているんですね。
つまり日本という国は、中国由来の仏教も儒教も、そして西洋の思想も、
排斥することなく、これらを「オリジナル」に変換して取り入れ、またこれらが「重層的」に堆積されたカタチで現在の「日本文化」を成し、「日本人のイデオロギー」を形成しているのです。
なので、「様々な思想を寛容に受入れ、自分たちなりの【オリジナル】として変換し、吸収する」
といった考え方が、一般多数の日本人としての思想のバックボーンなのであり、
これが日本における「既成の宗教感」として根付いているわけです。
で、西田さんの説明では、
「既成宗教の信者が、新宗教や異端的宗教を「邪教」としてのレッテルを貼る意味で偏見的、差別的に用いることがある。」
とのことでしたが、
上述した「日本人の既成の宗教観」という視点から「一神教」を捉えた場合、
「一神教」=「新宗教や異端的宗教」=「カルト」
と、得てして、このような具合に認識されがちです。
もう、何か一つの信仰を持つという時点でナンセンスなわけです。
日本人のこのような宗教観は珍しいのです。
世界ではキリスト・イスラム教信徒だけで半数以上を占めていますから、こうした日本人の宗教観は、逆に彼らにしてみれば奇異に映るはず、
そもそも世界からみれば、マイノリティーなのであり、それどころか「不可解」でさえあるはずです。
しかし現在、世界は「統合」されつつあります。
今後、様々な宗教観を持つ方と関わっていく機会は確実に増えていくでしょう。
多くの日本人が、
「一神教」=「カルト」=「蔑視」
という既存の思考回路を改め、「カルト」という言葉の持つ意味について、もう一度良く認識し直す必要性があるのではないかと思います。
特定の宗教を7年間信仰した僕が感じたこと。
なぜ僕がこのようなことを書くかというと、
世間的に「カルト」と言われる団体に身を置いてきた「約7年間」、周囲との関わりの中で、日本人の「宗教嫌い」という性質を嫌というほど実感してきたからです。
「カルト」というレッテルを貼られるだけで、人格的な意味での「僕」を見ずに、敬遠され、多くの人に人間性そのものを短絡的に否定されてきました。
まるで「蠅」のように振り払われることが常識化してしまえば、本人とのコミュニケーションの機会自体も失われてしまうわけで、
すると、対話を行ったり、互いの主義主張を理解したり、改善すべき点は改善しようなどといった、建設的な気運までもが失われてしまいます。(かといって彼らの「教義」や「教祖」を讃嘆するような内容の話に関しては、それについて他者が真剣に耳を傾ける必要はないかと思います。)
もちろん「顕正会」は札付きのカルトであることは言うまでもありません。
なので、そういった団体に所属していることが、イコール世間の信用を失っていた事実は自業自得であり、言うまでもありません。
しかし、それ以上に、「特定の信仰をしている人は気持ち悪い」という世間に蔓延する固定観念そのものが原因である、という可能性も否定できないはずです。
つまり僕に対する周囲の「気持ち悪い」というイメージは、
「顕正会が過去に数々の問題を起している反社会的な団体だから」
というよりも、
「何か特定の信仰をしている」
という、情報によって生み出された「先入観」だったのではないかと思うわけです。
事実、「あの人は何か宗教をやっているらしいよ。やばいから関わらない方が良いよ」
というカタチで伝聞され、その際「顕正会」というワードなど出てこないままに悪評が広まっていくわけですから。
レッテルを剥して、互いに尊重できる環境作りがまず重要では?
「マインドコントロール」されている人達は「尊重」を前提に置いた上で「キチンと話せば分かる人たち」です。
もちろん、一朝一夕では難しいですが、逆に彼らは「素直だからマインドコントロールされてしまった」とも言えるはずです。
「カルト」というレッテルを剥し、「先入観」を除外して彼らと向き合えば、良いところが沢山見えてくるはずです。
「一神教」を信仰しているから「悪」という、短絡的な思考パターンに陥っている人は、
今後グローバル化する社会に必ず遅れをとることでしょう。
「何か特定の信仰をしているというだけで、嫌がらせをしたり、軽蔑したりする、古い、稚拙な考え方はさっさと捨ててしまいましょう。」
宗教をやっているとかいないとか関係なく、
合理性や、道徳性によって判断するだけ。
ただ個人的には、不要な概念の為に、
差別としての争いが表面化するのであれば、
それらの概念は即座に捨て去った方がいいと思う。
概念が存在しなければ、差別も存在しない。
白人か、黒人か、所属国はどこか、
そんな下らないもので争うならば、
概念ごと捨て去っても問題ではないように思う。
個人を知るときに必要なのは、
その本人がどうであるかであり、
それを取り巻く環境では決してない。