最近にわかに流行ってるこれだけど、浅井先生のご指導を聞いてる顕正会員にしか見えない。 pic.twitter.com/6Q7kF52iNZ
— ミミ(ヨロ) (@mimiyorori) 2017年9月19日
全国津々浦々で日々激しい勧誘を繰り広げている顕正会員ですが、これはまともな人が見れば到底理解し難い奇行の様に映るかもしれません。
彼らは彼らの信念、信条に従って一生懸命活動に励んでいるわけですが、その突飛な言動から、
「こいつらバカなんじゃないの?…」
といった所感を懐く方も少なくないはず。
と言うことで、今日は一体彼らのどんな側面が人にバカっぽい印象を与えているのか?
更に、会員達はなぜその様にバカっぽく振舞ってしまうのか?
元会員の筆者が、考えられる主な原因を3つ上げ、詳細を解説してみたいと思います。
SPONSORED LINK
Index
浅はかなことを上から目線で、あたかも訳知り顔で諄々と諭してくる。
まずはこれですね。
「幸運になる方法知ってるよ、君にも教えてあげようか?」
「日本はあと数年で滅びるよ。その根本原因をみんな知らないから平和そうな顔してるけど、僕たちだけは知ってるから危機感を持っている。今日は君にそれを教えてあげようと思うんだ」
「世の中では釈迦が仏だと言うことになってるけど、実はもっと偉くて力のある仏様がいるんだ、今日はその仏様の存在は君に教えてあげようと思ってね」
等々、例に顕正会員が良く使いそうなセリフを3つ程上げてみました。
果たして本当に彼ら全員が上記の様なおこがましい発言をするかどうかについては、中には謙虚な会員もいるので何とも言えません。
ただ口に出さずとも、全般的に態度がその様である、というのは事実です。
大抵、顕正会員が勧誘する際には、「目的を告げない」まま、半ば強引に飲食店などに呼び出して入会を迫るわけですから、
呼ばれた側は、「やり方が汚いな」と思うのは当然ですし、何か「侮られてる」、「ナメられてる」様な感じがして、悲しいやら頭にくるやら、
とにかくそんな不意打ちを食らって気持ちの良いはずがありませんよね。
この点に関しては次の項目で詳しくお話しします。
話を戻して、なぜ?彼らはそこまで自信満々に、どうでもいいような馬鹿げたことを、恥じらいもなく得々と人に向かって話すことができるのでしょうか?
彼らのボスである浅井会長をリスペクトしてるのは分かりますが、それは個人の思想の範囲内に留めておけば良い話であって、それだから偉いとか凄いとか優越感を醸し出しながら自慢げに人に説く様な行為など、常識的に考えれば慎むべきです。
まるで自分達が有している知識が世間のどの様な学説よりも深く、優れていて、お山のてっぺんに立って下界を見下ろしている様な論調なのだから驚きです。
そんな高慢、且つ不遜な彼らの言動ですが、実はそこには教義的根拠が存在しています。
以下、彼らの教科書とも言える「折伏理論書」(※旧版)から、その規範的信条の説示に該当する箇所を抜き出してみます。
折伏(勧誘)を行ずるに当たっては大勇猛心を持たなくてはならない。たとえ相手が社会的地位のある者であろうと大学者であろうと、こと仏法に関しては無智なので有るから、仏の使いとして臆することなく、仏法を説ききる勇気が必要なのである。(中略)
あくまでも仏の御使いとして一段高い立場に立つべきである。(中略)
忘れても三毒の大衆と対等の立場に立って相争う様なことがあってはいけない。(中略)
仏法をあなずる者に対しては、師子王の気魄を以ってその驕慢を打ち砕かなければならぬ。また仏法の邪正を決する法論等においては、「法華経と申す大梵王の位にて、民とも下し、鬼畜なんど下しても、其の過(とが)有らんやと意得て宗論すべし」との仰せのままに、大声叱咤して邪法を破折する気魄を持たねばならない。
そもそも、彼らはハナっから対等な立場で話そうという姿勢ではないことがお分り頂けるかと思います。
普段おとなしいタイプなのに、こと仏法の話になると突然活き活きとしてくる、なんていう顕正会員の姿をあるいは見たことがあるかもしれません。
