約十年前、著名なベルギーの法学者、故ラブレー氏の家で歓待をうけて数日をすごしたことがある。ある日の散策中、私たちの会話が宗教の話題に及んだ。
「あなたがたの学校では宗教教育というものがない、とおっしゃるのですか」とこの高名な学者がたずねられた。私が、「ありません」という返事をすると、氏は驚きのあまり突然あゆみをとめられた。そして容易に忘れがたい声で、「宗教がないとは。いったいあなたがたはどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」と繰り返された。
そのとき、私はその質問にがく然とした。そして即答できなかった。なぜなら私が幼いころに学んだ人の倫(みち)たる教訓は、学校でうけたものではなかったからだ。そこで私に善悪の観念をつくりださせたさまざまな要素を分析してみると、そのような観念を吹きこんだものは武士道であったことにようやく思いあたった。
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上掲の一節は、新渡戸稲造の著書「武士道」の冒頭部分だが、有名な作品なので読んだことのある方は多いと思う。
言わずもがな、この大著によって日本人の道徳観念を広く世界に理解せしめた新渡戸氏の功績は多大であり、
その偉業は100年もの歳月を経た今でも、全く色あせることなく、その書を開く者に深い感銘と教養をもたらしている。
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Index
今日は倫理について語りたいんだよね。
本来なら法華講員とのメールやり取りを連載形式でお送りしていたはずだが、ちょっと書きたいことがあったので一時的に中断したいと思う。
さて、本題に入る前になぜ僕が上掲の一節をあえて麗々と掲げる必要があったのか、について説明しなければならない。
先般Twitterの一部界隈で話題が持ち上がったが、加わった論客も少なく大して建設的な議論に及ばないまま消沈してしまった「あるテーマ」について、
今回改めて個人的な所感を記す前に、「この問題にはらんでいる最も本質的な部分」について深い示唆を与えてくれるものと信じ、あえて抜粋に及んだ次第である。
倫理と道徳の違い?
「道徳」と言われて具体的に説明を求められたとき、あなたは何と解答するだろうか?
道徳と近似の語義を持つ単語に「倫理」という言葉がある。
ではこの二つの単語を並べて、その差異を問われたら…。
恐らく、多くの方は即答に窮するのではないだろうか?
同一視しても問題はないと思われるが、あえて私見を述べると、心の内面の有り様を規定する社会一般の徳目という意味では両者は共通しているが、道徳は自意識の領域であり、一方、倫理は他者からの視点によって定義される事柄ではないだろうか。
つまり中身はほぼ、というよりかは全くといっても良い程同質のものを指しているわけだが、要は、「内か外か」という視座に相違点を見い出すものと解釈ができるのではないかと思う。
樋田昌志さんは「やり過ぎ」か?倫理的に大丈夫なのか?
序文だけで千字も使ってしまったので、いい加減本題に入りたい。
前述の「テーマ」とはズバリこれだ。
日蓮正宗信徒の御遺体の様子を動画撮影したものがYouTubeに1コンテンツとして上がっている。
動画の公開から約4年が経過しているが、現在に至るまで何と3万回以上も再生されている。
グッドが29回、バッドが59回。
う~ん、あまり評価は芳しくないようだ。
この動画の投稿者のアイコンに、界隈では有名人物である「樋田昌志」さんの御顔が映っていることから、一部日蓮正宗信徒や関わりのある無宗派論客の間で、
「やり過ぎではないか」「倫理的に大変悩ましい。」「常識を弁えていない、布教とはいえ出過ぎた行為だ」
との旨の意見が浮上した。
察しの良い方であれば、この時点で僕がこれから言いたいことの凡その見当はついているかもしれないが、しばらくお付き合い願いたい。
議論のきっかけとして。
先に添付したものが、多くの人々の眉をひそませる映像であることは十分理解している。
また、この記事を読んでいる、いわゆる常人の生活圏に流布する、ごく一般的な倫理観に照らし合わせれば忌避されて当然ともいえる動画であって、その事実に異論があるという方はそう多くはないはずだ。
しかし、倫理観とは一体何なのか?そもそも、どのように形成された観念なのか?
という視点から、僕は動画内容に対する問答無用の否定派意見にセカンドオピニオンを提示したい。
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倫理の普遍性と多様性。
「人を殺してはいけない」というのは、ほぼ全世界共通の倫理観といえるだろう。
ところが、「なぜ?」という理由を迫られると、そこには様々な意見が存在している。
「当たり前」過ぎて改めて考える機会すら希薄なこの問いについて、試しにネットで調べてみると、多種多様な意見が台頭している事実に驚かされる。
この混沌とした意見の林立は一体何を物語っているのだろうか?
