まず前回記事の結びの部分について振り返りつつ、本日の論旨に迫っていきたい。
(参照リンク 日蓮正宗の宗教倫理の独自性と、布教の非合理性について。)
(長かったけどこれで終わりだよー。)
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Index
教学の矛盾は解消すべきなのか?
まず、教義の矛盾を完全に解消するのは不可能だと思うし、する必要もないと思う。
確か正宗信徒のブロガー「カリン様」も最近の投稿の中で仰っていたと思うが、
いわゆる「宗教学」と「教学」には明確な差異がある。
僕はこの両者は「水と油」のようなものだと思う。
一見すると外観はあまり区別がないように思えるが、実は全然性質が違っていて、
まず、そこには互いに決して交わろうとしない力学が作用している。
信仰者は「火」になぞらえよう。
水は火を鎮める性質を持つが、一方で油を注げば火はいよいよ盛んに燃え上がる。
そして他者に燃え移るのだ。
最も上述の例えは完全に自論の域を出ないものであるが、どうだろう、それなりに良い線ではなかろうか。
そしてこの例えのポイントは「火」は絶対に「水」には勝てないということだ。
初めから勝てない戦にわざわざ挑む必要はないのである。
言行一致?
ただし、布教の現場レベルにおける矛盾、つまり帰属の教団の意向にそぐわない行為は鋭意、解消していく必要があるだろう。
つまりこういうことだ。
日蓮の遺文に、「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(崇峻天皇御書)
というものがある。
恐らく諳んじている信徒も多いと思われる有名な一節だ。
ところが今回、例の「臨終の相」の動画に際して、
「人の振舞いとしてどうかと思う」
との旨の意見が外部からもさることながら、宗の内部においても声が挙がるなどという、およそあるまじき事態を招いているのである。
なぜこのようなことが起きたのか?
起きてしまったものはしょうがない。とはいえ、この件は料簡物として宗内で扱っていかなければ、「学び」というものがないではないか。
つまり、宗務院側が、矢面に立たされている現場の布教者に対し、用いる手法の確実性を担保するロジックを再確認したり、あるいは脆弱性が認められれば再構築をし直す必要性。
これを指導者の責務として強く認識しなければならないはずなのだ。
いの一番に取り組むべきは、議論の蓄積と、その先にある宗内合意。
このことを疎かにして外部への働き掛けは始まらない。
合意を得るということは、宗内の反対因子をも唸らせるような系統立てられた論理が、宗規に沿ったプロセスを踏んで構築されるということだ。
更に強調したいのは、その過程、経過も信徒にきちんと開示するべきだということ。
勿論、行き過ぎた布教行為は、本人の至らなさ故の不始末ということも十分あり得るし、
あるいは訝しさを感じた同宗内信徒側にとってあずかり知れない、ローカルなルールの存在があるかもしれない。
しかし前者のケースを今回の「遺体動画騒動」に照らし合わせてみた場合、果たして本当にそうなのか、それとも「宗務院」が容認しているのか、
どちらなのか見当がつかない。
ここに今回テーマとなっている「遺体動画」問題の気持ち悪さがあるのだ。
容認しているなら、「宗務院」もその責任を全面的に担っているのだから、問題に対処するのが「正しい団体」の取るべき処置だ。
しかし「宗務院」の既知の範疇ではない、というのなら同じ在家が容喙して糺すことのできる「仕組み」と、その機運を作るべきだろう。
この「仕組み」に不可欠な情報材料が先程強調した箇所、つまり、宗旨、宗是の形成に至るまでの「機微の部分」なのだ。
ここが不透明ではいけない。
「民主化したから国立戒壇は撤廃」と言うわりに宗内の民主化は遅々として進んではいないのである。
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似たような構造を持つ社会問題。
感情に任せた声が横行する中、可及的速やかに意見の収拾が求められているのは、
今世間で注目を集めている「核禁止条約」の制定に向けた会合の是非に、日本が反対の意を示した事案についても同様のことが言える。
御多分に漏れずご存知の方も多いと思うが、少し概要に触れてみたい。
この条約はオーストラリアなど核を保有しない国が主に主導してきた経緯がある一方で、
核保有国たるアメリカ、ロシア、イギリス、フランス等は自国の安全保障に基づいた影響力の減退への懸念から、反対を表明しているのだ。
日本は核被害を被った希有の国家だ。
だから、あの凄惨な事態が二度と起こらないよう、非核三原則を打ち立て、世界に核の非人道性を声高に訴えてきたのである。
ところが今回、核禁止の機運に同調しないどころか、反対する姿勢を国際社会に示したことで、国民から非難の声があがっているというわけだ。
その理由は言わずもがな、であるが、日本は戦後長らくアメリカの「核の傘」に庇護されてきた。
西に目をやれば、中国は核武装化を増強しているし、北朝鮮の開発にも脅かされている。
当初、慎重を期する意味で当該条約の会談に「棄権」する姿勢を取るかに思われたが、堂々と反対を言い切ってしまった。
アレルギーではいけない。
国家安全保障の問題は日本人によって今後大いに議論されるべきテーマであって、
非人道的→だから絶対ダメ
という単純な図式を根幹から見直す必要性に迫られている。
そもそも核抑止力は実利的か。アメリカの一極構造が瓦解した今、日本はどういうスタンスで国際社会と付き合っていけば良いのか。
大きなうねりが起きる中で、ただ「やだ!」という稚拙な感情論を振りかざしていては世界に渡り合うことはできないのかもしれない。
このまま「核アレルギー」体質でいては置いてきぼりの憂き目を見ることになりそうだ。
脆弱な論理じゃ説得力がない。
核兵器反対は大いに結構だし、僕も核兵器なんかこの世から(技術も含めて)消えて無くなれば良いのにと強く思っている。
しかし、「なぜ反対なのか?」、その論理の妥当性において保有国側に分がある状況であれば、実効性のある議論といってもなかなか捗が行かないというものだ。
要素を互換してみよう。
少し主たる話題から逸脱したような気がするが、うん気のせいだ。
しかしどうだろう、先般多くの国民の耳目を驚かせた「核禁止条約」の件と、今回テーマとして扱っている「遺体動画」の件は、何となく構造が似ていないだろうか?
