少し前回の更新から間が空いてしまいましたが、今回僕から提起したい話題は先般Twitter界隈を中心に物議を醸した論題であるところの「遺体動画」の件にまつわる周辺事情についてです。
いやいや、お前。前回三編にも亘ってアホみたいな長文で、小難しい御託を並べて自己満独白劇を披露したにも関わらず、それでも尚飽き足らず、その話題を引っ張るつもりかよ!
はい。何か?
先頭はこちらから↓
日蓮正宗信徒の「臨終の相」の映像から、宗教と倫理について考える。
しかもさぁ。前回「これで終わり」とか言っておきながら、
しかも、文体がなぜか常体から敬体になってるし。
ただね。今回お話する内容は、前回までの当該問題の議論に当たり、その事実性を確認するための大前提に相当する重要度をはらんでおりまして、
この事実への語りを置き去りにして、前回までの記事僕がお伝えしたかった意図を理解してもらうなど読者にとって到底難儀極まりないことでありまして、
何で今までこの事実について僕が書きあぐんでいたのか、僕自身もさっぱり見当がつかないところでありまして、
その前にお送りしていた某法華講員とのメールの応酬についての連載記事は一体何処へ葬り去られてしまったのか、と読者に何か解せぬ思いを懐かせてしまうこの僕の節操の無さ、というのも紛れもない事実なのであります!
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Index
臨終の証拠に依拠される大聖人の御金言
で、結局何の話かというと、それは「千日尼御前御返事」に説示された臨終の相について大聖人が具に述べられた部分、即ち、
「女人の御罪は漆の如し南無妙法華経の文字は白物(おしろい)の如し人は臨終の時地獄に堕つる者は黒色となる上其の身重き事千引(ちびき)の石の如し善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども臨終に色変じて白色となる又軽き事鵞毛(がもう)の如しやわらかなる事兜羅緜(とろめん)の如し」
との一節について、現在、日蓮正宗当局がどのような扱いをしているのか??
僕の暫時の正宗活動家経験を交えながら、確認、考察を行っていきたいと思う次第です。
成仏という現証について
大石寺系教団には「三証」という、即ち、「理証(道理)」「文証」「現証」は、その教義的正当性、妥当性を担保するロジックとして、屋台骨のような極めて基本的位置付けたる機能を有しており、
つまり日蓮大聖人の仏法の構成を系統立てる際の絶対的前提条件として、その信条形成にあたり最も基礎的な役割を担っており、
信徒において欠くべからざる、しかも普遍的と信じるに値する概念として不動のポジションを獲得しているわけですけども、
とりわけ「現証」という条目は唯一可視的な性質を持つものとして、多くの、例えば顕正会員のような「おバ〇さん」にとっても、非常に明解で親しみやすく、信条を強化形成するための装置として教団側もその育成の場において最も強調され易く、その効果の面からも非常に重宝されている教学的要素といっても過言ではないわけであります。
その「現証」の極致として度々浮上してくるのが、上掲の一節の詳述に基づく「臨終の際の遺体の状態」の顕現であって、
このことは大石寺系教団、即ち日蓮正宗、創価学会、顕正会それぞれの母子、兄弟の底流として、一貫性を持つ共通信条として認識していたわけです。
そう、認識していたわけです。少なくとも二年程前までは。
実はそうではなかった!?
そのような固定観念をぶち壊し「開目」の好機を与えてくれたかけがえのない転換点は、僕がまだ法華講員に入講して間もない折のことでした。
その頃の僕は、「間違った顕正会の教え」から「正しい日蓮正宗の教え」に導こうと、縁のある顕正会員達をほだして回るのに躍起になっていた節がありまして、
しかしその多くは「空振り」という思うに任せない状況、つまり、「相手方の箝口令のおかげでコンタクトすら取れない」という事実に直面し、日々業を煮やしていたわけです。
そういった窮状の中で、唯一、蛮勇に富んだ一人の男が僕の電話に実に事も無げに応答してくれたのでした。
彼は、昔に僕が所属していた組織において「副長」という役位で活動していた人物で、殊更、教学力に秀で、確か教学三級試験などにおいて主席か二番手くらいで合格していたツワモノだったのです。
通話時間は1~2分程度のものでした。その際の彼の主張は以下の一点のみ。
「現在の日蓮正宗では千日尼御前御返事に示される『臨終の相』についての記述を公式的な教学入門書の類から削除してしまった。臨終の相を堂々と標榜できなくなってしまった今の宗門の姿は、御遺命たる国立戒壇を放棄して功徳が無くなってしまったことの証左である」
これを耳にしたとき僕の中に一瞬衝撃が走りましたが、すぐに「何を寝ぼけたことを!そのような難癖、すぐにでも証拠物を提示して覆してくれるわ!」
と高を括ると、通話が終了するやいなや、手持ちのあらいざらいの資料を引っ張り出して確認作業を始めました。
現在主に活用されている公的な資料に「例の一節」の記載がない!?
