引き続き、支部の法華講員と僕とのやり取りを追って見ていきたいと思う。
前回はやや僕の方が挑発的だったかもしれない。が、そこには話の主軸からぶれまくる相手の返信に、やきもきしていた心的要因が深く関係し、反映されていた。
自分の方からメールをしてきて
(しかも人格否定じみた内容を何度も送り付けたりしてきた過去も踏まえて)
まともに対峙しようとしない、どこか逃げ姿勢とも取れる態度を改めてほしかったのである。
そして、返信を待った。
ちょっと言い過ぎてしまったかな?と思った。
遂にメールが返ってきた。
SPONSORED LINK
日蓮正宗に戻るか否か?
日蓮正宗には戻らないということですか?
ん?
それを言ってはお終いだろう、あんた。
これは、僕はもう「日蓮正宗信徒ではない」という前提のモノ言いだ。
冷静になって考えてもらいたい。
法華講40万(50万くらいになったのか?知らないけど。)などと仰々しく標榜しているが、実態はどうなのだ?
普段お寺に通ってる信徒などほんの一部ではないのか?
登山から足が遠のいている信徒だって、それなりに存在するだろう。
その人々は「日蓮正宗信徒では無い」のだろうか?
しかし、彼の認識の中では、これらの人々は教団の外に置かれた存在なのかもしれない。
勿論、相手は「そういう意味で言ったのではない」とも言うかもしれない。
ただ僕としては、この信徒条件の「基準」について一家言あるので今回は主にそのことについて詳述したい。
教団構成員の条件。
明文化された基準がない限りにおいて、信徒であるか否かのライン判定は個人によって差異が生じてくる。
御授戒を受けたら日蓮正宗信徒という人もあれば、定期的に折伏をしていなければ信徒ではないという原理的、教条的な定見を持つ人も少なからず存在するはずだ。
僧侶盲従タイプは、全ては指導教師たる住職の裁量に基づく、と答えるかもしれない。
しかしここで世界に目を向けてみてもらいたい。
もしキリスト教圏で、教会に属していないからという理由で、個人がキリスト教的なアイデンティティを持っていても、その人間を指してクリスチャンではないと断定できるだろうか?
例えばドイツでは、「教会税」というものがある。あそこは義務段階で宗教教育もあるし、国政と多くの部分で密接な関わりを持っている。
しかし近年では、多くの若者が経済的な事情から、教会税を払いたくないという理由で、教会の所属から離れている状況があるようだ。
ただし、「結婚式」だけは教会で挙げたいから、多くは結婚までの間は我慢して教会税を払い、既婚者となるなり、さっさと離脱するという時流があるらしい。
では果たして、教会離脱者は「非クリスチャン」だと断定的に言い切れるだろうか?
僕は如何なる信仰も個人主義に帰結するべきものと思っている。
他人が他人の信仰を「評価する」などという行為は、とりもなおさず「信仰」の本来的に有する価値に対する否定に他ならない。
だから自分の意思決定以外の何者にも個人の信仰の在り方や是非を規定する権利などないはずだ。
更に序文の方でも触れたが、彼にとって教団の「内側の人間」と見なす多くの人達であっても、そこには想像を絶する多様性が存在していることから目を逸らしてはいけない。
「お寺に定期的に通うか通わないか」を以て教団の内と外と分ける罫線を引くのであれば、それは人為的に後付けされた、実に浅はかで恣意的な尺度であって、大聖人の信仰とは何の関係もない。
大聖人よりも「御寺様」を上位に置くというのは、いわば教団義認説とも言うべきか、
ただ、それについて熟慮し覚知することは、確かに彼の言う通り、教団の中にあっては容易には成し得ない。
つまりマインドコントロールという言葉は己の状態をよくよく省察してから使わなければ、猿の尻笑いみたいな話になってしまうことをよくよく肝に銘じておくべきだろう。
SPONSORED LINK
置かれた立場を踏まえよう。そして相手の心情を汲もう。
とにかく、まぁ、あまりテーマから逸脱してはいけないので、ここで閑話休題としよう。
僕は、戻る、戻らないの二者択一的な問いに、言葉を失ってしまった。
上記に示した様な、自分の考えを開陳しても良かったのだが、それ以前に、
「黒か白か」みたいな相手の極性的な思考にガックリきてしまった。
そもそも、なんで今更頑張って進めてきた会話を、わざわざ初期段階まで遡らなければならないのか…。
文脈理解出来ますか?
こう返信した。
そもそも僕は相手に対して好意を懐いていない。
ずっとスルーしてきたのだ。そこを大前提に踏まえてほしい。大上段に構えられると引いてしまうのだ。もう少し、この会話に際して自分の置かれた状態を認識してほしい。
それに「お寺に行きたくない」という心情を汲み取ってもらった上で、何か僕の食指が動くような話題を提起してほしい。
「行きましょう!」の連呼はとっくに聞き飽きている。
そして一番の問題は、なぜ相手はかくも一所懸命、しかもかなりテクニカルに僕の不快感を煽りまくっているのか?ということだ。
人に不快感を与えるプロだ。達人だ。
目的は何なんだ。
一緒にお寺に行きたいんじゃないのかオマエは…。
そして返ってきた内容が以下。
再噴火。
智者、学匠となって地獄ですか?
私は屁理屈は要りません。
やるべき普通の信心が出来ない人の身ではやはり軽いんです、ミミ君(注、僕のこと。)の言葉。顕正会の人と違わないくらい、どうでもいいことに聞こえます。
儚くも、自分をお寺の信徒のもとへ連れていくならば変わるものです。
「自分の言葉」と書いてありましたが、私は自分の言葉で伝えてます。もしそう思えないなら、私のことを勘違いしているのでしょう。どんなことがあっても大事を選び信心を続けることが出来ている人と軽く去っていく人の差、距離だと思います。この信心をしていると、『法華講員の心得』のP.26~27に書かれているようなことは本当に学べるものです。
もし、人と会って普通に話すことが出来るようになったら、楽だし、有り難いと思いませんか?
もし、まだ顕正会の物を取って置いてあるなら、是非全て処分することをお勧めします。折伏の為であってもです。
ぱーん。
僕の頭を構成する一部分である何かがはじけ飛んでいった。
何から突っ込んでよいかわからないほど、ぎこちない箇所が満載だが、
それは次回へと譲ることにしよう。
続く。
はじめまして。
元顕正会員です。
さて、
相手の話にいらっとくる。
みたいですね。
多くの場合、自分自身に原因があることが多いと思います。
相手に何かを指摘された場合、正しいことであっても、間違っていることにしろ、全く気にしていないことを指摘されたところで、特に感情的になることは、少ないと思います。
何故だかいらっとするのであれば、それは、自分自身の問題であることがほとんどだと思います。
相手に言われてイライラすることほど、良く考えて、なぜイライラするのか、自分で分析してみる事をお薦めします。
自分が、なぜ顕正会に洗脳されてしまったのか、そして、いまだにそれを引きずっていることなど。
自分は被害者であるという思い込みを一度捨てて、自分自身を見つめ直してみることをお薦めします。