Twitter上では、人気俳優の渡辺謙と実業家の堀江貴文氏との間で見解の応酬があったそうだが、
もしここまでの間に、もっと行政の懸案や思念が国民に浸透していたら、
更に、それをたたき台にした闊達な議論の蓄積が国民達の間にあったならば。
国政も求心力を失うこともなかっただろうし、国民の間にも軋轢を生まずに済んだのでは‥
いや、意見の対立は須らく起こる。が、しかし、そこではもっと高次の議論が展開されるはずである。
相克によって質の良いものが生み出されるとヘーゲルなんかも言っている。
教団暴走の抑止力。
基軸が心許ない感情論は振れ幅も大きい。
その是非を担保する論理が形成されていない、精査、洗練されていない脆弱な体系のまま走っているものは、極端な方向へと暴走する危険性をはらんでいるのだ。
教団のベクトルも全く同じことが言えると思う。
かつてのオウムも結構メディア受けの良い側面もあったりして、彼らの活動に賛辞を与えた宗教学者もちらほら存在した。
しかし継ぎ接ぎの教義体系は様々な矛盾に耐えうる安定性を欠いたまま走り続け、あの陰惨な事件を勃発するに至ったのである。
まとめ。(あまり期待が持てない日蓮正宗の今後の行方。)
あの「日蓮正宗 臨終の相」の遺体動画は世間から顰蹙を買うだけでなく、布教に一役買っているという側面も少なからずあると思う。
しかしそれは、わずかながらでも日蓮正宗の教えに「信」のある人間に限定されるはずだ。
であれば、その映像は必ずしも「一般公開」でなくとも、存分にその威力は保障されるに違いない。
ネットコンテンツは言わば布教における「最前線」である。
宗外との関係においてその接点となる以上、矢面に立たされる自覚と認識、反駁があった際の準備を怠ってはならない。
しかし、自覚も認識もなく、未だ準備が不用意な段階であるならば、あまりにインパクトのデカいものは引っ込めておくのが吉である。
準備とはまさしく議論の蓄積であるが、その基とすべき情報が開示されていなければ吟味どころの話ではない。
首脳部の間ではこれこれこういう経緯で意見の一致に至りましたよ、という事の次第が不透明過ぎるのだ。
世間の反発を買うかもしれないが、宗祖のこれこれという言葉に照らし合わせて、宗規のこれこれという条文にも背馳せず、これこれという前出のスローガンの障りになるやもしれないが、結果的にこれこれの意義はそれよりももっと超絶重大なことだという合意に至り、良しとしました。
みたいな。
それなら信徒の側も、これこれこーゆー理由でお墨付きの手法なのだと強気に出ることができる。
それは住職さんが良いんじゃない?と言っていた、などというレベルのものではなく、キチンと「宗務院」が踏み入って認可を与える構造がなければ、今回問題に取り上げた「遺体動画」だけにとどまらず、他にも問題は頻発すると思う。
瑣末で軽微な問題は放っておく主義なのかもしれないが、そういう小さな問題の累積が大きな問題の温床になるし、まして外に向かって積極的な布教をする団体なのだから、そう内向的な性格では大きな信用など到底築くに及ばない。
「あそこは遺体の顔をこれ見よがしに宣伝し、悦に入っている奇矯な教団だ」
と世間から揶揄される自覚と覚悟と準備が果たして「宗務院」の方にあるのかどうか?
もしそうだというのなら、それはどのような議論を経て認可に至ったのか?
そのことを内部に示さなければ、宗務院も求心力を失うし、意見の対立も起きるわで何も良いことはないのである。
問題にぶち当たった時、初めてそれまで感情と成り行きに任せてなおざりにしていた側面が噴出し、露呈してくる。
教団を拡充していく気が本当にあるのであれば、在家間での闊達な議論を「認める」機運を大事に育てていかなければならない。
あるいは、特権主義のぬるま湯に浸かっている高僧がそれを阻むのであれば、彼ら自身が信徒に納得のいくものを明示し、筋の通った教団営為を作り上げていかなければならない。
どちらも出来ないというのなら、残念ながら暗澹たる未来が教団を待ち受けていると言わざるを得ないのである。
おわり。
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