少し時間が空いてしまったが、法華講員とのメールのやり取りの続編をお送りしたい。
前回はまさに、のっけから爆撃(誤爆?)されたかのような内容だった。
(参照リンク→法華講員から届いた「御講」参加を促す陳腐なメール。)
建設的に会話を期待した矢先、相手方の方から思いもよらぬ先制攻撃を打たれてしまったのだ。
舌戦の幕開けである。
こちらも一年余前に締結した不可侵条約など一顧だにせず、止む無く開戦に乗り出す姿勢を固めたのであった。
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どういう料簡なの?
それ全然「信仰の基本」についての説明になってませんね。
能動的、主体的ではないというのはどういう意味でしょうか? 心外ですね。会話をする姿勢とは思えません。
前回記事の後半部分と内容がやや重複するが、
とにかく、彼は「信心の仕方」について僕に説教を垂れてきた、という事実には相違ない。
人によって、まして「組織の決め事に従順な信徒同士」なら歯牙にもかけないことかもしれないが、僕の場合これはどうしても聞き捨てならない。
冗談抜きで、とてつもない不快感をもよおした。
実はこのメッセージを受信した前日には、故、愛猫の「ヨロリ」の祥月命日だったので、弔意を込めて御本尊に勤行、唱題をあげたばかりであった。
少し話が逸れるが、宗門の中には畜生類の葬儀と聞くと難色を示す住職さんもおられるそうだ。
僕の所属寺院の住職さんは、猫だからといって決して軽率にあしらうということはなかった。
蔑ろにしないどころか、受け入れ難い現実に打ちのめされた僕たち夫婦の深い悲しみを精一杯共有しようと努めて下さったのだ。
この意味で、僕が日蓮正宗の批判の声を向けているのは、ちっぽけな私憤にとらわれるが故の、いわゆる幼稚な「仕返し」の根性で発しているのではない。
あるいは嫌悪でもない。「好き」の対義は「無関心」なのだ。
法華講の現役活動家諸氏には、このことを是非ともご理解頂きたいと思う次第である。
御本尊と故愛猫の密接不可分な関係。
それに僕は普段、基本的に勤行をしていないが、だからといって信仰心を喪失したわけでは決して無い。
振り返れば、愛猫ヨロリがまさに生死の狭間を彷徨っているときほど御本尊に向かってあれ程真剣な題目を上げたことはなかった。
こちらがあまりにも必死になって祈念するもんだから、もしかしたら、あの時ヨロリの魂は肉体から離れるとそのまま「すぅっ」と、御本尊に吸入され、御本尊の一部として包摂されてしまったんじゃないか、
そんな感覚が、今もなお濃厚に僕の「宗教的リアリティー」として、その触媒たる御本尊から強く喚起される。
厨子を開いて中から御本尊が出てくると、反射的に、その奥にヨロリの存在を見てしまうのである。
いわゆるペットロス症候群と呼ばれるものの近似の症状なのだろうか、「揮毫した本人」の真意を尋ねれば、それは純真な「日蓮大聖人」への信仰ではないと僕を窘めるかも分からない。
しかし、ヨロリは、「あの御本尊の中」にいるのだ。というと唯物的なある種のこだわりの様ではあるが、これは形而上の話である。
しかしながらそうである以上仕方がないし、僕はそこにある「縁」に従って人生を歩みたい、自分の心の内にまで嘘をついていたら、終いには自分が誰だかわからなくなってしまうではないか。
会話の軌道修正。
というわけで、僕には僕なりの、拙く、そして偏狭かもしれないが確固とした信念があって、生活の中に「信仰」を見い出している。
それがどういうものかを確認せずに唾棄する彼の態度というものは、個人的に非常に受け入れ難く、また、そのような扱いを受けて平静を保っているのは僕にとって難儀なことでもあった。
それに、質問の趣旨である「基本」について、「それは寺に来ることだ。」「御報恩はこういう型に則ってやれ」との程度が過ぎる形式主義と、頑迷で知性の欠片もない物事の単純化思考は、
全く価値のない商品を会社が用意したままのテンプレに従って売り込もうと近寄ってくる冴えない営業マンみたいで、例えば不動産投資の若いアポインターの様に、「ところでなぜ貴方自身は不動産投資やらないの?」みたいな核心を突く問いを投げかけると、全然関係のない話を始めてお茶を濁そうとするような、
根底にある欺瞞と、入社したてて自分でもまだ何だかよく分かって段階にありがちな柔軟性の欠如が見え透いているような、
