「七色十色 *いつもココロに 顕正ライフ*」元総班長の叫びに万感交到る。

七色十色

今回紹介するブログは「七色十色 *いつもココロに 顕正ライフ*」 、「瑠璃堂みう」さんのブログです。

このブログは、「瑠璃堂みう」さんが、顕正会員として過ごした「12年間」と、「うつ病」を患った経験などをもとに、「無所属、そして顕正会OG(オールドガール)という立場・視点」から「顕正会」について語り明かす「啓蒙サイト」。

会が抱える諸問題について、「心の在り方」や「信仰」をテーマに深く按ぜられ、潜心熟慮の末に仕上げられた一つ一つの記事には、

まるで「魂」が宿っているかのような、「作品」としての重みと奥深さを感じさせてくれます。

豊かな感性と卓越した表現力から、ポエミーな文調を通して伝える「瑠璃堂みう」さんの切実な思いは、「現役顕正会員への真情溢れる手紙」のようです。

そしてなんとブログ歴は「10年」。最近のエントリーではウイットに富んだ、ユーモア溢れる投稿が多い傾向。

過去のエントリーでは、当時の心境が「生々しく」発露されています。

勿論最近の記事も良いのですが、僕は特に古い記事の方に魅力を感じます。これらは、一見、いや、じっくり読ませてもらう十分な価値があります。

ご紹介のため、部分的にピックアップさせて頂きます。

(※以下追記)

「七色十色、いつもココロに顕正ライフ」のリンク先トップにも案内がある通り、瑠璃堂みうさんのブログはエキサイトからライブドアへ移転致しました。

新設ブログのタイトルは「顕正会ノスタルジア」

初投稿に移転、新設に伴う理由やその心情、コンセプトなどについて述べられているので、該当ページのリンクを設置しておきたいと思います。(以下のバナーから飛べます。)

冴えた筆致でありながら、その文面からは読者に対する深い思いやりが伝わってきます。

扇情的でガサツな当方とはまるで対照的な性質ですね。

瑠璃堂さんが発信する情報の内容は普段からよく精査されており、Twitterアカウントも含め、顕正会関連ブロガー界隈では僕が最も信頼を寄せる書き手の一人です。

では、以下。本記事の主題に戻り、瑠璃堂さんの旧ブログについて紹介していきたいと思います。

信に破れ、信に救われし、わがいのち。

信に破れ/信に救われし/わがいのち。
2007年 06月 29日

信じなおす、とは生きなおすこと。
それは、過去から目をそむけずに、現実をしっかりと見つめ、
自身が得たもの失ったものを、世の中に還元してゆくことではないか、と考えているのです。

純粋に「信じる、とはどういうことなのだろう?」と考えさせられます。

そこで、以下はあくまで僕個人の所感に過ぎないのですが、

まず第一に。

「信じる」ということは、「自由」が保障されているわけで、

「自由」ということは「個人レベルでの権利を有する」と換言できるのではないかと。

次に「組織」について考えてみたいのですが、

これは本質として「信仰」とは切り分けて考えるべきかと思います。

初めに「信仰」があり、そこから「組織」が生じた。

つまり、組織とは「後発的」な存在ですから、

言い換えれば、未だ「組織」が生じる前段階においては、「信仰」は単独で存在していたことになりますね。

何が言いたいかって、要するに組織の存在に関わらずとも、「信じる」という概念だったり、あるいはそこに伴う営為についても、本来は「単独で認められるはずだ」ということなんです。

組織という複雑な人間関係に揉まれながら、教団が決めた規則、励行される行体に従って信仰を営むのも、大事な修養の機会かもしれません。

ただし、組織に唯々諾々と従う受動的な「信じる」スタイルより、かえってどこにも属すことなく自発的に「信じる」ということについて対峙する方がはるかに困難なことではないかと、

