自分が所属していた教団に騙された。
詐欺に遇った。
費やした時間も、つぎ込んだ金も返ってこない。
当てどころのない憤怒。鬱積する憎悪。悪夢にうなされ眠れぬ日々。
でも本当は、そんなに苦しむ必要なんてないのかもしれません。
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Index
そもそも「宗教」って何だろう?
「宗教」。
この単語の語義はいつ成立したのでしょうか?
科学は昔からありました。
例えば「願掛け」などは、現代の文脈から考えれば、宗教的な意味を大いに含む行為ですが、
当時からしてみれば、これはれっきとした「科学」でした。
今、まさか天動説を唱える人がいるとは思えませんが、これも往時の段階では最先端の「科学」であったに違いありません。
さらに時代を遡れば「神話」も科学だったと言えるかもしれません。
元来、科学も宗教も世俗的な価値観も、隔たりなく、一貫した繋がりとして認識されていました。
分かり易くするために「分ける」。
「分ける」と「分かる」は同じ漢字を使いますね。
人の営為は、時代を追い、そのものをより分かり易く理解できるように、
頭の良い人達が先頭に立って、概念の分別が進められ、その度、利便性の上から、それらを統括する言葉が生み出されてきました。
では、「宗教」という概念はどのような目的で、いつ作られたのでしょうか?
宗教の語義の発生。
宗教。religion(レリジョン)。
これは日本が明治期に入り、近代化が進む中で発生しました。
勿論、それ以前にも「宗教」という言葉自体は、一応は存在していましたが、
それは、「その宗派の教え」として限定された意味合いしか持ち得ていませんでした。
しかし、西洋から「キリスト教」が輸入されたことで、
当初、日本にあった宗教の実存的な価値が初めて認識されることとなったのです。
そこで、もう一次元抽象度の高い概念の必要性に迫られた末、
「宗教」という言葉は、より多様な信条を含めた、包括的な意味を込めて、使用されることとなったのです。
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「騙された!」という人の特徴。
特定の宗教に、自身の生活を踏み倒してしまうほど傾倒してしまう人は、
どのような特徴が挙げられるでしょうか?
その一つに、
「そもそも宗教的知識が乏しい。」
という要素を指摘することができると思います。
宗教の持つ性質に対する理解が甘かったため、
他を知らないがゆえに、自分がたまたま出会った宗教を唯一絶対のものだと信じ、
そのまま馬車馬の如く、活動にコミットしてしまう。
大抵、カルトにはまってしまった人は、帰属の教団のドグマにはやたら詳しいのですが、
他の宗教には疎いのです。
表面的に教相を理解していても、
自宗の優位性が前提にあるので、バイアスのかかった、批判的な見方しかできないのです。
他を積極的に受容していくことで、明確に。
「他」を知ることは、「じぶん」の再認識に貢献します。
「じぶん」を理解するためには、他を積極的に受入れ、認めていく過程が必要不可欠なのです。
他の思想の深い部分を、ありのままに受容する中で、
自分の持つ思想、曖昧だったイデオロギーなり、アイデンティティーが、ハッキリと明確・具体化されていきます。
更に、そのことが洗練されてくると、次第に余計な「被害意識」が削ぎ落され、取り払われてくるのです。
「騙された!」「奪われた!」
確かに、実際失ったものは多いのかもしれませんが、得たものだって少なくないはず。
「他」の存在は、自分が過去に信仰してきた「宗教」に内在する豊潤な意義を、明らかにしてくれるのです。
「騙された」ばかりではないはずです。
主体性をもって熱烈に「信仰」していたのはあなた自身であり、それ自体は素晴らしい行いなのです。
奴らは、悪意に満ちていて、全てを奪い、搾取するだけの存在だったわけではないはずです。
あなたは、本尊を定め、自己の宗教性を日々錬磨し、自分と真剣に向き合う「場」を享受していたに過ぎず、
それは、何も「間違っていた」わけではないのです。
こんなコミュニティーがあったら良いな。
今や情報化が進み、勿論、僕もその恩恵を受けている中の一人ですが、
SNSやブログなどを通じて、他宗教の方と容易に繋がりを持てるようになりました。
またそういったツールを積極的に利用することで、得られる「知」は計り知れません。
そんな中で、様々な宗教を信仰していた過去を持つ人々が、
もっと気軽に交流できる、宗教的カオスなコミュニティーがあっても良いと思います。
カルト宗教被害者に向けた社会的支援の法整備も勿論重要であり、
そういった被害に対する理解が社会に浸透していくことは大いに望んでいます。
しかし、それ以前に、やはり本人のマインドの問題、外的より内的な損傷を治癒するため、
そういった場が設置されることも切望しています。
まずは自分の気持ちをオープンにしていくことが大事ですよね。
顕正会被害者に限らず、どうぞお気兼ねなくコメントをお寄せ下さい。
宗教・・・神や仏など、人間を越えた絶対的なものを信仰し、それによって、安心・幸福を得ようとする働き(三省堂・新明解漢和辞典)
人が宗教を求める一番の理由は自分の幸福のためだと思います。
私も一時ではありますが、顕正会にどっぷりはまっていましたので。
楽しかったころは顕正会こそ正しいと思ってましたから。
考えていると、幸福を求めて入ったところで”見てはいけないところ”を見てしまったために「ここは、間違っている」「騙された」と思い込みやめていく。
私もその一人です。
結局は、被害者と決めつけるのは自分自身ですから・・・
顕正会に限らず、日蓮正宗や創価学会でもそうでしょう。
私が日蓮正宗の門を叩いたのは、日蓮聖人の教えの中にその答えを求めているからです。
答えを見つけるのにあとどれだけかかるのやら。