さて、いよいよ大詰めである。この投稿を以てこのシリーズは最終回としたい。
前回の内容はこちら→法華講を辞めさせたい?メール内容が示唆する彼の真意と画策に迫る。
彼のメールの文面からは、およそ、その「表向き」の目的とは甚だしい乖離がみられる。
昔の顕正会の指導で「元本の無明」というものを対象者の心の中から引き出すことこそが善行である、みたいな話があったが、その体現なのだろうか?
いずれにせよ、それは折伏の手法における一形態であって、「門内摂受、門外折伏」の宗内原則に照らし合わせれば、立場を同じくする信徒に向かって破折屈伏というのは道理に適わない。
では「彼の目的は他にある」との考えに帰結させるのがこの文脈では妥当ではないだろうか。
その目的は前回お伝えした通り。
つまり、彼は僕がいつ法華講を辞める宣言をするか、これを今か今かと待ちわびているというわけである。
勿論、まだ確認したわけではないので推論の域を出ることはない。
ということで、メールを長引かせること自体に大した意義はないので、率直な質問をぶつけてみて、もしこれが外れであればこれ以上応酬を続けても仕方がない、いい加減お終いにしようと思った。
そして、返ってきた答えが以下だった。
勘違いです。ミミ君(僕のこと)に去ってもらいたいと思うことは有り得ません。これが「差」とか「距離」というものです。表現は悪いかもしれませんが、『親の心、子知らず』というものでしょう。
『目的が他にあるんでしょう?』この言葉を聞いて、これ、完全にミミ君の宿命です。参詣を促す他に私には目的は無いので、ミミ君がその他に「何かあるのでは?」と思うことは全てミミ君の世界です。当てはまらないと思いますが悪ければ「統合失調症」、そうでなければ被害妄想、仏法で言うなら軽い頭破七分、軽いものなら「気のせい」「誤解」「考え過ぎ」「思いすごし」「見当違い」これが人生を狂わせている正体です。
【悪くとる】ということ、
私は障害者であると同時に障害者の施設の支援員でもあります。人の慈悲、親切、優しさを、害と勘違いしてしまう、これが「センシティヴ」、過敏状態、【修羅】というものではないでしょうか。話の内容や道理よりも、ショックや驚きの方が先立ってしまう為、話にならないことが多いです。落ち着きは人の話を聞いて信じることから。
「善知識は落ち着きとなり、悪知識は迷いとなる。」
とりあえず彼の嫌疑は晴れた。
「悪意はない」とのことらしい。
しかし、恐らく彼は「自己意識の深層でくすぶっている怨恨の念を覚知していない」だけではないだろうか。
むしろ「できない」と言ったほうが正解なのかもしれない。
若しくは…、とこれ以上穿っても仕方がないし、もしそこまで「陰謀論」に拘るならば、確かにそこは彼の言う通り、「自意識過剰」の感は否めない。
「人の話を聞いて信じることから」との彼の言い分であるが、勿論、それが人間関係において大事な要素であることは認識している。
ただし、万事がというわけにもいかない。また程度の問題もあるだろう。
人生においては「性悪説的」な視点を持つことも重要だ。
頭ごなしに信じるのではなく、きちんと物事を対象化して、分析を加えて、事実確認といったプロセスを踏むことは、欺瞞が闊歩する現代において、有効且つ必要な護身術だ。
もし僕が「悪意」の方を盲信的に思い込んで、そういった誤解を受け入れる心がなかったならば、それは問題だろう。
しかしその前に、結果として誤解を与えてしまう彼自身の言いぐさに対して省察の余地はないのだろうか。
相変わらず統合失調症とか言っている。
もうこの人と交わるのはやめよう。
このメールが決定打となった。
そして以下が僕から彼へ向けた最後の返信内容となる。
残念ですが、貴方のお話を聞いて、
全くお寺に行きたいとは思えませんでした。
それどころか、貴方が現在全く知るべくもない妻と比べて僕の信心はどうだとか、 僕のことを精神疾患だと決めつけるような物言いを受けて、 貴方のことを一層嫌いになりました。
彼とメールのやり取りをして、それでも彼に好意を懐ける寛容な人物がもしこの世に存在するならば、一度爪の垢を煎じて飲ませてもらいたいものだ。
彼はお寺に通って一体何が得られたのだろう。
勿論彼にしてみればその間、意義深いことは多々あったかもしれない。
しかし人として、どれ程の成長があったかどうかというと、そこは非常に悩ましい。
その後、彼から「それは失礼」みたいなメールが返ってきたが、もう返す気は起らなかった。
僕がお寺を去った後。
僕がお寺を去って程なくして、お寺の経理を任されていた役員が詐欺行為で嫌疑にかけられたという話が舞い込んできた。