そんな姿と重なるようで、彼の台詞には全然説得力がない。
しかもそういう会話の手法が染み付いて自覚のないレベルに到達した人間というのは、まるで転轍機の名手のみたくなって、乗客をいつの間にか途方もない場所まで「本人の気付かない」うちに連れ行くスキルを体得しているから気を付けて対話に臨まなければならない。
従って、軌道修正が求められる。
こちらは納得のいく説明を求めているのであって、その解答が得られない場合、残念ながらもう一度トライして頂く他無いのである。
だから説明になってないと一蹴した上で、率直な心情を乗せてメッセージを送信した。
するとこう返ってきた。
だめだこりゃ。
お寺の行事に参加することから始まります。
日蓮正宗の信心の基本です。
続けて。
信徒の恩は重いものです。
もうだめだこりゃ、と思った。
「お寺には行かないよ、行きたくないからね。」と言っている相手に、
“お寺の行事に参加することから始まります。”
しかも、信心の基本の説明として不十分ですよ、との指摘に対して。
“基本はお寺の行事への参加です。”
もう一度言う。だめだこりゃ。
前回の受信メールに遡れば、「同じお寺の講員と会う大事と、大聖人様に対する御報恩を表す機会」
との内容であったわけだが、前者はあえてお寺という場所に限定しなくとも実現可能なわけだし、同じ理屈で後者についても、その機会というものは日常の中で十分に見出せるはずだ。
例えば神社に参拝するのは、「そこに」神がいる、という信仰概念に基づくからである。
しかし、大聖人に関しては何も「お寺」という場所に住み着いているわけではない。
神仏習合の日本ではどうもそこら辺の縦分けが曖昧のまま、無自覚に渾然たるものを純然たるものとして誤認識しているケースが多いのだが、
「常住此説法」という教義に準ずる以上、どうやら仏というのはお寺に鎮座しているものではないらしい、という事ぐらいは薄らぼんやりと理解できるはずだ。
また仮に、「坊さんに会うため」だとするならば、外に対する積極的なアプローチをなおざりにしている坊さんなど、出家の本分を弁えない、怠慢に堕した姿であり、
辛辣な評価を下さざるを得ないのである。
あるいは、そういうタイプの出家者も中にはいるかもしれないが、僕のような箸にも棒にも掛からないひねくれものをわざわざ説き伏せる為に多大なリソースを投下するより、
あいつは一闡提だというレッテルを張って、反面教師にせよ、と内部指導の材料に使う方が余程合理的であることは言うまでもない。
とりあえず、これで返信に窮してしまった。終わりにするのは容易いが、もうこの時点で記事に起こそうと決心していたので、もう少し言質を頂いてからにしようとの考えがはたらいた。
とはいえ、現状を把握していない人間と比べて貴方はこうだ、だから駄目だ、とか
問いに対して適切に返答しようという気が無い態度から、不快感がはらわたの中で煮えくり返って横溢して表面張力の臨界点を突破して噴きこぼれた次の返信の内容が以下。
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テンプレじゃなくて自分の言葉で語ってくれ!
脈絡のない言葉を繰り返されても困ります。僕たちは過去、顕正会を脱して法華講へと移る際、それはもう愚鈍で、稚拙な顕幹部達の対応に辟易致しましたが、
今の貴方の様はそれらを凌ぐ低品位です。一生懸命「自分の言葉」で話そうとする顕正会総支隊長補の〇〇さんや、組長の〇〇さんの方が余程立派でした。法華講という組織はかくもそこまで思考の退化、劣化を招くのでしょうか。あの時、お寺を離れて正解だったと、胸を撫で下ろしています。
仕事の合間を縫って作製した文章なので日本語がおかしいところがあるが、そこは御了察願いたい。
最後の一文は特にそうだが、これは全て本音だ。
「お寺に来なさい」という口調は正しく組織の意向をそのまま投影しただけだし、
なぜ「組織と繋がっていてほしい」のか?
そこを補う文言が彼の文章には見られない。
勿論、テキストのやり取りなので、多くをいっぺんに伝えることは困難なことだろう。
ただ、逆を言えば、強調して欲しいのはその部分だし、そういう意味おける「自分の言葉」でお願いしたかったのだ。
次回へと続く。
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