これは錯覚しているのです。顕正会という世界で生きている人間の特徴です。
仏法の話になった途端に、たちまち自分の立場が上位になったと思い込んでいるのです。
バカっぽく見えるわけです。
人を嫌な気持ちにさせているにも関わらず、察しようとする心がない。
百歩譲って、上記の壮大な勘違いはまだ許せるにしても、彼らの可愛げがないというか、やはりバカっぽく見えるところとして上げられるのは、人を嫌な気分にさせておきながらも全くお構いなしに勧誘を続けてくるところです。
まともに考えれば、勧誘対象に嫌われてしまったら彼らの企ても失敗に終わるわけで、
もし機嫌を損ねてしまったのなら、反省の色を見せるとか、フォロー入れるなりすれば、少しは「また耳を傾けてあげても良いかな」となるのが人情というものだったりすると思うのですが、
勧誘に遭われた方は、「そんな人の心の機微も理解できないレベルで本当にバカだなこの人たちは」と、思っているかもしれません。
もちろん顕正会員も人間ですから、「あぁ、激しく嫌悪感示してるなーこの人は」と、その認識はあります。
ですが、「それならそれで良い」のが、実は彼らの勧誘のセオリーなのです。
もう一度、彼らの教科書とも言える「折伏理論書」(※旧版)より、その理由について教示されている箇所を引用してみたいと思います。
たとえ反対しようとも、逆縁下種といって、相手の生命にはすでに仏種が下されたことになり、いつかは正法にめざめて成仏するのである。
「当世の人、何となくも法華経に背く失(とが)に依りて地獄に堕ちん事疑いなき故に、とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓(どっく)の縁となって仏になるべきなり」と。
この仰せのごとく(中略)堂々の折伏を行じようではないか。
つまり、彼らは例え相手が嫌がっていようとも、勧誘し続けることが相手にとって為になる行為だと信じているわけです。
なので一見すると、わざわざ嫌われるような言動取ってバカだな〜(まして彼らは全世界に顕正会の教えを広めることを目標に掲げている)と思うかもしれませんが、
実は、そこにも彼らにしかわからない世界があったのでした。
にしても、迷惑ですよね。
セクハラやパワハラのように、新たに◯◯ハラと名前が付いても良いくらいの社会問題です。
無謀。社会の中で生きる人間としての自覚があるのか?
3つ目に顕正会員がバカっぽく見える最たる理由として、何度も何度も逮捕事件を起こしているにも関わらず、それでもまだ性懲りも無くお店の中で勧誘したり(外で勧誘したとしても、声を掛けているのはお店の中ですから、店内の時点で既に勧誘を始めていると言えるでしょう)、未成年を半ば強引に会館へ連れて行ったり、同じことを繰り返していて、全然学習しない点でしょう。
皆、社会の共通ルールの中で生きているのですから、布教活動もその枠組みの中で収めなければいけません。
ところが、同じ過ちを繰り返している彼らの行動パターンからは、そういった自覚が欠如しているように思えてなりません。
これは実際に欠如しています。
厳密に言うと「軽視」しているのです。
しつこいようですが、ここでも彼らの教科書、「折伏理論書」(※旧版)の中から、その裏付けたる記述を拾ってみます。
「罰」というと、人の悪行に対して仏が下す懲らしめや制裁のようにとらわれがちだが、そうではない。罰とは、法に背くことにより自らが招く不幸あるいは不利益のことである。
ゆえに法があれば、背けば必ず罰がある。そして、法には大小・浅深があるから、罰もそれに応じて大小・浅深がある。例えば、国家の法律などは人為的な浅い法であるが、背けばそれなりの報いがあり、また自然の摂理に反して不摂生をしたり、栄養が偏れば、病気を招く。(中略)
そして背く法が深くなるに従って、その反動たる罰も大きくなる。(中略)
仏法はあらゆる法の中で最も深く根底の法である。(中略)