それを事業家である他の役員が保釈金2000万円を用意したことで、どうにか事なきを得たようである。
代わりに全額を負担したのか、貸したのか、一部を負担したのかは定かではないが、放っておけばお寺の沽券に関わるとの理由で渋々許諾したのではないかと思われる。
どんな悪事を働いたはわからないが、およそ六根清浄の果報を享受する者の所業とは思えない。
またこんな話も。
御授戒を受け、信心が堂に入ってきたある信徒に対し、住職がその彼の「事業が安定してきた」のを見て、まさに好機を逃さんとばかりに、普段の供養の金の「増額」を催促したそうだ。
聞くところに拠れば単位は「満額」というのだから驚きを禁じ得ない。
SPONSORED LINK
組織との「関わり方」
僕、個人としては「組織」というものに大した重要性を見い出すことはできない。
あくまで二義的な存在であって、必要とする人が関われば良いというだけの話である。
しかし、貴方にとって果たして、本当に、「組織」は必要なのだろうか。
勿論必要な人もいるだろう。ただ、こうして僕の書いた取り留めのない文章をここまで読み進めてくれた、その理解力と探求心を具えた一宗教者の読者さんにおかれては、少なくともそういった思索に全く無縁であるとは思っていない。
そもそも組織とは宗教の成り立ちからして、後発だ。
起源に遡ればその理由は明白で、鶏が先か、卵が先かは良くわからないが、信仰においては常に教祖が先で教団の形成は事後的なものだ。
要するに、まず高尚な教祖の存在があって、慕う者達が周囲に集まってくる、その時点ではまだ系統だった組織の体の構築には至らない。
当然、組織が体系化されるのは教祖がこの世を去った後になるわけで、そこに人は勝手に神意なり仏意なりを付加させて、権威の確立が図られる。
それに合わせたロジックを仕立て上げたら、その後のベクトルとしては例外なく教線の拡大に努めるだけだ。
動いていないと死んでしまうマグロみたいに、教団営為というのは緩慢な成長率を維持していないと低迷し、他に淘汰されてしまう。教団にもライフサイクルというものがあるのだ。
元来の「教え」に価値があって、本当に必要とする人がいるならば、そこにあえて「教団に従属する教え」を「新たに創造」する必要はない。
例えば本尊など「必要最低限」な物理的信仰対象を護持するために資金が不足したならば、宗教法人は本来「公益性」を謳うが故にその認可を取得しているわけだから、公的な呼びかけを行うべきである。
手法はクラウドファンディングでも良いし、募金箱の設置でも良い。
公的な価値を存するものであれば、人々の理解を得るのに難渋しないはずだ。
資金が集まらなければ、即ち需要がないということだから、消滅するのが自然の摂理ではないか。
また所持する当人も謙虚であるべきだ。私益を求めてはいけない。もし所持する人間が相応しくないということであれば、信奉者の署名を集めるなりして、まずは譲渡の圧力をかけてみれば良い。
ただ、そもそもそこまで即物的な信仰というのも如何なものかと思う。肝心なのは「教え」そのものであるべきなのだ。
教えを護るのにわざわざ何千人もの体制とそれを支えるシステムの存在は完全に無意味である。
また大勢擁したからといって、教義の変遷を免れるかと言えばそうとも言い切れないはずだ。
信仰に絢爛豪華な施設は本当に必要なのだろうか。
「人格」と「言語」と、そして「生存環境」あれば十分ではないか。あえて「ムード」を求めなければ、公園や何なら道端でも良い。
維持し続けることよりも、思い切って棄ててしまう方がずっと難しいことだって世の中には沢山あるのだ。
また、そうすることでかえって大事なものが見えてきたりする。断捨離だ。
元来、出家者というのは托鉢に依って命を繋いでいた。
(勿論、今でも他国に目をやれば、そのような出家者は沢山存在しているわけだが)
人々の供出が無ければ、死ぬしかない。そういう緊張感がなければ出家というものは本来務まるものではないのだ。
しかも原初的な仏教において出家の意味を紐解けば、それは仏陀という悟りの境地を得るための手段であって、その「志」が立派だから、自然と民衆の敬意を集め、援助が得られるという図式が成り立つわけであって、
その理屈に従えば、在家も成仏できると説く大石寺の教義では、あえて出家者に限定して供養を捧げる必要がないわけだ。
在家でも悟りを得るために一生懸命仏道修行に励む者がいたならば、その者に対して供養を与えない理由が見当たらない。
出家システムが現代の社会的背景にそぐわないのであれば、その存在意義を改めて問い直さなければいけないのではないか。
問い直すというのは、完全に消滅すれば良いというわけではない。
