破折にこだわる人達は皆、「正しさ」の刑に処されている。

近代哲学の巨匠、サルトルは言いました。

人間は自由という刑に処せられている

自由の刑とは!?

一神教の世界観では、神が全てを「目的があって創造された」と考えます。

「人間」についても同様。神を象って作られた、神による産物。

一神教圏の内外で、生命倫理上の価値観で対立が生じているのは、この思想に起因しています。

しかし、サルトルは、

人間は、「何等かの目的があって創造されたわけではないのだ」と、考えました。

すると人間には与えられた目的、目指すべき目的が生来的に「無い」ということになります。

ところが、これは非常に大変なことでして、

人は何かに従属している方がはるかに楽なのです。

「脳」は楽を求めるように設計されていますから、あえてこのことに抗うのは正直しんどい。

しかし、人間はこの世にオギャーと生まれたときから、人生の目的は自分で決め、力強く生きていかなければならない。

逆風の中、負けないように足腰を鍛え、強固な主体性をもって歩んでいかなければならない。

だからサルトルは、自由であるがゆえに生ずる、この避けて通れない人生の苦難を、

ズバリ「刑」と、表現したのですね。

如何に行使するか。

とはいえ、「自由」は大いなる可能性でもあります。

その性質をどう引き出すかは、そのことを「行使」する人間の主体性に委ねられていって良いでしょう。

「宗教」は人に、

幸福感をもたらし、

知識を与え、

誠実さや、謙虚さを養い、

協調性を育み、

人間がもつ潜在的なパワーを存分に引き出してくれます。

しかし一方で、人を殺人鬼に作り変える「凶器」の性質も持ち合わせていることは、

オウム事件などで周知の通り。

どっちだって良いよね。

ある「ばーちゃん」と「孫」の会話。

ばーちゃん。「このみかん美味しいねぇ」

孫。「いや、ばーちゃんそれバレンシアオレンジだから。ヾ(ーー )ォィ

ばーちゃんにとって、それはみかんでもオレンジでもどっちでも良いかもしれません。

ばーちゃんは少し学習しました。

ばーちゃん。「このバレンシアオレンジ美味しいねぇ」

孫。「いや、ばーちゃんそれネーブルオレンジだから。ヾ(ーー )ォィ

ばーちゃんにとって、それはバレンシアオレンジでもネーブルオレンジでも、

ミネオラオレンジでも、ブラッドオレンジでも、何だって良いかもしれません。

ばーちゃん。「これ美味しいけど、ネーブルオレンジかぃ??」

孫。「いやっ、ばーちゃん!それポンカンだからっ!ちょっとは学習しろよゴラァ!!(゚Д゚)ゴルァ!!

とうとうキレる孫。

別に怒らなくたっていいよね。

そもそもばーちゃんにとってそんなことどうでも良いんだから。

その「正しさ」に実利性はあるのか?

なんか「法論」というものを見聞きする中で、

「その仏法スゲ――!やるやる!やっぱり間違ってたわ俺!」

って展開に至った事例を確認したことが皆無なんですよね。

どの宗教も「矛盾」は必ず抱えているものです。

だから、「間違っているものは信じるに値しない」

という考え方がそもそも矛盾しているわけで。

大体100%理解していない状況で「正しい」と言い切るとか、

分からない部分を「正しい」と仮定した「希望的観測」に過ぎない。

「多分正しいと思う」とか、「正しいと信じる立場を取っている」

ならわかるが、

破折にこだわっている人たちは、あくまで横車を押すように「正しい」と断定的に言い張る。

人を一発で諭せるような、宗教的素養に富む人格者で、

尚且つ、本当にそういったことを朝飯前にこなせるような実力があれば別ですが、

多分「自分のところこそが唯一正しい」という考えに固執する段階においては、

到底、そのレベルには到達できないのでしょうね。

「正しさ」を実利的に行使する。

自由も正しさも、

もし用途を誤れば、本来的に持つ良い性質の面が阻害されてしまいます。

「自由」の行使において、もし程度が過ぎれば、それは社会に迷惑をかけてしまう事態へと繋がる。

「正しさ」というのも、相手との関係を決裂させてまで行使するものではないと思うのです。

組織が一丸となって、真剣に何かに取り組む行為は楽しいものですし、それは僕も少なからず経験がありますが、

そういった行為が本当に自分や組織にとって大きなメリットがあると言えるのか?

他を否定することが、返って自分の心を虚しくさせてはいないだろうか?

自由の過度な行使が、返って自己の自由を奪うように、

正しさの過度な行使が、返って自己の「正しさ」の否定を招いてはいないだろうか?

絶対的な「正しさ」など存在しない。

時間に支配されたこの次元では、仮に正しいことであったとしても、それは一時的であって、同じ瞬間というのは二度とやってきません。

次の刹那には、そのものに対する価値も定義も変遷している可能性が大いにあり得るのです。

「言葉」というのも、発言者の意図した役割を真に果たすのは、その瞬間に限られます。

諸行無常。移り変わる「空」という概念はその「正しさ」をも包括していることを忘れてはならないでしょう。

更に、普遍的な「正しさ」というのは、どうしても「主観」を払拭できないわけで、

それは本人の世界観からの知見による、極めて限定的な価値観でしかありません。

一隅の管見。主観的な視点から論じられた「客観的」、それは即ち「主観」なんですよ。

そんな曖昧なものに固執することによって、宗教の実利的な側面を阻害してしまっている。

「破折」に拘泥する人の姿を見ていると、まるで何かの「刑」に処されているのではないかと思うことがあるのです。

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