よって仏法に背けば、他のいかなる法に背くよりも大きな罰を受ける。(中略)
そして”法は不知を許さず”という。意識するとしないとに関わらず、知ると知らないとに関わらず、仏法に背けば大罰を招くのである。
以上、顕正会が社会のルールを軽視してしまう教義的根拠です。
顕正会のルールの方が、社会の法律よりも上位なのです。
エピソード
ここで一つ、僕がまだ現役会員だった頃のエピソードをお話します。
ある保育士である会員の話なのですが、これは総会で発表されていた、この方自身の布教活動の内容です。
といっても問題の要点は絞られていて、この方はなんと、自分が担当する園児たちに顕正会のお経を勝手に唱えさせるよう教育していたのです。
無垢な園児たちは最初は興味本位でやってみたものの、だんだん習慣化してきて、他の園児たちにもその波紋が及び、現在(その当時)多くの園児たちが参画しているとのことでした。
僕は当時上役に、義務ではないにしろ教育の場に宗教を持ち込んでいるのはおかしい。ルールを逸しているのではないか。
といった旨の、疑問を投げかけたところ、その上役の反応たるや「全然おかしいと思わない。君の信仰心は曲がっているのではないか?」
と、軽くあしらわれてしまったことを良く覚えています。
SPONSORED LINK
まとめ
少し長くなりましたが、以上、彼らが人にバカっぽい印象を与えているであろう側面と、その其々の信条の根拠です。
最後に、どうしてもお伝えしたいことがあります。
それは顕正会に入って活動することで思考力が退化することはあっても、もともとバカだったから顕正会に傾倒してしまったとは限らないという事実です。
カルトの活動のせいでバカになることはあっても、バカだったからカルトの活動に傾倒してしまったとは限らない。
オウムで上がってくるような議論が顕正会では無視されてるってのは例えばそういった点。— ミミ(ヨロ) (@mimiyorori) 2017年9月9日
オウムなどは高学歴者が多かった事実もあり、一概に判断力の問題で片付けてしまうのは早計かと。
MCは心理操作の体系立った技法であり、被MC者の知性的、理性的な優劣とは切り分けて考える必要があると思います。
むしろ理性的な人間である方が毒牙にかかりやすいです。— ミミ(ヨロ) (@mimiyorori) 2017年9月9日
また、現在は情報技術が発達していて簡便に客観的事実を知り得るインフラが整っていますが、それはここ数年の話で、一昔前は余程の情報強者でない限り、そういった他者の知見を得るのも困難でした。
なので時代性も考慮すべきかと。— ミミ(ヨロ) (@mimiyorori) 2017年9月9日
終末思想に魅力を感じてしまう人はある種社会に対する諦念や厭世感を懐いているわけで、その要因としては社会、経済背景から生育環境に至るまで様々。
そこすっ飛ばしたら建設的な議論にならない。— ミミ(ヨロ) (@mimiyorori) 2017年9月9日
例えば身近に顕正会に傾倒してしまった人がいるとしましょう。
それはただ単に判断力がなかったから、バカだったから、顕正会に引っかかってしまったのでしょうか。
そう短絡的に考えるのは簡単です。
しかし、その背景には、必ずその本人が抱える深刻な問題があるはずです。
ミクロな問題だけではなく、あるいはマクロな問題が前提に潜んでいるかもしれません。
これは浅井会長一人が退けば解決が図れる問題ではなく、もっと抽象度の高い大きなテーマなのだと僕は思います。
もちろん信者と接する際、直接的にはそこまで壮大な視座を持って対峙する必要性はないのかもしれませんが、それでも問題に絡む周辺事情を知る知らないでは、その対応の仕方にも大きな差が生じるはずです。
常に広い視野を持ちたいものです。
【エピソード】における上役の台詞にはゾッとしました。さながらホラー映画のようです((((;゚Д゚))))
顕正会員特有の、世間の常識よりも浅井教の教義を優先する異常さに気付けて本当に良かったですね。