では前回の続き。
(※参照リンク 組織との関係を拒絶し続けた法華講員の心に何が起こったか?)
今回は早速、メール本文の掲載に付随させる形式で、僕の心情を切々と綴っていこうと思う。
ちなみにどちらが作成した文章か一瞥して判別できるよう、文の表記に着色を施した。
青が彼。緑が僕だ。
それでは参りたい。
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最高に陳腐な彼のファーストメッセージ。
先の11月9日、僕のメールボックスに以下の様なメッセージが届いた。
御講には参加して下さいね。信心の基本です。
以上。
補完されるべき前後の文章は無い。唐突に、たったこれだけの内容である。
本来ならばこの「号令」は、御講に参加する意思が多少なりとも確認できるような人物に向けられるべき内容だろう。
参加を辛うじて予定する本人も、承知してはいるのだろうけどもサボる可能性が懸念される場合に
「わかってるよね?」
みたいな、リマインド的な意味合いで送り付けてきたのなら話はわかる。
しかしながら、そもそも僕はかれこれ一年余も連絡に一切応じていないわけで、
その筋から考えれば、「御講への参加」という行為に対して、根本的な、甚だしく深い疑念を懐いていると推知できて然るべきなのだ。
如何にも白々しい態度であるが、実をいうと、こんなのは既に慣れっこだった。
文脈の欠いたどうでも良い文章を僕のメールボックスに粗雑に投げ入れてくる、それは相変わらず修養を微塵も窺わせない彼の陳腐な常套手段だ。
いつもの如くスルーしようかと思ったが、今回はたまたま返信をしてみようかな?という気になった。
理由を問われても良く分からない。
向こうの御祈念が功を奏したのだろうか?
いや、多分本当に、たまたまだ。
そして以下の様に返信した。
基本とは何ぞや?
なぜ「基本」と言えるのですか?
ここは質問で返して出方を見るのが定石。
勿論、暫時とはいえども熱心に活動をし、ある程度日蓮正宗の信仰に造詣のあるこの僕が、
宗の教義に準じた最もティピカルでスタンダートな解答を把握していないはずがない。
だからといって、イジワルで言ったわけでもないのだが、
要は、連絡を断って以来それなりの月日が経過している。ここは一つ、「その間、相手は信仰から何を学んだのか、いっちょ試してみよう」との心理がはたらいたのだ。
さて、秀逸な解答は得られるだろうか。
薄っすらとした期待を寄せるも、次の瞬間、
それは見事にぶち破られた。
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噴火。
同じお寺の講員と会う大事と、大聖人様に対する御報恩を表す機会と。
日蓮正宗の行事は車の駆動だと思って下さい。常にドライヴしながら成長しています。
旦那さんと違って奥さんは能動的・主体性のある信心をしています。とてもとても貴重な縁です。とても強いつながりだと思います。だから、日蓮正宗と常につながっていてほしく思います。あなたが信心しなければ、周りは着いてきません。
なぜ妻が引き合いに出されるのか…?
疑問符が僕の前頭葉を埋め尽くした。
妻と彼にも交誼があったのは確かだが、それはもう僕と彼以上に過去の話だ。
彼が、現在の妻の信仰行態や信仰に対する所見については明らかに知るべくもない。
ところが本文には「~のある信心をしています。」と、
現在進行形で記されているではないか!
実は僕の知らないところで妻が内密に彼と連絡をとり、平素から信仰を謳歌する会話を弾ませていたのだろうか?
それとも、彼は他の誰かと勘違いをしているのだろうか?
色々な思慮が脳内を駆け巡ったが、しばらくして僕は、彼の頭の中に何かが湧いているのだということに気が付いた。
ここでテーマからやや脱線するが、僕の妻のことについて少し触れておきたい。
妻は僕よりも数か月前に顕正会から法華講に移った。
僕が顕正会を辞められた背景に、実は、誰よりも妻の尽力があってこそ適ったという事実がある。
勿論、現在顕正会破折に力を注いでおられる「セロリさん」や、菩提寺の住職も、僕の顕正会への執心を断ち切るためにお力を添えて下さった。
だがそれ以上に妻の功績は多大であったと思っている。感謝の極みだ。
主体的、能動的とは?
話を戻そう。
百歩譲って、前述の突っ込みどころについては大目にみようではないか。
しかし、最も肝心な台詞は以下である。
「旦那さんと違って~主体的、能動的な信心をしています」
違って?
僕がカチンときたのはここで、のっけからやってくれるなオイと思った。
どうしてこんな口から出まかせが吐けるのか、「謎」を通り越して、憤怒がふつふつと湧き上がってきた。
僕が主体的、能動的な信心をしていない?
こちらとしては、それはむしろ貴方だと言いたい。
彼は組織に就いているわけだから、態度として、程度に関しては分からないが、とにかく僕よりは「受動的」なのは否定できないだろう。
勿論、主体的、能動的に組織に関わっているのかもしれないが、少なくとも組織の意向や、先輩、朋輩から何がしかの影響は受けることになるはず。
それは即ち「従属的」、更には「隷属的」な態度へと通じていくのである。
そうだ。ブログを書こう。
そもそも現在何を考えているのかすらも全く把握できていない人間と比較して、「貴方はこうだ、だから駄目だ」と、大上段で評価を下す神経に腹が立ったし、
これ以上何を言っても無駄だと、僕は心半ばに覚った。
しかしその憤怒には、単に自分のコンプレックスを喚起させるような性質以外の何かがあった。
それはある種の「義憤」に通じるようなものであった。
僕は組織から「逃げている」わけではない。
あくまで「主体的」に、決然とした態度で組織を遠ざけているのだ。
ひとかどの意見をしかと持ち、それを貫いているに過ぎないのである。
今ひたぶるにキーボードを叩いているが、この時の情動が全てのきっかけを作ってくれたといっても過言ではない。
僕が言いたいのは、「信仰」はそんな単純な、形式的な、狭義な、限定的なものではないということだ。
細かい話は追って述べていくとして、今回は一旦ここで切ろうと思う。
次回へ続く。
なるほど…。
彼の文章を読むと上から目線というのが気になりますね…。
それはそうと、最近私は「育成とは講員さんのモチベーションアップに尽きる。」と、こう思っております。
御住職様と講頭さんの最大の仕事は講員さんのモチベーションを如何に上げるか…、これを徹底的に考えそして実行するか…、これなんではないでしょうかね。