ところが、結論を言うと「無かった」んですよ。例えば最もポピュラーな「日蓮正宗入門」に、白くなるとか、鵞毛のように軽くなるとか、兜羅緜のように柔らかくなるとかいう記載がない。
日蓮正宗のHPの「千日尼御前御返事」の解説ページにも無い。
ということで所属末寺の住職さんに聞いてみたところ、
「そんなことあるはずがない!」
と確信に満ちた語気を含んだ様子で返答があり、すぐに住職さんも捜索に当たりました。
あった!でも‥。
それで、「有った」んですよ。
いや厳密に言うとそれは無かったということとほぼ同義だと思うんですけどね、
「法華講員の基礎教学」と、「信心の原点」とかいう確か「平成三年」くらいの発行物で、しかも前者においては暁鐘出版という‥(そこはお察し頂きたい)
平成三年って、まだあの池田さんのお粗末なスピーチがあった頃で、学会が解散に付されたか否かぐらいだったはず。古すぎる‥。それだけ遡らないと発見できなかったわけです。
てことは、取りも直さず、「当該遺文はいつの間にか表舞台から姿を消した」ということになりますよね。
いや僕はなると思います。いくら何でも古すぎる‥。
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千日尼御前御返事に示された一節の有効性を問う。
しかも住職さんの反応を見るに、その事実を認知していなかった。
若い住職さんですから、つまり水面下でひっそりと首脳部たちの間で、「あの御文はお蔵入りにしよう‥」ということになった可能性を示唆しているわけで、
もしそれが事実だとするならば、信徒や役位の低い住職さんたちが布教の際に当該遺文を使用する是非の問題に直結するにも関わらず、告知義務違反みたいな話になるわけで、
果たしてその首脳部の怠慢を看過して良いものかという話になってくるわけです。
そこで、「神秘のヴェールに包まれた、日蓮正宗宗務院」となるわけですよ。
勿論今回俎上に上がっている例の遺体動画↓
にも、映像の最後の方にしっかりと千日尼御前御返事の遺文が掲載されています。
ところでこの事実、僕が寡聞にして知らないということが往々にしてあり得るので、
もし閲読されている方のお手持ちの「大日蓮出版」の刊行物の中で遺体が白くなったり、鵞毛のように軽くなったり、兜羅緜のように柔らかくなるんだよ、と当該の一節を用いて教示している書籍があれば教えて下さい。
「臨終の証拠」は大石寺系特有の、「現証」を宣揚する際のアピールポイントだったのではないでしょうか。
それともやはり「創価学会の教義」だから、創価学会の破門と共に葬ってしまったのでしょうか。
もしそうだったとしても、一応釈明というか、説明責任を果たしてもらわないと、それでは軌を一にした教団営為を実現させることはできないと思います。
にも関わらず「異体同心」とか口先だけになってしまいますよ。
だったら、それは教義なのか教義じゃないのかはっきりしてくれ。
あ。もしかして「遺体童心」みたいな話になってるのかなぁ。
遺体が白くなる?軽くなる?柔らかくなる?バッカじゃねーの、わっぱどもめ!時代錯誤もほどほどにしたまえw と、高貴な袈裟をまとった偉いお坊さんたちが無知な信徒たちを見下していると想像すると悲しくなりますね。
私は過去に現役顕正会員とネットで対論したことがあるのですが、その時に、自分で用いていながら疑問に思ったことがあります。
顕正会では臨終の相の御金言を大事にしていて私も教わりました。
肌が白くなり、遺体が鳥の羽のように軽くなり、豆腐のように遺体が柔らかくなると、先輩を通して学んだものです。
ところが、顕正会未活動の時に日寛上人の「臨終用心抄」に出会ったとき、こんな教えに出会ったのです。
”他宗謗法の行者はたとえ善相有りとも地獄に堕つべきこと”
”法華本門の行者は不善相なれども成仏疑いなき事”
顕正会では、大聖人仰せの通りの修行をすれば誰もが臨終の相を現ずるとの意味で教えます。
ところが、日蓮正宗からすれば顕正会は”邪教(異流儀集団)”なのです。
それを説明するために持ち出すのが臨終用心抄なのですが。
これだと、大聖人様が何のために”臨終の相”を教えているのかわからなくなります。
もし、本当に顕正会で”臨終の相”が出て成仏するのであれば・・・
顕正会で成仏する現象を確認できなければ、無間地獄に行くことも確認できないのです。
何が言いたいか。
今の日蓮正宗では日寛上人の”臨終用心抄”のほうが都合がいいからだと思います。
恐らく他宗他門で成仏の相が出たときに嘘だと思われるのが嫌なのでしょう。