僕個人としては思いますね。

誰に認められることもなく、「己の信じる道をひた進む」というのは、なまじ半端な精神で体現できるものではありません。

そういう難事と真摯に向き合う姿の方が、実際に「輝かしい」という事実、

これを「瑠璃堂みう」さんはまさに証明しているのだと、

少なくとも僕にはそう映るわけです。

この意味で、瑠璃堂さんは大変魅力的な方だと思いますね。

「普通」と「異常」の境界線。

続けてこちらの記事です。

「普通」と「異常」の境界線。
2007年 10月 30日

おそらく元会員の中でも、「異常ではない」と述べているのは、私だけでしょう。
かりに法華講員、顕正会員、元会員であっても、個人ごとに意見が分かれる議題でしょうね。
①顕正会員は「異常」である
②顕正会の一部の人間だけが「異常」である
③顕正会員は「異常」ではない
(中略)
じつは、私が顕正会員に対し「異常」という言葉を使わないのは、意識的なものでなく、
ごく最近、溜まった原稿を整理している間に、ふと気づいたのです。
当ブログでこれだけ顕正会の誤りを細かく指摘している割には、
「異常」この言葉、使ってないよなあ、と思いましてね。
なぜだろう?
ひとつには、私自身が犯罪や貧困、病気や死という人間のダークな領域に接する機会が
多いためではないかと思います。手前の職業や経歴はご想像に委ねるとして、
人間が生きながらにして抱える複雑さやドロドロしたものの近くに住んでいますと、
その人の心にある悪や矛盾や愚かさは自分にもあり、条件さえ揃えば自分にも起こりうる、
まさに異常であって異常でないと思えます。
確かに、顕正会には法律に抵触する行為だけでなく、目を覆いたくなる疑惑や不祥事が溢れて
ますね。世間的に見ても、会員の行いや顕正会の姿勢は、まさに「異常」でしかないでしょう。
これらの愚行や歪んだ組織体制を美化せずに「異常」として認識し、訴えていく事は肝要です。
それでも顕正会には形式的な数値とはいえ、毎月、数千もの人々が入信します。
在籍中、私と同じような軌跡をたどる人もいるでしょうし、一歩間違えれば私だって
総合女子部長(ムリムリ!)いや、頑張れば区長にはなったかも(ハッタリ)。
私がたびたび会員の純粋さや生真面目さを語るのは、一連の不正不実を容認し擁護するに
あらず、この「異常さ」の裏側にあるもの、日常に転がる必然性を表現したいがためです。
ひとりの人間が、顕正会組織の中で、後戻りできぬ地点まで登りつめていく、
こうして日々、当たり前のように連鎖してゆく現象を「異常」の一言で包括して、
自分だけは安全圏かのように感じてしまうことに、抵抗を感じるのです。
じつに、顕正会の誤りを提唱し訴えていく為には、幾通りもの手段や方法があるのだな
と思います。

顕正会は外部からは罵倒の嵐ですが、元顕正会員にとってこれは普通に考えれば「過去の自分に対する罵倒」でもあるのです。

自分がそこの組織に属した過去があるということは、自分がそこに共鳴する性質を持ち合わせていたからであり、

更に、そういった性質、つまり心理的な「原理・原則」というのは、人間である限り、必ず誰しもが持っているわけです。

過去の自分の環境に対する「むやみな否定」はイコール「自己否定」なので、

特に、そういった思考や、行為というのは大変愚かしいものです。

「過去」と「現在」は異なるものではありません。現在の「自己否定」は自分の「未来」に対する「否定」でもあるのです。

過去の自分を「愛し、認めてあげる」ということができる「瑠璃堂みう」さんだからこそ、上掲のようなことが書けるのだと思います。

本当に感慨深い記事が盛りだくさんです。

また、それらの記事は多くの人に感銘を与え、同時に「救うコンテンツ」としての存在を確立していることでしょう。

ちなみにTwitterにも注力されています。

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