機能性を失った部分を削ぎ落して、現代に適合させていく姿勢が重要なのであって、
その気概もなく、安住に堕す姿がそこにあったならば、おいそれと供養を差し出さない勇気や覚悟、果たして本当に供養に値するかどうか、信奉者の側も適切な判断を下すための知性を養うことも重要な「務め」ではないだろうか。
もしそういった意識が欠如しているのであれば、それこそ茫洋で、稚拙で、未熟な信仰営為であるとの叱責を免れるものではない。
勿論、あなたの信仰対象が、あなたの人間的成長を励行する性格を宿していれば、の話ではあるが。
読者さんの中で、「お寺のお坊さんの話を真剣に傾聴しているから間違うことなどない」と言って憚らない法華講員にお伝えしたのは、供養してもらう側というのは常に努めて正当化を図るということだ。人は誰も自分に不利になるようなことは進んで言及しようとは思わない。
例えば選挙で、その人物に票を入れようと決めている者の演説のみを聴いて投票に行くようなものである。
どんな論理でも一見正しそうに聴こえるわけだ。比較対象に触れなければそのロジックを見抜くことは難しい。
陰謀論などもそうだ。彼らは熱烈にそのことを信じているから、「社会の構成」に疎ければ疎いほど、もの凄く正しそうに聴こえてしまう。
反証を取り入れず、吟味を怠れば、人は全然価値の無いような情報にさえ簡単に労力を割き、散財も厭わない、ということは良くある話である。
僕がお寺に一銭も落とさない覚悟を決めているのは、ある種のボイコットなのかもしれない。
「御寺様信仰」への反逆である。
第一、面白くないのだ。中身の希薄な話を引き延ばして、しかも、それで全然解らなかったけど、耳から功徳が入ってくるから大丈夫などと言って、あとはお茶を飲み交わしながら談笑して終わりなどというところに用事はない。
まるで切迫感がない。
現在主たる構成員である老齢者たちがこの世を去ったら、あとは一体何が残るというのだろうか?
御寺信仰者は、もし寺院の運営が困窮して取り潰されるような事態に直面したら、たちまちに信仰を失うのだろう。信仰の対境を失うのだから当然である。
信仰者の会話というのは寺院の存在が絶対条件なのだろうか。
しないことは、ただ「しない」ということではない。
しないことを「している」のである。
もし本当に「すること」に対して相応の価値が認められる日が来るのであれば、その時は自ら進んで、その「したいこと」を「する」だろう。
読者の中に、もし顕正会や創価学会を辞めて日蓮正宗の信徒になったという方がおられたならば、考えてみてほしい。
それは貴方が顕正会や創価学会を辞めようと思ったとき、一体どのような考えを起こしたのか、ということである。
どのような考えを以て自分の未来を拓いたのか、そのことを常に忘れてはいけないと思うのだ。
最後に、
これだけの悪態を呈していながら、新年を迎える折には、さて、自宅の御本尊にご挨拶を、との思いが自然と湧く。
全く以て、信仰とは不思議な現象である。
こんにちは。
今回のシリーズ、全て拝読させて頂きました。
私が辞めた理由と共通点がありましたね。
私の場合、御本尊を下附されていなかったので繋ぎ止めるものが無かったというのも理由の1つです。
>出家システムが現代の社会的背景にそぐわないのであれば、その存在意義を改めて問い直さなければいけないのではないか。
それに対する答えを出したのが顕正会と創価学会なのでしょう。
私は学会畑を歩いたことが無いので、先方はどうだか分かりません。
が、では顕正会にお坊さんがいなかったから、何か不便なことがあったか?というと、無かったでしょう?
実はミミさんの今回の記事の中には、お坊さんからしてみれば地雷も含まれているのです。
>読者の中に、もし顕正会や創価学会を辞めて日蓮正宗の信徒になったという方がおられたならば、考えてみてほしい。
私の場合は“あっつぁブログ”のリスナー達や、その他アメブロ系武闘派の集中砲火を浴びて、止む無く下った次第です。
今から7年以上前は、「とにかく顕正会員・創価学会員のブログを潰せ!」という空気が蔓延していた時代だったでしょう?
潰されて止む無く宗門に行った者が、その後信心が持つのかというと、まあ私を見て頂ければ分かるということです。
そういった人間には最初から信心を持ち合わせていた者よりも、更に厚いサポートが必要になるんですが、誰もそんなことは気にかけませんでしたね。
やってらんね!となるわけです。
それにしてもミミさんとやり取りしたタイプの人、各支部に必ずいるものなんですね。
法道院にもいましたよ。
全く。育成とは何か、というのがてんで分かっていない。
私は日蓮正宗には2度と戻りません。
宗教が必要になったら、別の宗派に行きます。