案ずるに、この解は即ち、人々のアイデンティティやイデオロギーに依拠するものであり、
まさに、一生かかっても到底あずかり知れない次元の、多様なアイデンティティやイデオロギーが渾然として世界を構成している途方もない現実に思い至るのである。
キリスト教倫理。
キリスト教の中にも多様性があるが、ごく一般的な解釈としてキリスト教における神は「絶対的所有権」を握っている。
人間は神の創造物であれば所有する一切の権限が委ねられていて、同じ人間をあやめる行為は、神の御意志にもとると考えるのである。
下手な例えをして要らぬ誤解を招きたくはないのだが、例えば、主人の下で働く同僚を、同じ立場の同僚が勝手にクビにして良いか?と言えば、
無論、主人の意思によって雇用された人間であれば、主人の許しの無いまま、そのような越権行為は禁物である。
もし勝手に追い出したともなれば、後に主人から「罰」を蒙ること必定だ。
ただし異教徒は「隣人」には含まれなかったから、血生臭い歴史が残っているし、また皮肉なことにその禍根をあえて蒸し返そうとする輩さえいる。
倫理と宗教の密接不可分な関係。
現在常識とされていることにも、「起源」または「経緯」といったものが厳然と存在している。
勿論、アブラハムの神が世に出現する前から、もしくはその教えの流布に及ばざる間の地域でも、まだ体系的呼ぶには心もとない程度における倫理が存在したはずである。
社会があるところ倫理がある。社会があるということは人がいるということ。人がいるということは、そこに倫理の萌芽があるということだ。
徐々に独断的所見の色が濃くなっていくので、誤りがあれば忌憚なく異議を頂戴したい。
思うに、人の集まりたる社会は「上下」の関係を抜きにして全く構成し得ない。
更に、基本的にどんな原初的な生活基盤を持つ段階においても、「宗教的営為」の痕跡が広く見られるという考古学的事実があることが確認されている。
では倫理とは、その形成過程において、「上」の更に「上」との関係というものを、果たして一切閑却せずにいられたであろうか?
僕は全くそうは思わないのである。
「上の上」たる存在がその全てを規定したとは言い難いし、勿論、そんな極論を提唱するわけではない。自然法という考え方があることも承知している。
ただし、宗教が倫理の成立途上に対し、補完乃至、強化という絶大な寄与をもたらした事実は否定できないはずだ。
つまり宗教的営為が必然的に伴う土壌の中で倫理が形成されたのだから、その体の中にも自然と特定の宗教的要素が組み込まれていて当然なのだ。
倫理のカテゴリー。
現在、一口に倫理と言ってもいくつかのカテゴリーを包含している。
例えば「職業倫理」。
医者であれば「ヒポクラテスの誓い」にその基底を求めることができるだろうし、
ジャーナリストという奇特な職業倫理を持つジャンルも存在する。
彼らは必ずしも「遵法」に対して100%誠実ではないし、一般的な倫理からの逸脱も辞さない覚悟で仕事に臨むケースもある。
例えば「壁耳」である。そう、国会議事堂に耳を貼り付けて、中でどのような議論が行われているか、要は「盗み聞き」し、場合によっては情報を我先にと伝播するのである。
そして、主題に照準を戻すと、次は「宗教倫理」という項目について触れていくことになる。
宗教倫理から一般倫理。
先日、インドで牛肉を食べたものが村の人たちによってリンチに遭い、絶命したとの事件が報じられたが、実に象徴的なものである。
こういったローカルなものも含め、各宗教毎の教義に基づく独自の情操が限定的な領域において有効性を発揮するのである。
しかし先に見たように、倫理は宗教を起源、乃至、強化のファクターとして体系化されてきた。
この意味で、社会倫理もその根幹において「宗教倫理」を母体とし、その性質を多分に有しているといっても過言ではないと思うのだ。
しかし、それではなぜ一般的、社会倫理と宗教倫理に大きな乖離があるのだろうか?
それは多様な宗教倫理をまたいで見出せる社会的合意、あるいは宗教倫理から摘出される普遍性を帯びた観念が「社会倫理」へと昇華されていったと考えるのが自然ではないのだろうか?
ということは、特定の宗教倫理は一般的、社会倫理へと変貌する本質を宿していることになる。
にも関わらず、
ただ「倫理から逸脱している」といって排外的行為に及ぶのは、やや安直ではないか。
そんな違和感を個人的に懐いたのである。
対立意見が相克する中に「止揚」がある。
しかも重要なのは、その昇華する過程を彼らは熱烈に信じているということだ。
とはいえ、これは果たして「是」なのか。つまりそこの信条の領域を踏まえると、これは本当に難しい問題だと思う。
だからこそ批判があって良いし、それも必要なことではないだろうか?
ただし、そこに議論の蓄積が伴わなければ、批判者の徒労に終わってしまうし、
批判された側も無責任ということになってしまうではないか。
何だか取り留めのない感は否めないし、長々と書いた割には脆弱な理論だと思う。
この言説を根拠に是とするのはあまりにも強引過ぎるし、執筆した僕自身も先程「違和感」と書いたが、「いいんじゃないの」寄りというだけで、やはりグレーなのである。
しかしこういう氷山の一角を放置してきちんと対処する姿勢すらみられないならば…正直、日蓮信仰の教団営為に未来は無いよなぁ。
ここまでで既にかなりの長文になってしまったが、次回、「布教方法の合理性」という観点や、今しがた述べた「議論の必要性」について触れてみたい。
続編はこちら→日蓮正宗の宗教倫理の独自性と、布教の非合理性について。
(※追記 当記事公開から約半年後。動画に映っているご本人の生前の信仰態度や、葬儀までの顛末、動画公開後の反響などを樋田さんが一くさり語ったコンテンツがアップされてました。以下。)
動画がアップされた当時、身内の法華講員からも
批判の声があがっていました。
その画像は長野妙相寺門徒の方のだそうで、いちおう
了解はとってあるそうです。
しかし、社会的に許容されているかどうかは別で
不謹慎だという声が多数ありました。
樋田氏がなぜ一般人の亡くなられた方の動画を
アップしたかといえば、御書に成仏された方の相
というものが説かれており、日蓮正宗の信仰の
正当性を示すために、ご遺体を写し利用したのです。
この当時の妙相寺住職は後に客死されましたが
その葬儀の次第や住職の「死相」はアップされる
ことはありませんでした。